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第一話 契約婚の命
しおりを挟む後宮の北端にある祓堂は、昼でも薄暗かった。
香の煙が低く漂い、古い柱には無数の札が貼られている。ここは華やかな後宮の中で、もっとも人が近寄らない場所だった。
紗月はその中央に膝をつき、静かに頭を垂れていた。
「下級巫女・紗月。命を下す」
上座に座る女官長の声は、冷えた水のように淡々としている。
「――はい」
短く答えながら、紗月は内心で身構えた。
ここに呼ばれる命令は、決まって厄介事だ。強い怪異の鎮め、失敗すれば命はない仕事。あるいは、誰も引き受けたがらない“穢れ役”。
だが、次に告げられた言葉は、どれよりも予想外だった。
「汝は、北境軍将・玄耀の正妻となれ」
一瞬、耳に入った音の意味が理解できなかった。
「……え?」
思わず顔を上げた紗月に、女官長は眉一つ動かさない。
「聞こえなかったか。鬼将軍・玄耀の妻になれという命だ」
祓堂の空気が、ひどく重くなった気がした。
――鬼将軍。
その名を知らぬ者はいない。
北境を守る最強の武将。人でありながら鬼の血を引き、戦場では一人で軍を壊滅させたという噂。冷酷無比、情を持たぬ化け物。人の妻など持てぬ存在。
そんな男に、嫁げと?
「なぜ……私が……」
声が震えた。
自分はただの下級巫女だ。血筋も後ろ盾もない。後宮の怪異を祓うためだけに使われる、取るに足らない存在。
「理由は三つある」
女官長は淡々と指を折る。
「一つ。玄耀は“鬼の気”が強すぎる。人の女では耐えられぬ」
「二つ。巫女であれば、その気を鎮められる可能性がある」
「三つ――お前は、失っても惜しくない」
最後の言葉は、あまりにも静かで、残酷だった。
紗月は唇を噛みしめる。
否定はできなかった。自分は、後宮にとって便利な道具に過ぎない。
「これは婚姻ではない。契約だ」
女官長は続ける。
「玄耀を人の理に繋ぎ止めるための“楔”。役目を果たせば、後宮での身分と安寧は保証しよう」
「……果たせなければ?」
「鬼に喰われるか、呪いに耐えきれず死ぬかだな」
祓堂に、香がぱちりと爆ぜる音だけが響いた。
紗月は目を伏せた。
怖くないと言えば、嘘になる。
だが、拒否権がないことは最初からわかっていた。
「――承知しました」
その言葉に、女官長は初めてわずかに安堵の息を吐いた。
「では、明日には輿入れだ。覚悟しておけ」
そうして、紗月は祓堂を追い出されるようにして出された。
*
夜。
自室で、紗月は小さな包みを膝に抱えていた。
中には、巫女として持つべき最低限の道具――護符、数珠、古い鈴。
どれも使い込まれ、色褪せている。
「鬼将軍の妻、か……」
ぽつりと呟く。
逃げたいと思わなかったわけではない。
けれど、逃げ場はない。後宮を出ることは、死を意味する。
ならば、やるしかないのだ。
相手が鬼であろうと。
噂がどれほど恐ろしかろうと。
自分は巫女。
怪異に向き合うために、生きてきた。
*
翌日、紗月は北境軍の屋敷へと連れて行かれた。
後宮から遠く離れた場所にある屋敷は、要塞のように無骨で、静まり返っている。
門をくぐった瞬間、肌が粟立った。
(……強い)
空気に混じる、異質な気配。
これは確かに、人のものではない。
広間に通され、待つことしばし。
足音もなく、男が現れた。
黒い装束に身を包み、長身で、鋭い眼差し。
纏う気配は冷たく、だが荒れてはいない。
――この人が、鬼将軍。
紗月は自然と頭を下げた。
「……下級巫女の紗月にございます。本日より、あなた様の妻となるよう命を受けました」
沈黙。
やがて、低い声が落ちてきた。
「……怖くないのか」
思いがけない問いだった。
紗月は少し考え、正直に答える。
「怖いです」
しかし、続ける。
「けれど、命ですので」
再び沈黙が落ちる。
やがて、男――玄耀は、ほんのわずかに目を細めた。
「……そうか」
そして、静かに言った。
「ならば、約束しよう」
紗月が顔を上げる。
「これは政の命による契約だ。だが――」
玄耀の視線が、真っ直ぐに紗月を捉えた。
「お前は、怖がらなくていい」
低く、確かな声だった。
「俺が、お前を喰らうことはない」
その言葉に、胸の奥が微かに揺れた。
鬼将軍との契約婚。
それは、恐怖とともに始まった――
だが同時に、紗月の運命が静かに動き出した瞬間でもあった。
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