後宮祓いの巫女は、鬼将軍に嫁ぐことになりました

由香

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第二話 鬼将軍の屋敷


 鬼将軍の屋敷で迎えた最初の朝は、驚くほど静かだった。

 鳥の声すら遠く、風が庭の木々を揺らす音だけが微かに響く。
 紗月は用意された客間――いや、“妻の部屋”と呼ばれる一室で、ゆっくりと身を起こした。

(……生きている)

 それが、最初に浮かんだ感想だった。

 鬼に喰われるか、呪いに耐えきれず死ぬか。
 女官長の言葉が、まだ耳の奥に残っている。
 だが少なくとも、一夜を無事に越えた。

 部屋は質素だが、手入れが行き届いていた。
 装飾は最低限で、香も焚かれていない。
 まるで、誰かが“刺激を与えないよう”気を配ったかのようだ。

 ――気のせいだろうか。

 身支度を整え、廊下に出ると、すぐに女中が一礼した。

「お目覚めでございますか、奥方様」

 その呼び方に、胸が少しだけざわつく。

「……紗月で構いません」

「承知いたしました、紗月様」

 女中は淡々としているが、怯えの色はない。
 少なくともこの屋敷では、“鬼将軍”は恐怖の象徴ではないらしい。

「将軍様は?」

「すでに鍛錬場へ。朝餉の後、お時間を取られるそうです」

 そう告げられ、紗月は小さく頷いた。



 朝餉の席で、紗月は玄耀と向かい合った。

 無言の時間が流れる。
 食器の音すら控えめで、妙に落ち着かない。

 やがて、玄耀が口を開いた。

「……この屋敷での暮らしについて、伝えておく」

「はい」

「必要以上に、俺に近づく必要はない」

 紗月は一瞬、目を瞬かせた。

「お前が望まぬことはしない。契約は、あくまで“政のため”だ」

 淡々とした言い方。
 そこに拒絶の色はないが、距離を保とうとする意思が感じられる。

「……ありがとうございます」

 そう答えると、玄耀は僅かに視線を逸らした。

「ただし」

 低い声が続く。

「怪異に関しては、遠慮なく言え。この屋敷にも、“そういうもの”は寄ってくる」

 その言葉に、紗月は箸を止めた。

「……やはり、感じておられましたか」

 玄耀は小さく頷く。

「俺がいる限り、完全には防げん」

 鬼の気。
 それが強ければ強いほど、怪異は引き寄せられる。

(だから、巫女が必要……)

 改めて、この婚姻の理由を実感した。



 午前中、紗月は屋敷を案内された。

 鍛錬場、書庫、兵の詰所。
 どこも無駄がなく、実用一点張りだ。

 だが――

(……いる)

 庭に面した回廊で、足を止める。

 視界の端。
 柱の陰に、揺らぐ影。

「……失礼します」

 女中に断りを入れ、紗月は一歩前に出た。

 護符を指に挟み、静かに気を整える。

 影は、人の形をしていた。
 だが輪郭は曖昧で、顔はない。

「ここは、あなたの居場所ではありません」

 鈴を鳴らすと、影がびくりと揺れた。

 強い怨念ではない。
 おそらく、戦で死んだ兵の残滓だろう。

「……還りなさい」

 紗月が祝詞を唱えると、影はゆっくりと霧散していった。

 その瞬間――

「――今のは」

 背後から声がした。

 振り返ると、玄耀が立っていた。

「気づいていたのか」

「ええ。弱いものですが、放っておけば澱みます」

 玄耀は、しばらく庭を見つめていた。

「……すまない」

 思いがけない言葉に、紗月は目を見開く。

「俺のせいで、余計な役目を背負わせている」

 鬼将軍が、謝った。

 それは、後宮では考えられない光景だった。

「いいえ」

 紗月は、はっきりと首を振る。

「これは、私の務めです」

 そう言うと、玄耀は紗月を見た。

 深く、静かな眼差し。

「……お前は、不思議な巫女だな」

「そうでしょうか」

「ああ」

 ほんの一瞬、口元が緩んだ気がした。



 その夜。

 紗月は、自室で護符の手入れをしていた。

 昼間祓った影の感触が、まだ指先に残っている。

(この屋敷は……)

 危険だが、嫌ではない。

 そのとき、扉が静かに叩かれた。

「……入るぞ」

 玄耀の声。

「はい」

 入ってきた彼は、少し居心地悪そうに立っていた。

「昼の件だが……」

「はい」

「助かった」

 短い言葉。
 だが、確かに感謝が込められている。

「……お前が来てから、屋敷の気が落ち着いている」

 それは、巫女として何よりの評価だった。

「これからも、務めを果たします」

 そう答えると、玄耀は一度頷いた。

「――紗月」

 初めて、名を呼ばれる。

「無理はするな」

 それだけ言って、彼は部屋を出ていった。

 扉が閉まり、静寂が戻る。

 紗月は胸に手を当てた。

(……鬼将軍)

 噂とは違う。
 冷酷でも、恐ろしいだけでもない。

 この契約婚は、思っていたよりも――
 ずっと、穏やかな場所から始まっていた。




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