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第二話 鬼将軍の屋敷
しおりを挟む鬼将軍の屋敷で迎えた最初の朝は、驚くほど静かだった。
鳥の声すら遠く、風が庭の木々を揺らす音だけが微かに響く。
紗月は用意された客間――いや、“妻の部屋”と呼ばれる一室で、ゆっくりと身を起こした。
(……生きている)
それが、最初に浮かんだ感想だった。
鬼に喰われるか、呪いに耐えきれず死ぬか。
女官長の言葉が、まだ耳の奥に残っている。
だが少なくとも、一夜を無事に越えた。
部屋は質素だが、手入れが行き届いていた。
装飾は最低限で、香も焚かれていない。
まるで、誰かが“刺激を与えないよう”気を配ったかのようだ。
――気のせいだろうか。
身支度を整え、廊下に出ると、すぐに女中が一礼した。
「お目覚めでございますか、奥方様」
その呼び方に、胸が少しだけざわつく。
「……紗月で構いません」
「承知いたしました、紗月様」
女中は淡々としているが、怯えの色はない。
少なくともこの屋敷では、“鬼将軍”は恐怖の象徴ではないらしい。
「将軍様は?」
「すでに鍛錬場へ。朝餉の後、お時間を取られるそうです」
そう告げられ、紗月は小さく頷いた。
*
朝餉の席で、紗月は玄耀と向かい合った。
無言の時間が流れる。
食器の音すら控えめで、妙に落ち着かない。
やがて、玄耀が口を開いた。
「……この屋敷での暮らしについて、伝えておく」
「はい」
「必要以上に、俺に近づく必要はない」
紗月は一瞬、目を瞬かせた。
「お前が望まぬことはしない。契約は、あくまで“政のため”だ」
淡々とした言い方。
そこに拒絶の色はないが、距離を保とうとする意思が感じられる。
「……ありがとうございます」
そう答えると、玄耀は僅かに視線を逸らした。
「ただし」
低い声が続く。
「怪異に関しては、遠慮なく言え。この屋敷にも、“そういうもの”は寄ってくる」
その言葉に、紗月は箸を止めた。
「……やはり、感じておられましたか」
玄耀は小さく頷く。
「俺がいる限り、完全には防げん」
鬼の気。
それが強ければ強いほど、怪異は引き寄せられる。
(だから、巫女が必要……)
改めて、この婚姻の理由を実感した。
*
午前中、紗月は屋敷を案内された。
鍛錬場、書庫、兵の詰所。
どこも無駄がなく、実用一点張りだ。
だが――
(……いる)
庭に面した回廊で、足を止める。
視界の端。
柱の陰に、揺らぐ影。
「……失礼します」
女中に断りを入れ、紗月は一歩前に出た。
護符を指に挟み、静かに気を整える。
影は、人の形をしていた。
だが輪郭は曖昧で、顔はない。
「ここは、あなたの居場所ではありません」
鈴を鳴らすと、影がびくりと揺れた。
強い怨念ではない。
おそらく、戦で死んだ兵の残滓だろう。
「……還りなさい」
紗月が祝詞を唱えると、影はゆっくりと霧散していった。
その瞬間――
「――今のは」
背後から声がした。
振り返ると、玄耀が立っていた。
「気づいていたのか」
「ええ。弱いものですが、放っておけば澱みます」
玄耀は、しばらく庭を見つめていた。
「……すまない」
思いがけない言葉に、紗月は目を見開く。
「俺のせいで、余計な役目を背負わせている」
鬼将軍が、謝った。
それは、後宮では考えられない光景だった。
「いいえ」
紗月は、はっきりと首を振る。
「これは、私の務めです」
そう言うと、玄耀は紗月を見た。
深く、静かな眼差し。
「……お前は、不思議な巫女だな」
「そうでしょうか」
「ああ」
ほんの一瞬、口元が緩んだ気がした。
*
その夜。
紗月は、自室で護符の手入れをしていた。
昼間祓った影の感触が、まだ指先に残っている。
(この屋敷は……)
危険だが、嫌ではない。
そのとき、扉が静かに叩かれた。
「……入るぞ」
玄耀の声。
「はい」
入ってきた彼は、少し居心地悪そうに立っていた。
「昼の件だが……」
「はい」
「助かった」
短い言葉。
だが、確かに感謝が込められている。
「……お前が来てから、屋敷の気が落ち着いている」
それは、巫女として何よりの評価だった。
「これからも、務めを果たします」
そう答えると、玄耀は一度頷いた。
「――紗月」
初めて、名を呼ばれる。
「無理はするな」
それだけ言って、彼は部屋を出ていった。
扉が閉まり、静寂が戻る。
紗月は胸に手を当てた。
(……鬼将軍)
噂とは違う。
冷酷でも、恐ろしいだけでもない。
この契約婚は、思っていたよりも――
ずっと、穏やかな場所から始まっていた。
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