『雪嶺後宮と、狼王の花嫁』

由香

文字の大きさ
2 / 6

第二話 雪祭りと、後宮に降る呪い

しおりを挟む

 雪は、止む気配を見せなかった。

 都ではすでに春を迎える頃だというのに、後宮の庭園には白が積もり、凍てついた枝が音もなく軋んでいる。女官たちは足早に回廊を行き交い、誰もが不安を隠そうとしなかった。

「また、眠りに落ちた妃が出たそうです」

「今度は南殿ですって……」

 囁き声は、風よりも冷たくセツナの耳に届いた。

 彼女は離宮の一室で、静かに祈りの支度をしていた。雪嶺から持ってきた護符と鈴、白布。華やかな後宮の調度品の中で、それらはあまりにも質素で、異質だった。

「巫女。陛下よりお達しだ」

 宦官が訪れたのは、昼下がりだった。

「今宵、雪鎮めの儀を行う。お前が執り行え」

 その言葉に、セツナの手が止まる。

「……雪鎮め、ですか」

「そうだ。雪嶺で行っているのだろう?呪いを鎮める祭りを」

 宦官の声には、疑いと期待が混じっていた。
 信じてはいないが、縋るしかない——そんな響き。

「形式だけでよろしい。後宮のやり方に合わせる」

 それを聞いた瞬間、胸の奥が、ひやりと冷えた。

「……恐れながら申し上げます」

 セツナは静かに言葉を選ぶ。

「雪嶺の雪祭りは、呪いを抑えるための儀ではございません」

「では何だ」

「神と——伴侶を結ぶ、婚礼の儀です」

 宦官の眉がひそめられた。

「巫女が、神と婚姻するだと?」

「はい。雪嶺では、狼神に巫女が嫁ぎ、雪と命の循環を守ります」

 沈黙が落ちる。

 やがて宦官は鼻で笑った。

「やはり迷信だな。だが構わぬ。婚礼だろうと何だろうと、雪が止めばよい」

 ——歪められる。

 その感覚に、セツナの背筋が震えた。

 夜。

 後宮の中央庭園には、雪鎮めの儀のための祭壇が設えられた。絹の幕、香、金の器。どれも豪奢だが、本来あるべきものが、決定的に欠けている。

 セツナは白布を纏い、祭壇の前に立った。

 皇帝をはじめ、重臣や妃たちが見守る中、彼女は鈴を鳴らす。
 祝詞を唱えた瞬間——。

 風が、逆巻いた。

 雪が、空から叩きつけるように降り始める。

「……なに?」

 庭園の池が、みるみるうちに凍りついた。
 木々の枝が音を立てて裂け、女官たちの悲鳴が上がる。

「違う……これは……」

 セツナは気づいた。

 これは呪いではない。
 怒りですらない。

 深い、深い喪失の嘆き。

 胸の奥が、焼けるように熱くなる。
 同時に、あの気配が——地下から、はっきりと立ち上ってきた。

 ——返せ。

 ——奪うな。

 言葉にならない声が、直接、血に響く。

 セツナは思わず膝をついた。

「巫女!何をしている、早く鎮めよ!」

 誰かの叫びが遠くに聞こえる。

 だが彼女の視界には、もう後宮は映っていなかった。

 雪嶺の夜。
 焚き火。
 白い狼の瞳。

 ——約束した。

 誰かと、確かに。

「……これは、奪われた婚礼です」

 セツナの呟きは、風にかき消された。

 次の瞬間、祭壇の石が、ひび割れた。

 地下から響いたのは、先日聞いた遠吠えよりも、はるかに近い声。

 恐怖に包まれる後宮の中で、ただ一人——
 皇帝だけが、セツナを見つめていた。

 その瞳に浮かんだのは、驚愕と、理解。

「……封じられているのか」

 低い声が、夜に溶ける。

 雪はやがて弱まり、儀は中断された。
 だが、呪いは鎮まっていない。

 それどころか、目覚めかけている。

 離宮へ戻る途中、セツナは確信していた。

 この後宮の雪は、鎮められることを望んでいない。

 ——取り戻されることを、望んでいる。

 地下深く。
 封じられた存在が、彼女を待っている。

 そしてその存在は、彼女を「巫女」とは呼ばない。

 花嫁と、呼ぶ。




しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

『後宮に棲むは、人か、あやかしか』

由香
キャラ文芸
後宮で消える妃たち。 それは、あやかしの仕業か――人の罪か。 怪異の声を聞く下級女官・鈴華と、 怪異を否定する監察官・凌玄。 二人が辿り着いたのは、 “怪物”を必要とした人間たちの真実だった。 奪われた名、歪められた記録、 そして灯籠に宿るあやかしの沈黙。 ――後宮に棲むのは、本当に人ならざるものなのか。 光と闇が交差する、哀切の後宮あやかし譚。

『後宮祓いの巫女は、鬼将軍に嫁ぐことになりました』

由香
キャラ文芸
後宮で怪異を祓う下級巫女・紗月は、ある日突然、「鬼」と噂される将軍・玄耀の妻になれと命じられる。 それは愛のない政略結婚―― 人ならざる力を持つ将軍を、巫女の力で制御するための契約だった。 後宮の思惑に翻弄されながらも、二人は「契約」ではなく「選んだ縁」として、共に生きる道を選ぶ――。

下っ端妃は逃げ出したい

都茉莉
キャラ文芸
新皇帝の即位、それは妃狩りの始まりーー 庶民がそれを逃れるすべなど、さっさと結婚してしまう以外なく、出遅れた少女は後宮で下っ端妃として過ごすことになる。 そんな鈍臭い妃の一人たる私は、偶然後宮から逃げ出す手がかりを発見する。その手がかりは府庫にあるらしいと知って、調べること数日。脱走用と思われる地図を発見した。 しかし、気が緩んだのか、年下の少女に見つかってしまう。そして、少女を見張るために共に過ごすことになったのだが、この少女、何か隠し事があるようで……

『後宮薬師は名を持たない』

由香
キャラ文芸
後宮で怪異を診る薬師・玉玲は、母が禁薬により処刑された過去を持つ。 帝と皇子に迫る“鬼”の気配、母の遺した禁薬、鬼神の青年・玄曜との出会い。 救いと犠牲の狭間で、玉玲は母が選ばなかった選択を重ねていく。 後宮が燃え、名を失ってもなお―― 彼女は薬師として、人として、生きる道を選ぶ。

下っ端宮女のひたむき後宮恋譚 ~前世の夢を追いかけていたらいつのまにか寵愛されていました~

紀本明
キャラ文芸
妃嬪から嫌がらせを受けつつも耐え忍んでいた下っ端宮女の鈴風(りんふぁ)はある日突然前世の記憶を取り戻す。料理人になるのが夢だった彼女は、今世でもその夢を叶えようと決意した矢先、ぼさぼさ頭の宦官・雲嵐(うんらん)と出会い、毎晩夕飯をつくることになる。料理人になるべく奮闘するも、妃嬪からの嫌がらせはひどくなる一方だった。そんなある日、事件が起こり、鈴風は窮地に立たされるが……――?

年下幼馴染皇太子が溺愛してくる

由香
恋愛
平民薬師アリアと幼馴染の少年・レオン。 再会した彼は、幼い頃の泣き虫ではなく、世界で最も強く、甘く独占欲に満ちた皇太子になっていた。 「アリア、もう離さない」――身分差を超えた初恋が、宮廷で激しく、甘く、そして切なく燃え上がる。 逃げても逃げられない、溺愛ラブストーリー。

【完結】後宮の才筆女官 

たちばな立花
キャラ文芸
後宮の女官である紅花(フォンファ)は、仕事の傍ら小説を書いている。 最近世間を賑わせている『帝子雲嵐伝』の作者だ。 それが皇帝と第六皇子雲嵐(うんらん)にバレてしまう。 執筆活動を許す代わりに命ぜられたのは、後宮妃に扮し第六皇子の手伝いをすることだった!! 第六皇子は後宮内の事件を調査しているところで――!?

烏の王と宵の花嫁

水川サキ
キャラ文芸
吸血鬼の末裔として生まれた華族の娘、月夜は家族から虐げられ孤独に生きていた。 唯一の慰めは、年に一度届く〈からす〉からの手紙。 その送り主は太陽の化身と称される上級華族、縁樹だった。 ある日、姉の縁談相手を誤って傷つけた月夜は、父に遊郭へ売られそうになり屋敷を脱出するが、陽の下で倒れてしまう。 死を覚悟した瞬間〈からす〉の正体である縁樹が現れ、互いの思惑から契約結婚を結ぶことになる。 ※初出2024年7月

処理中です...