雪嶺後宮と、狼王の花嫁

由香

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第三話 封じられた狼王

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 後宮の夜は、ひどく静かだった。

 雪鎮めの儀が失敗に終わってから、庭園に人影はなく、女官たちも最低限の灯だけを残して姿を消している。凍りついた回廊を歩くたび、セツナの足音だけがやけに大きく響いた。

 ——来い。

 はっきりとした声が、胸の奥で鳴った。

 もう、幻ではない。

 セツナは離宮の奥、誰も立ち入らぬ古い祠の前に立っていた。扉には幾重にも封印符が貼られ、古い血の匂いがかすかに残っている。

「……ここに、あなたがいるのですね」

 指先が、震えた。

 怖くないわけではない。
 だがそれ以上に、抗えない引力があった。

 護符を外し、扉に手を触れた瞬間——
 封印符が、音もなく燃え落ちた。

 扉の向こうは、階段だった。

 石を削って作られた、地下へ続く道。
 冷気は、雪嶺の夜と同じ匂いがする。

 一段、また一段。
 降りるごとに、心臓の鼓動が速くなる。

 最奥の扉の前で、彼女は足を止めた。

 そこに描かれていたのは、人でも獣でもない、狼の王の姿。

「……あなたを、知っている」

 そう呟いた瞬間、扉が開いた。

 中は、広大な空間だった。
 鎖が幾重にも張り巡らされ、その中心に、一人の男が立っている。

 長い黒髪。
 鋭い金の瞳。
 だが背後には、確かに——巨大な狼の影。

「遅かったな、セツナ」

 低く、深い声。

 名前を呼ばれた瞬間、胸の奥が、砕けるように震えた。

「……あなたは……」

「忘れたか?いや、忘れさせられたのだろう」

 男——狼王は、微かに笑った。

「我は雪嶺の守護者。人が狼神と呼び、妖が王と呼ぶ存在」

 セツナは、言葉を失った。

 恐怖よりも先に、懐かしさが込み上げる。

「……私は、巫女です」

「違う」

 即座に否定された。

「お前は、我が花嫁だ」

 その言葉に、世界が揺らいだ。

 次の瞬間、触れられてもいないのに、記憶が流れ込む。

 雪嶺の祭り。
 白布を纏った自分。
 狼の姿の彼。

 誓いの言葉。
 交わされた名。

 ——来世でも、必ず。

「……前世……?」

 膝が崩れ、セツナは床に手をついた。

「そうだ。人と妖の均衡を保つため、我らは契った。だが人の王はそれを恐れ、我を封じ、お前を人として転生させた」

 鎖が、きしりと鳴る。

「後宮の雪は、呪いではない。我が嘆きだ。奪われた伴侶を、取り戻そうとする魂の叫び」

 セツナは顔を上げた。

「……では、皇帝との婚姻は」

「器だ」

 冷たい声だった。

「人の国が均衡を保つための、ただの器。愛など、最初から存在しない」

 胸が、痛んだ。

 皇帝の眼差しを思い出す。
 あれは、利用のためだけのものだったのか。

「だが、お前が我を選べば——」

 狼王は、一歩踏み出した。

「この国は、お前を敵とする」

 鎖が、軋む。

「後宮も、人の秩序も、すべてを失う覚悟がいる」

 沈黙。

 セツナは、自分の手を見つめた。
 巫女として育てられ、選択を許されなかった人生。

「……それでも」

 顔を上げる。

「私は、真実を知ってしまいました」

 狼王の瞳が、揺れた。

「ですが、今すぐ答えは出せません」

 静かな声だった。

「人の世界も、妖の世界も、壊したくない」

 狼王は、しばらく彼女を見つめ、やがて低く笑った。

「相変わらず、欲張りだな」

 その声音には、愛しさが滲んでいた。

「よい。だが時は多く残されていない」

 彼は天を仰ぐ。

「雪がすべてを覆う前に、選べ。セツナ」

 その瞬間、地上から、足音が響いた。

 ——誰かが、封印に気づいた。

 セツナは振り返る。

 後宮も、皇帝も、彼女を手放すつもりはない。

 そして狼王もまた、彼女を離すことはない。

 選択の時は、すぐそこまで迫っていた。




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