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番外編 狼王、雪に花嫁を失う
しおりを挟む我が名は、もう人の世には残っていない。
雪嶺の守護者。
狼神。
妖王。
呼び名など、どうでもよかった。
ただ一つ——彼女が我を呼ぶ声だけが、世界のすべてだった。
雪嶺の夜は、常に静かだ。
風が氷河を渡り、星が近く、命の息遣いが大地に満ちている。
我は狼の姿で高原を巡り、雪と水と獣と人の均衡を保っていた。
人は我を畏れ、敬い、そして祈った。
——巫女を、捧げることで。
だが、彼女は違った。
白布を纏い、焚き火の前に立ったその娘は、恐怖よりも先に、好奇心の目をしていた。
「あなたが、狼神?」
人の娘にしては、あまりにも澄んだ声。
我が姿を見ても、逃げなかった。
祈りも、命乞いも、しなかった。
「……そう呼ばれている」
「なら、私はあなたの巫女ね」
彼女は、そう言って笑った。
それが、すべての始まりだった。
彼女の名は、セツナ。
人と妖の均衡を保つため、巫女として生まれた魂。
我はすぐに悟った。
——この娘は、捧げ物ではない。
伴侶だ。
雪嶺の婚礼は、血も涙も流さない。
ただ、誓う。
雪が巡る限り。
命が巡る限り。
来世に至るまで。
彼女は、誓いの言葉を一言も間違えなかった。
人の身でありながら、我が名を正しく呼んだ。
「次に生まれ変わっても、探してくれる?」
そう尋ねた夜、我は確かに頷いた。
「必ず」
その約束が、どれほど脆く、愚かで、人にとって都合の悪いものだったかを、我らは知らなかった。
人の王は、恐れた。
妖と巫女が対等に契ることを。
均衡が、己の支配を越えることを。
軍が来た夜、彼女は我の前に立った。
「逃げて」
震える声で、そう言った。
「私は、また生まれ変われる。でも、あなたは——」
「馬鹿を言うな」
我は吼えた。
だが、間に合わなかった。
封印は、卑劣で、巧妙だった。
彼女の魂を切り離し、記憶を奪い、我だけを、この地の底へ縛りつける。
最後に見たのは、連れ去られる彼女の背。
振り返り、確かに、我を見た。
——待って。
声にならなかった、その叫びを、雪だけが聞いていた。
時は流れた。
人の王朝が変わり、名が変わり、我は「呪い」と呼ばれるようになった。
雪が降るたび、我は彼女を探した。
魂の匂いを。
血の響きを。
絶望しかけた、その時。
後宮に、雪が降った。
——来た。
確信だった。
巫女として現れた彼女は、人の世に合わせて歪められ、それでも、魂までは奪われていなかった。
遠吠えを上げたあの夜、我は、再び誓った。
今度こそ、手放さぬ。
世界を敵に回しても。
そして彼女は、選んだ。
我だけを、ではない。
人の世だけを、でもない。
均衡という、最も困難な道を。
あの時と同じだ、と我は思った。
彼女はいつも、自分より世界を選ぶ。
だからこそ、我は彼女を、花嫁と呼ぶ。
雪嶺の高原で、彼女は笑っている。
その笑顔を、もう二度と、失わぬために。
我は今日も、雪と世界を守る。
——我が花嫁と共に。
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