2 / 5
第2話 本音を聞いてしまいました
しおりを挟むエマは、その日も静かに侯爵家の廊下を歩いていた。
ヴァルディス侯爵家に招かれるのは、もはや珍しいことではない。婚約者として、形式的な挨拶や報告のために定期的に訪れる。それだけだ。
――今日も、必要な用事を済ませたら、すぐに帰ろう。
そう思っていた。
レオンと顔を合わせることは、ほとんどない。時間をずらされているのか、意図的なのかはわからないが、会わないで済むなら、その方がいい。余計な期待をせずに済む。
「……?」
角を曲がったところで、エマは足を止めた。
奥の応接室から、声が聞こえたのだ。
「だから、いい加減にしろと言っている」
低く、抑えた声。
聞き覚えがある。
――レオン様。
思わず息を詰める。
盗み聞きするつもりはなかった。ただ、通りかかっただけだ。
「お前が距離を取っているから、エマ嬢が誤解するんだろう」
続いて聞こえたのは、レオンの親友――カイルの声だった。
エマの胸が、どくりと脈打つ。
「……誤解?」
「そうだ。社交界じゃ、もう色々言われてるぞ。『嫌われ令嬢』だとか、『形だけの婚約』だとか」
その言葉に、足元がぐらりと揺れた気がした。
――やっぱり。
自分の認識は、間違っていなかったのだ。噂は、確かに広がっている。
「放っておけ」
レオンの声は、冷たく聞こえた。
胸が、きゅっと縮む。
「放っておけ、って……本気で言ってるのか?」
「俺が何を言っても、あの人は俺を避ける」
「は?」
カイルの声が、素で驚いたように跳ね上がった。
「待て。今、何て言った?」
エマは、息を殺した。
「……エマは、俺を嫌っている」
一瞬、世界が止まったように感じた。
――え?
「最初から、そうだ。目を合わせない。話しかけても、すぐに距離を取る。俺と関わるのを、避けている」
「それ、お前が原因だろ!」
思わず、と言った調子でカイルが叫ぶ。
「お前が話しかけないからだろうが! 社交の場でも近づかないし、舞踏会でも放置! あれでどうやって『好意が伝わる』と思ってるんだ!」
「……好意?」
レオンの声が、わずかに揺れた。
エマの胸が、強く締め付けられる。
「当たり前だろ。婚約者だぞ?」
しばらく、沈黙が落ちた。
エマは、動けなかった。
今聞いた言葉を、頭が必死に理解しようとしている。
「……俺は」
ようやく、レオンが口を開いた。
「嫌われるくらいなら、距離を取った方がいいと思った」
その言葉に、エマの視界が滲む。
「嫌われているのに、無理に近づくのは……迷惑だろう」
――違う。
思わず、心の中で叫んだ。
嫌ってなんて、いない。
迷惑だなんて、思ったこともない。
ただ、自分が嫌われているのだと、思っていただけなのに。
「……はぁ」
カイルが、深いため息をついた。
「お前たち、揃いも揃って勘違いしすぎだ」
「……どういう意味だ」
「エマ嬢はな、お前に嫌われてると思ってる」
エマの喉が、ひくりと鳴った。
「は?」
「社交界じゃ有名だぞ。『婚約者に距離を置かれてる可哀想な令嬢』だ」
応接室の中で、何かが倒れる音がした。
「……そんな、はずは」
レオンの声が、明らかに動揺している。
「だって、彼女は――」
「お前が怖いんだよ」
カイルは、容赦なく言った。
「無表情で、話しかけもせず、避けるように距離を取られたら、誰だって『嫌われてる』と思うだろ」
長い沈黙。
エマは、胸に手を当てた。
心臓が、早鐘のように鳴っている。
――私と、同じことを思っていた?
レオンもまた、自分が嫌われていると、思い込んでいた?
「……彼女を嫌ったことなど」
レオンの声が、低く、震える。
「一度も、ない」
その言葉を聞いた瞬間、エマの目から、涙が溢れた。
声を上げないよう、必死に唇を噛む。
胸の奥が、熱くて、苦しい。
――そんなの、知らなかった。
嫌われていると思っていた。
だから、近づかなかった。
だから、身を引こうとしていた。
全部、全部、勘違いだったなんて。
「……俺は、どうすればいい」
レオンの声が、かすれていた。
「今さら、好意を示しても……迷惑じゃないだろうか」
「いいから、ちゃんと話せ」
カイルは、呆れたように言う。
「逃げるな。今度はお前から行け」
それ以上、聞いてはいけない気がした。
エマは、そっと踵を返した。
足音を立てないように、静かに、廊下を離れる。
胸の奥で、何かが、確かに変わっていた。
――嫌われてなんて、いなかった。
それどころか、同じように悩んで、距離を取っていただけ。
誤解が、すれ違いが、積み重なった結果。
それでも。
レオンの「嫌ったことはない」という言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
胸が、苦しいほどに温かい。
エマは、涙を拭い、小さく息を吸った。
――話さなければ。
逃げるのは、もうやめよう。
誤解が解けた今、次に進むかどうかは――自分たち次第なのだから。
その頃、応接室で一人立ち尽くすレオンは、まだ知らなかった。
エマがすべてを聞いていたことを。
そして、その誤解が解ける日は、思ったよりも近いということを。
11
あなたにおすすめの小説
私を簡単に捨てられるとでも?―君が望んでも、離さない―
喜雨と悲雨
恋愛
私の名前はミラン。街でしがない薬師をしている。
そして恋人は、王宮騎士団長のルイスだった。
二年前、彼は魔物討伐に向けて遠征に出発。
最初は手紙も返ってきていたのに、
いつからか音信不通に。
あんなにうっとうしいほど構ってきた男が――
なぜ突然、私を無視するの?
不安を抱えながらも待ち続けた私の前に、
突然ルイスが帰還した。
ボロボロの身体。
そして隣には――見知らぬ女。
勝ち誇ったように彼の隣に立つその女を見て、
私の中で何かが壊れた。
混乱、絶望、そして……再起。
すがりつく女は、みっともないだけ。
私は、潔く身を引くと決めた――つもりだったのに。
「私を簡単に捨てられるとでも?
――君が望んでも、離さない」
呪いを自ら解き放ち、
彼は再び、執着の目で私を見つめてきた。
すれ違い、誤解、呪い、執着、
そして狂おしいほどの愛――
二人の恋のゆくえは、誰にもわからない。
過去に書いた作品を修正しました。再投稿です。
【完結】無口な旦那様は妻が可愛くて仕方ない
ベル
恋愛
旦那様とは政略結婚。
公爵家の次期当主であった旦那様と、領地の経営が悪化し、没落寸前の伯爵令嬢だった私。
旦那様と結婚したおかげで私の家は安定し、今では昔よりも裕福な暮らしができるようになりました。
そんな私は旦那様に感謝しています。
無口で何を考えているか分かりにくい方ですが、とてもお優しい方なのです。
そんな二人の日常を書いてみました。
お読みいただき本当にありがとうございますm(_ _)m
無事完結しました!
亡き姉を演じ初恋の人の妻となった私は、その日、“私”を捨てた
榛乃
恋愛
伯爵家の令嬢・リシェルは、侯爵家のアルベルトに密かに想いを寄せていた。
けれど彼が選んだのはリシェルではなく、双子の姉・オリヴィアだった。
二人は夫婦となり、誰もが羨むような幸福な日々を過ごしていたが――それは五年ももたず、儚く終わりを迎えてしまう。
オリヴィアが心臓の病でこの世を去ったのだ。
その日を堺にアルベルトの心は壊れ、最愛の妻の幻を追い続けるようになる。
そんな彼を守るために。
そして侯爵家の未来と、両親の願いのために。
リシェルは自分を捨て、“姉のふり”をして生きる道を選ぶ。
けれど、どれほど傍にいても、どれほど尽くしても、彼の瞳に映るのはいつだって“オリヴィア”だった。
その現実が、彼女の心を静かに蝕んでゆく。
遂に限界を越えたリシェルは、自ら命を絶つことに決める。
短剣を手に、過去を振り返るリシェル。
そしていよいよ切っ先を突き刺そうとした、その瞬間――。
番探しにやって来た王子様に見初められました。逃げたらだめですか?
ゆきりん(安室 雪)
恋愛
私はスミレ・デラウェア。伯爵令嬢だけど秘密がある。長閑なぶどう畑が広がる我がデラウェア領地で自警団に入っているのだ。騎士団に入れないのでコッソリと盗賊から領地を守ってます。
そんな領地に王都から番探しに王子がやって来るらしい。人が集まって来ると盗賊も来るから勘弁して欲しい。
お転婆令嬢が番から逃げ回るお話しです。
愛の花シリーズ第3弾です。
【完結】ひとつだけ、ご褒美いただけますか?――没落令嬢、氷の王子にお願いしたら溺愛されました。
猫屋敷むぎ
恋愛
没落伯爵家の娘の私、ノエル・カスティーユにとっては少し眩しすぎる学院の舞踏会で――
私の願いは一瞬にして踏みにじられました。
母が苦労して買ってくれた唯一の白いドレスは赤ワインに染められ、
婚約者ジルベールは私を見下ろしてこう言ったのです。
「君は、僕に恥をかかせたいのかい?」
まさか――あの優しい彼が?
そんなはずはない。そう信じていた私に、現実は冷たく突きつけられました。
子爵令嬢カトリーヌの冷笑と取り巻きの嘲笑。
でも、私には、味方など誰もいませんでした。
ただ一人、“氷の王子”カスパル殿下だけが。
白いハンカチを差し出し――その瞬間、止まっていた時間が静かに動き出したのです。
「……ひとつだけ、ご褒美いただけますか?」
やがて、勇気を振り絞って願った、小さな言葉。
それは、水底に沈んでいた私の人生をすくい上げ、
冷たい王子の心をそっと溶かしていく――最初の奇跡でした。
没落令嬢ノエルと、孤独な氷の王子カスパル。
これは、そんなじれじれなふたりが“本当の幸せを掴むまで”のお話です。
※全10話+番外編・約2.5万字の短編。一気読みもどうぞ
※わんこが繋ぐ恋物語です
※因果応報ざまぁ。最後は甘く、後味スッキリ
『話さない王妃と冷たい王 ―すれ違いの宮廷愛
柴田はつみ
恋愛
王国随一の名門に生まれたリディア王妃と、若き国王アレクシス。
二人は幼なじみで、三年前の政略結婚から穏やかな日々を過ごしてきた。
だが王の帰還は途絶え、宮廷に「王が隣国の姫と夜を共にした」との噂が流れる。
信じたいのに、確信に変わる光景を見てしまった夜。
王妃の孤独が始まり、沈黙の愛がゆっくりと崩れていく――。
誤解と嫉妬の果てに、愛を取り戻せるのか。
王宮を舞台に描く、切なく美しい愛の再生物語。
【完結】探さないでください
仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
私は、貴方と共にした一夜を後悔した事はない。
貴方は私に尊いこの子を与えてくれた。
あの一夜を境に、私の環境は正反対に変わってしまった。
冷たく厳しい人々の中から、温かく優しい人々の中へ私は飛び込んだ。
複雑で高級な物に囲まれる暮らしから、質素で簡素な物に囲まれる暮らしへ移ろいだ。
無関心で疎遠な沢山の親族を捨てて、誰よりも私を必要としてくれる尊いこの子だけを選んだ。
風の噂で貴方が私を探しているという話を聞く。
だけど、誰も私が貴方が探している人物とは思わないはず。
今、私は幸せを感じている。
貴方が側にいなくても、私はこの子と生きていける。
だから、、、
もう、、、
私を、、、
探さないでください。
【完結】忘れてください
仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
愛していた。
貴方はそうでないと知りながら、私は貴方だけを愛していた。
夫の恋人に子供ができたと教えられても、私は貴方との未来を信じていたのに。
貴方から離婚届を渡されて、私の心は粉々に砕け散った。
もういいの。
私は貴方を解放する覚悟を決めた。
貴方が気づいていない小さな鼓動を守りながら、ここを離れます。
私の事は忘れてください。
※6月26日初回完結
7月12日2回目完結しました。
お読みいただきありがとうございます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる