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第3話 嫌ってなどいない
しおりを挟む翌日、エマは朝から落ち着かなかった。
昨日聞いてしまった言葉が、何度も頭の中を巡る。
――彼女を嫌ったことなど、一度もない。
レオンの低く、少し震えた声。
思い出すたびに胸の奥が熱くなり、同時に不安も湧き上がる。
もし、あれは一時の感情だったら?
もし、誤解だと気づいたから気を遣っているだけだったら?
期待して、また傷つくのが怖かった。
それでも。
逃げるのは、もうやめようと決めた。
「……エマ様?」
侍女のマリアが、支度をしながら心配そうに声をかけてくる。
「少し、緊張されているようですが」
「……ええ。大切な話があるの」
今日は、レオンと話す約束を取り付けていた。
自分から、だ。
手紙を書き、短く「お話したいことがあります」とだけ記した。それだけで、手が震えた。
返事は、すぐに来た。
『承知した。午後、庭園で』
簡潔で、いつも通りの文面。
けれど、その短い言葉の裏に、彼の迷いと覚悟を感じ取ってしまうのは――自意識過剰だろうか。
午後の庭園は、冬を越えたばかりの花々が、控えめに色づき始めていた。
エマは東屋の前で、両手を重ねて待つ。
ほどなくして、足音が聞こえた。
「……待たせてしまったか」
レオンだった。
「い、いえ。今来たところです」
視線が、自然と合う。
昨日よりも、近い距離。
それだけで、心臓がうるさく鳴る。
「……座ろう」
東屋のベンチに並んで腰を下ろす。
沈黙が、落ちる。
気まずい、けれど――逃げない沈黙。
最初に口を開いたのは、エマだった。
「レオン様……昨日のことですが」
言葉が、少し震える。
「私、偶然……お話を、聞いてしまいました」
一瞬、彼の身体が強張った。
「……どこまで」
「……全部、です」
レオンは、目を伏せた。
しばらく、何も言わない。
エマは、深く息を吸い、続ける。
「謝らせてください。私……ずっと、レオン様に嫌われていると思っていました」
「……」
「だから、距離を取ってしまって。話しかけるのも、怖くて……」
言葉にするほど、自分の臆病さが浮き彫りになる。
「ごめんなさい」
小さく頭を下げた、その瞬間――
「謝るのは、俺の方だ」
レオンの声は、はっきりとしていた。
エマは顔を上げる。
「君が嫌っていると思い込んでいた。近づけば、迷惑だと……」
苦笑するように、彼は続けた。
「結果として、君を追い詰めていたとは思わなかった」
胸が、きゅっと締め付けられる。
「……嫌ってなど、いません」
エマは、勇気を振り絞った。
「レオン様を嫌ったことは、一度もありません」
彼の目が、わずかに見開かれる。
「ただ……私は、愛されていないのだと思っていました」
言葉にしてしまえば、もう戻れない。
「婚約者として、必要とされていないのだと……」
震える指先を、ぎゅっと握る。
「……だから、身を引く準備までしていました」
沈黙。
次の瞬間、エマの視界が揺れた。
――抱き寄せられた。
「……そんなこと、させるわけがない」
低く、抑えた声が耳元で響く。
背中に回された腕は、思っていたよりもずっと強く、けれど震えていた。
「君がいなくなることを考えたら……正直、耐えられない」
エマの目から、涙が溢れた。
「……どうして、もっと早く言ってくれなかったの」
「言えるはずがない」
レオンは、少し自嘲気味に笑う。
「嫌われていると思っていた相手に、好意など……」
その言葉に、思わず、くすりと笑ってしまった。
「……同じですね」
「……ああ」
二人で、静かに笑った。
抱きしめられたまま、レオンは言う。
「エマ。改めて、伝えたい」
腕の力が、少し強くなる。
「君を嫌ったことは、一度もない。それどころか……」
言葉が、途切れる。
エマは、彼の胸元に額を預け、続きを待った。
「……ずっと、大切だった」
その一言で、すべてが報われた気がした。
胸の奥に溜まっていた不安や孤独が、音を立てて崩れていく。
「……ありがとうございます」
そう言うと、レオンは少し困ったように息を吐いた。
「礼を言われるようなことではない」
そして、ゆっくりと距離を取る。
名残惜しそうに手を離しながらも、彼の表情はどこか決意に満ちていた。
「これからは、逃げない」
まっすぐ、エマを見る。
「君に誤解させるような態度も取らない。必ず、言葉にする」
胸が、熱くなる。
「……私も」
エマは、小さく頷いた。
「ちゃんと、話します」
風が、二人の間を優しく吹き抜ける。
ぎこちないけれど、確かな距離。
それは、ようやく“婚約者”として並び立てた証だった。
エマは知らない。
この日を境に、レオンの「溺愛」が、誰の目にも明らかになることを。
それが、彼女の想像を遥かに超えるものになることを――。
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