ゆきかかり、果ての月

芹埜鍋

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 一度認識した恋慕を、しかし尚澄は胸に秘めておくしかなかった。

 尚澄の異質な部分を排斥しないでいてくれるとはいえ、ふつう同性から友愛以上の情を向けられたら、人はあまりいい感情を持たないだろう。
 勇斗はどちらかというとリベラルな態度の持ち主ではあった。だからといって、同じ男から性欲を向けられたら、果たして彼がどう思うか。尚澄には想像もつかなかった。

 想いを秘めたまま過ごす日々に尚澄が慣れ始めた頃、本格的な受験対策が始まった。
 日常が緊張感の高いものになれば、恋愛にうつつを抜かしている場合ではなくなるのではないか、という尚澄の考えに反して、その忙しなさは、尚澄の心を今まで以上に掻き乱した。
 成績を見ても、模試の判定から云っても、尚澄が志望大学に合格できる確率はかなり高い。勇斗もそれを見据えて話をするようになり、といって気を抜いているわけでもなかった。学習の状況としてはまったく問題なかったが、尚澄は勇斗が「家庭教師」だということを改めて認識する機会が多くなった。
 彼はまるで友人のように接してくれているし、この頃にはプライベートな会話も、お互いにかなり積み重ねていた。しかし所詮は大学受験のために親が雇ってくれている家庭教師と、その生徒の間柄でしかない。受験が終われば合否に関わらず縁が切れてしまうことは、想像に難くなかった。
 最初は別にそれでかまわないと思っていた。気持ちを打ち明けて勇斗に嫌悪されるくらいなら、このままなにも伝えずに「できのいい生徒」として多少なり記憶に残るほうがいい。
 そういう思いで尚澄は、重たくなっていく恋慕に耐えて、成績を落とさずにやってきた。
 けれど、勇斗と顔を合わせれば合わせるほど、彼と言葉を交わすほどに、本当にそれでいいのか、と思うようにもなっていたのだ。
 自らの気持ちが重くなっていく苦しさも、やはりあった。告白、というよりも、白状して楽になってしまいたい、という切実な願望もあった。
 しかし、期待してしまう気持ちも、無視はできなかったように思う。
 彼と付き合えるかも、というたぐいのそれではない。
 もしも勇斗に気持ちを伝えて、結果受け入れられなかったとしても、彼は尚澄を嫌悪したり軽蔑したりすることはないのではないか、という期待だ。信頼、といってもいい。
 陳腐な発想ではあるけれど、志望校に合格した暁には勇斗に気持ちを吐き出そう。尚澄の意識は徐々に、そんなふうに変化していった。
 そうだと決めれば現金なもので、悩みも少し軽くなる。自らの悩み苦しみに押しつぶされる前に、尚澄は気持ちを切り替えることができた。

 果たして三月初旬、尚澄は第一志望の大学に合格した。

 当日はひとりで合格発表を見に行った。
 当初は両親も勇斗もついてきてくれようとしたが、万が一にも不合格だったとき、誰にも合わせる顔がない。合格していたとしても、正解のリアクションがとれるかどうか判らなかった。
 合格者番号の掲示の中から自分の受験番号を見つけたときは当然嬉しくはあったが、案の定、素直に喜ぶことはできなかった。
 帰宅してまず、母親に合格を報告した。
 彼女はまるで自分のことのように喜んでくれたし、今日はお祝いでごちそうにするから、今からあちこち買い物に行ってくるわ、と妙な張り切り方をした。
 幸いというのか、不幸にも、と云ったほうがいいのか、母が出かけてすぐ勇斗がやってきた。


 千載一遇のチャンスといえばそうだっただろうか。母親は「あちこち買い物に行く」と云うなら本当に複数店舗をまわるだろうから、しばらくは帰ってこない。打ち明け話をする時間は十分に確保できてしまう。
 尚澄は勇斗を部屋に通して紅茶などを出し、合格の報告をして、「今までありがとうございました」と礼の言葉を述べた。
 勇斗もまるで自分のことのように合格を喜んでくれたが、重ねて尚澄が礼を云うと、
「受験したのは尚澄くんだからね。きみがモチベーションを保ってこつこつ努力してきた結果だし、それにきみはもともと勉強が苦手な方でもなかっただろ。だからあんまりぼくばっかりお礼を云われると、困るな。家庭教師として当然の、まあ、仕事をしてきただけだし」
 と、照れたような反応を見せる。

 家庭教師の仕事という言葉が、尚澄の胸に突き刺さった。

 それはそれでいい。当たり前のことだ。
 でも。

 そんな気持ちが、尚澄を突き動かした。声を出すために息を吸うと、もうその段階で、喉が震えているような気がした。
「……勇斗さん、あの、おれ。合格したら、……話したいと、思ってたことが、あって……」
「うん?」
 逡巡を振り切るように言葉を発したら、やっぱりその声は震えていた。勇斗は尚澄の変調に気がついて、笑顔をわずかに曇らせる。どうしたの、と問われる前に、尚澄は必死で言葉を続けた。
「おれ……、勇斗さんのこと、その……ずっと」

 好き。

 その二文字が、大きな塊のように喉につかえる。
 伝えて楽になりたい気持ちと、怖くて諦めてしまいたい気持ちがせめぎ合った。実際にはなにもつかえていないはずなのに息が苦しくなって、涙がにじんだ。
 勇斗は眼鏡の向こうで目を丸くしていたが、尚澄が涙をこぼすにいたって、少し焦ったように尚澄に近づき、その背中を優しく撫でさすった。
「尚澄くん、判った。判ったから、泣かないでよ」
 彼の手のひらの大きさ温かさに、尚澄の涙はかえってあふれこぼれてくる。
 どういうかたちであってもその温かさを失いたくない。
 不安が急激に膨れ上がるとともに、かつて別れ話をしてきた彼女も、こうして苦しんだのだろうか、という後悔のようなものが不意にこみ上げてくる。それが、さらに喉を押し潰した。
「……す、好きなんだ、おれ、勇斗さんが」
「うん……」
 なんとか最後まで言葉にしても、勇斗の反応は否とも応ともつかなかった。けれど、自分の背中を撫でる手が離れていかない。尚澄は変わらぬ手のひらの感触に心の底から安堵し、それを申し訳ないとも思った。
 ごめんなさい、という言葉が、ほとんど嗚咽のように漏れる。どうして謝るのと困ったように笑って、勇斗は尚澄が落ち着くまで背中を撫でてくれた。
 しばらくして尚澄が落ち着くと、勇斗は「すっかり冷めちゃったな」と、今まで一度も手をつけていなかった紅茶をすする。
「……うすうすね。そうじゃないかって思ってたんだ。間違ってたらとんだ自意識過剰だけどね」
 冷めた紅茶で唇を潤したあと、わずかに緊張した面持ちで、そんなふうに勇斗は話し始めた。
「尚澄くん、今年のはじめ頃つらそうだったでしょ。いつもみたいには相談してくれなかったから、もしかしたらぼくになにか原因があるのかなって予想してた。教え方に不満があるとか、そういうことならどこかしらから伝わってくるだろうとは思ってたんだけど、様子を見てるうちに急に平気そうになったから……」
 勇斗は相談ごとに答えてくれるときのように、ひとつずつ言葉を選ぶように喋る。彼のそんな真摯な態度が、尚澄は好きだった。
「でも、そっか」
 しばらく沈黙したのち、勇斗は納得したようにそう呟いて、微笑んだ。
「頑張ってくれたんだね、尚澄くん。ありがとう」
 不意に褒められて、再び涙が流れそうになる。
 少なくとももう、完膚なきまでに拒絶されるということはないのだ、と、理解できた。その安心感が涙腺を緩ませているのだと判った。
 尚澄はうつむいて自らも紅茶に口をつけ、何度か瞬きをしてその涙をやりすごす。勇斗はそんな尚澄の様子を見て、困ったように眉を下げた。
「きみが頑張って気持ちを伝えてくれたから、ぼくも……少し頑張って話をしたいんだけど、聞いてくれる?」
 もちろん断るはずがない。尚澄が頷くと、勇斗は少しばかり緊張した面持ちで、自らについて訥々と語った。
 彼は男女どちらともが恋愛対象になる、いわゆるバイセクシャルであること。
 男性とも女性とも付き合ったことがあるが、この性的指向が原因で破局した経験もあること。
 だから恋愛を始める前にはそのことを明かして、それでもいいと云ってくれる相手とでないと付き合えない、ということ。
「尚澄くん、ぼくの正体はこんなのだけど、⋯⋯それでも、いい?」
 はっと顔を上げ、尚澄は勇斗の顔を見つめた。
 どれもが意外な話だったが、最後のそれは、まったく別な意味合いで尚澄を驚かせていた。嬉しい、と思う気持ちよりも先に、聞き間違いではないかという疑念が湧くほどに。
 あまりにもぽかんとした尚澄の表情がおかしかったのか、勇斗は苦笑を浮かべる。

「生徒には恋愛感情を持てないと思ってたんだけど、きみが告白してくれて、すごく嬉しかったんだ。きみと雑談したり、相談を聞いたりするのも好きだった。だから……もし尚澄くんが、ぼくのことを受け入れてくれるなら、ぼくと付き合って欲しい」


 そうして尚澄と勇斗は、大学入学を機に付き合うことになった。
 ふたりの関係は六年ほども続いて、そしてある日、あっけなく終わったのだが。

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