ゆきかかり、果ての月

芹埜鍋

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「尚澄くん、最近なんか調子悪そうだね。心ここにあらずって感じで」

 そんな状態が続いたある日の授業後、教材をトートバッグに片付けながら、勇斗がふと訊ねてきた。
「やっぱりまだ失恋の痛手が続いてる?」
 いつもの雑談と変わらず、少し茶化すような調子で彼はそう続けたが、その声音はどこか真摯に感じられる。尚澄はわずかにためらったあと、小さく頷いた。
「でも」と、すぐにその首肯を打ち消す言葉が出たのは、勇斗の真摯さに打たれてのことだったかも知れなかった。「なんていうか、振られたことに落ち込んでるんじゃないのかもしれないと思ってて……」
「うん?」
 疑問を呈して小首を傾げた勇斗の、いつもどおりに跳ねた癖毛が揺れる。尚澄はそれを見るでもなく見ていた。
「おれ、彼女の云ってたことが、すごく正しいなって思って、それにちょっと……ショックを受けちゃって」
「彼女の云ったこと?」
「はい。その」
 別れ話など、ごく私的な話題だ。
 それを話して聞かせることに罪悪感が一瞬芽生えたが、その罪悪感を無視してでも、尚澄は勇斗に話を聞いてほしいと感じていた。
「自分は妹かなにかとしか思われてないんだって、彼女はそう思ってたらしくて。別れる原因がおれにあったっていうのは云ったと思うんですけど、それってつまり、おれが全然彼女に、その、手を出さなかったっていうことだったんで……」
「なるほど」
 すっかり帰り支度をととのえた勇斗は、まるで勉強を教えるときのように尚澄の隣に座り、身をわずかに乗り出して話を聞いていた。
 ふわりと薫る煙草の匂いに距離の近さを感じて、尚澄はわけもなくどぎまぎとした。
「云われてみたら、本当にそうなんです。おれ、彼女のことを女性として好きだったわけじゃないんだなって、すごく腑に落ちたんです……、」
 その言葉の続きを口にするのは、難しかった。
 彼女のことは好きだった。でも、その肉体を愛することができるかと想像したとき、そうした行為にまったく興味を抱けない自分に、振られてみて改めて気がついた。
 キスをためらったのだって、「どうしてそんなことをしなきゃいけないのか」という、ある意味拒絶めいた疑問が、不意にこみ上げてきたからだ。
 そんな自分には、その先の関係など結びようがなかったのではないか。
「でも、それって彼女がどうこうっていうんじゃなくて……」
 尚澄の年代でも、早熟な友人は既にそれを経験していて、男しかいない場では体験談のようなものを披露するようなこともあった。ポルノ写真やなんかよりも生々しい語りを聞いて、尚澄も周囲の友人連中に違わず、少なからず顔を赤らめ、胸を高鳴らせていたように思う。

 けれどあれは、友人の語る体験談だったから。
 男の言葉だったから、興奮していただけだったのだ。

 ある眠れない夜、尚澄は唐突にそれを悟った。
 語られる女性の身体ではなく、語っている男友達の性的な高ぶりを想像して、それに熱を感じていただけだった。つまり、自分の性欲の向かう先は、男なのだと。
 だから尚澄には、彼女を「愛する」ことが難しかったのだ。
 このところ尚澄を悩ませ落ち込ませていた根幹はそうした自覚にあった。
 自らの性的指向をなんの覚悟もないまま認識して、一般大多数から突如としてこぼれ落ちてしまった。事実をどう受け入れていいのか判らず、落ち込むしかなかった。
 けれどそれを勇斗に告げれば、彼はいったいどういう反応をするだろうか。
 尚澄がうつむき沈黙するのを、困ったように眺めていた勇斗は、ふと「悩ましいところだよね」と、ことさら軽い調子で口にした。
「尚澄くんがその彼女のことを好きだったのは、嘘じゃないと思う。でも、相手を人間的に尊敬していたり大切に思っているからって、必ずしも性欲がついてくるわけじゃない……っていうこともあるよね。家族がどんなに愛おしくても、その愛情と性欲が結びつかない、みたいなさ。少なくともぼくは、兄と寝たいとは思わないし」
 判ったような判らないような、それでいて率直な例え話に驚いて尚澄が顔を上げると、変わらず真摯な表情の勇斗と目が合う。
 柔和な表情と眼鏡のせいで穏やかな草食動物を思わせるが、その実、眼鏡の奥の目は濃いまつげに縁取られ、面長な輪郭や少しけた頬と相まって、よく見ればどこか男くさい雰囲気を帯びた風貌だった。
 その顔から目が離せないでいる尚澄に、勇斗は眉尻を下げて笑いかけた。「そんなにびっくりした?」
 自らの頬が勝手に赤くなるのを感じ、尚澄はぎこちなく首を横に振る。一度意識すれば自らの視線の強さが急に恥ずかしくなって、彼は再びうつむいた。
 そもそも勇斗は、気づいているのではないか。
 今の例え話に出てきた兄のことは尚澄も知っている。九つほど年の離れた既婚者の兄がいると、以前勇斗に聞かされたことがあった。
 その兄がどうこうというわけではなく、その兄を……つまり、近しい同性を、性的な例え話の引き合いに出してきたのは、わざとではないのではないか、と尚澄は思ったのだ。
「尚澄くんは人の気持ちを考える子だからね。彼女が望むようにしてあげたいっていう気持ちがあったのも判るよ。でも、なんていうのか……早いうちに別れたのは、間違いじゃなかったんじゃないのかな。彼女の望みを叶えようとしたら、きっときみが傷ついていただろうし、……お互いに傷つけ合って最悪の結果になってたかもしれないから。だから、そうならなくてよかったって、思ってもいいんじゃないかな」
 尚澄の疑念を知ってか知らずか、励ましてくれる勇斗の言葉の裏にも、気持ちを見透かすような視座が見え隠れしているように思われた。
 そうだとしたら。
 でも、見透かされているとしても、彼はそれでも尚澄を励まし慰めてくれようとしている。それは単純に嬉しかったし、ほっとした。
 気のせいならそれでいいし、尚澄に多少おかしなところがあっても、勇斗はそれだけでは離れていかないのかもしれない、という安心感が芽生えていた。
 その頃には尚澄はほとんど理解していた。


 自分はこの男が、勇斗のことが、好きなのだと。

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