5 / 41
3-2
しおりを挟む
「尚澄くん、最近なんか調子悪そうだね。心ここにあらずって感じで」
そんな状態が続いたある日の授業後、教材をトートバッグに片付けながら、勇斗がふと訊ねてきた。
「やっぱりまだ失恋の痛手が続いてる?」
いつもの雑談と変わらず、少し茶化すような調子で彼はそう続けたが、その声音はどこか真摯に感じられる。尚澄はわずかにためらったあと、小さく頷いた。
「でも」と、すぐにその首肯を打ち消す言葉が出たのは、勇斗の真摯さに打たれてのことだったかも知れなかった。「なんていうか、振られたことに落ち込んでるんじゃないのかもしれないと思ってて……」
「うん?」
疑問を呈して小首を傾げた勇斗の、いつもどおりに跳ねた癖毛が揺れる。尚澄はそれを見るでもなく見ていた。
「おれ、彼女の云ってたことが、すごく正しいなって思って、それにちょっと……ショックを受けちゃって」
「彼女の云ったこと?」
「はい。その」
別れ話など、ごく私的な話題だ。
それを話して聞かせることに罪悪感が一瞬芽生えたが、その罪悪感を無視してでも、尚澄は勇斗に話を聞いてほしいと感じていた。
「自分は妹かなにかとしか思われてないんだって、彼女はそう思ってたらしくて。別れる原因がおれにあったっていうのは云ったと思うんですけど、それってつまり、おれが全然彼女に、その、手を出さなかったっていうことだったんで……」
「なるほど」
すっかり帰り支度をととのえた勇斗は、まるで勉強を教えるときのように尚澄の隣に座り、身をわずかに乗り出して話を聞いていた。
ふわりと薫る煙草の匂いに距離の近さを感じて、尚澄はわけもなくどぎまぎとした。
「云われてみたら、本当にそうなんです。おれ、彼女のことを女性として好きだったわけじゃないんだなって、すごく腑に落ちたんです……、」
その言葉の続きを口にするのは、難しかった。
彼女のことは好きだった。でも、その肉体を愛することができるかと想像したとき、そうした行為にまったく興味を抱けない自分に、振られてみて改めて気がついた。
キスをためらったのだって、「どうしてそんなことをしなきゃいけないのか」という、ある意味拒絶めいた疑問が、不意にこみ上げてきたからだ。
そんな自分には、その先の関係など結びようがなかったのではないか。
「でも、それって彼女がどうこうっていうんじゃなくて……」
尚澄の年代でも、早熟な友人は既にそれを経験していて、男しかいない場では体験談のようなものを披露するようなこともあった。ポルノ写真やなんかよりも生々しい語りを聞いて、尚澄も周囲の友人連中に違わず、少なからず顔を赤らめ、胸を高鳴らせていたように思う。
けれどあれは、友人の語る体験談だったから。
男の言葉だったから、興奮していただけだったのだ。
ある眠れない夜、尚澄は唐突にそれを悟った。
語られる女性の身体ではなく、語っている男友達の性的な高ぶりを想像して、それに熱を感じていただけだった。つまり、自分の性欲の向かう先は、男なのだと。
だから尚澄には、彼女を「愛する」ことが難しかったのだ。
このところ尚澄を悩ませ落ち込ませていた根幹はそうした自覚にあった。
自らの性的指向をなんの覚悟もないまま認識して、一般大多数から突如としてこぼれ落ちてしまった。事実をどう受け入れていいのか判らず、落ち込むしかなかった。
けれどそれを勇斗に告げれば、彼はいったいどういう反応をするだろうか。
尚澄がうつむき沈黙するのを、困ったように眺めていた勇斗は、ふと「悩ましいところだよね」と、ことさら軽い調子で口にした。
「尚澄くんがその彼女のことを好きだったのは、嘘じゃないと思う。でも、相手を人間的に尊敬していたり大切に思っているからって、必ずしも性欲がついてくるわけじゃない……っていうこともあるよね。家族がどんなに愛おしくても、その愛情と性欲が結びつかない、みたいなさ。少なくともぼくは、兄と寝たいとは思わないし」
判ったような判らないような、それでいて率直な例え話に驚いて尚澄が顔を上げると、変わらず真摯な表情の勇斗と目が合う。
柔和な表情と眼鏡のせいで穏やかな草食動物を思わせるが、その実、眼鏡の奥の目は濃いまつげに縁取られ、面長な輪郭や少し痩けた頬と相まって、よく見ればどこか男くさい雰囲気を帯びた風貌だった。
その顔から目が離せないでいる尚澄に、勇斗は眉尻を下げて笑いかけた。「そんなにびっくりした?」
自らの頬が勝手に赤くなるのを感じ、尚澄はぎこちなく首を横に振る。一度意識すれば自らの視線の強さが急に恥ずかしくなって、彼は再びうつむいた。
そもそも勇斗は、気づいているのではないか。
今の例え話に出てきた兄のことは尚澄も知っている。九つほど年の離れた既婚者の兄がいると、以前勇斗に聞かされたことがあった。
その兄がどうこうというわけではなく、その兄を……つまり、近しい同性を、性的な例え話の引き合いに出してきたのは、わざとではないのではないか、と尚澄は思ったのだ。
「尚澄くんは人の気持ちを考える子だからね。彼女が望むようにしてあげたいっていう気持ちがあったのも判るよ。でも、なんていうのか……早いうちに別れたのは、間違いじゃなかったんじゃないのかな。彼女の望みを叶えようとしたら、きっときみが傷ついていただろうし、……お互いに傷つけ合って最悪の結果になってたかもしれないから。だから、そうならなくてよかったって、思ってもいいんじゃないかな」
尚澄の疑念を知ってか知らずか、励ましてくれる勇斗の言葉の裏にも、気持ちを見透かすような視座が見え隠れしているように思われた。
そうだとしたら。
でも、見透かされているとしても、彼はそれでも尚澄を励まし慰めてくれようとしている。それは単純に嬉しかったし、ほっとした。
気のせいならそれでいいし、尚澄に多少おかしなところがあっても、勇斗はそれだけでは離れていかないのかもしれない、という安心感が芽生えていた。
その頃には尚澄はほとんど理解していた。
自分はこの男が、勇斗のことが、好きなのだと。
そんな状態が続いたある日の授業後、教材をトートバッグに片付けながら、勇斗がふと訊ねてきた。
「やっぱりまだ失恋の痛手が続いてる?」
いつもの雑談と変わらず、少し茶化すような調子で彼はそう続けたが、その声音はどこか真摯に感じられる。尚澄はわずかにためらったあと、小さく頷いた。
「でも」と、すぐにその首肯を打ち消す言葉が出たのは、勇斗の真摯さに打たれてのことだったかも知れなかった。「なんていうか、振られたことに落ち込んでるんじゃないのかもしれないと思ってて……」
「うん?」
疑問を呈して小首を傾げた勇斗の、いつもどおりに跳ねた癖毛が揺れる。尚澄はそれを見るでもなく見ていた。
「おれ、彼女の云ってたことが、すごく正しいなって思って、それにちょっと……ショックを受けちゃって」
「彼女の云ったこと?」
「はい。その」
別れ話など、ごく私的な話題だ。
それを話して聞かせることに罪悪感が一瞬芽生えたが、その罪悪感を無視してでも、尚澄は勇斗に話を聞いてほしいと感じていた。
「自分は妹かなにかとしか思われてないんだって、彼女はそう思ってたらしくて。別れる原因がおれにあったっていうのは云ったと思うんですけど、それってつまり、おれが全然彼女に、その、手を出さなかったっていうことだったんで……」
「なるほど」
すっかり帰り支度をととのえた勇斗は、まるで勉強を教えるときのように尚澄の隣に座り、身をわずかに乗り出して話を聞いていた。
ふわりと薫る煙草の匂いに距離の近さを感じて、尚澄はわけもなくどぎまぎとした。
「云われてみたら、本当にそうなんです。おれ、彼女のことを女性として好きだったわけじゃないんだなって、すごく腑に落ちたんです……、」
その言葉の続きを口にするのは、難しかった。
彼女のことは好きだった。でも、その肉体を愛することができるかと想像したとき、そうした行為にまったく興味を抱けない自分に、振られてみて改めて気がついた。
キスをためらったのだって、「どうしてそんなことをしなきゃいけないのか」という、ある意味拒絶めいた疑問が、不意にこみ上げてきたからだ。
そんな自分には、その先の関係など結びようがなかったのではないか。
「でも、それって彼女がどうこうっていうんじゃなくて……」
尚澄の年代でも、早熟な友人は既にそれを経験していて、男しかいない場では体験談のようなものを披露するようなこともあった。ポルノ写真やなんかよりも生々しい語りを聞いて、尚澄も周囲の友人連中に違わず、少なからず顔を赤らめ、胸を高鳴らせていたように思う。
けれどあれは、友人の語る体験談だったから。
男の言葉だったから、興奮していただけだったのだ。
ある眠れない夜、尚澄は唐突にそれを悟った。
語られる女性の身体ではなく、語っている男友達の性的な高ぶりを想像して、それに熱を感じていただけだった。つまり、自分の性欲の向かう先は、男なのだと。
だから尚澄には、彼女を「愛する」ことが難しかったのだ。
このところ尚澄を悩ませ落ち込ませていた根幹はそうした自覚にあった。
自らの性的指向をなんの覚悟もないまま認識して、一般大多数から突如としてこぼれ落ちてしまった。事実をどう受け入れていいのか判らず、落ち込むしかなかった。
けれどそれを勇斗に告げれば、彼はいったいどういう反応をするだろうか。
尚澄がうつむき沈黙するのを、困ったように眺めていた勇斗は、ふと「悩ましいところだよね」と、ことさら軽い調子で口にした。
「尚澄くんがその彼女のことを好きだったのは、嘘じゃないと思う。でも、相手を人間的に尊敬していたり大切に思っているからって、必ずしも性欲がついてくるわけじゃない……っていうこともあるよね。家族がどんなに愛おしくても、その愛情と性欲が結びつかない、みたいなさ。少なくともぼくは、兄と寝たいとは思わないし」
判ったような判らないような、それでいて率直な例え話に驚いて尚澄が顔を上げると、変わらず真摯な表情の勇斗と目が合う。
柔和な表情と眼鏡のせいで穏やかな草食動物を思わせるが、その実、眼鏡の奥の目は濃いまつげに縁取られ、面長な輪郭や少し痩けた頬と相まって、よく見ればどこか男くさい雰囲気を帯びた風貌だった。
その顔から目が離せないでいる尚澄に、勇斗は眉尻を下げて笑いかけた。「そんなにびっくりした?」
自らの頬が勝手に赤くなるのを感じ、尚澄はぎこちなく首を横に振る。一度意識すれば自らの視線の強さが急に恥ずかしくなって、彼は再びうつむいた。
そもそも勇斗は、気づいているのではないか。
今の例え話に出てきた兄のことは尚澄も知っている。九つほど年の離れた既婚者の兄がいると、以前勇斗に聞かされたことがあった。
その兄がどうこうというわけではなく、その兄を……つまり、近しい同性を、性的な例え話の引き合いに出してきたのは、わざとではないのではないか、と尚澄は思ったのだ。
「尚澄くんは人の気持ちを考える子だからね。彼女が望むようにしてあげたいっていう気持ちがあったのも判るよ。でも、なんていうのか……早いうちに別れたのは、間違いじゃなかったんじゃないのかな。彼女の望みを叶えようとしたら、きっときみが傷ついていただろうし、……お互いに傷つけ合って最悪の結果になってたかもしれないから。だから、そうならなくてよかったって、思ってもいいんじゃないかな」
尚澄の疑念を知ってか知らずか、励ましてくれる勇斗の言葉の裏にも、気持ちを見透かすような視座が見え隠れしているように思われた。
そうだとしたら。
でも、見透かされているとしても、彼はそれでも尚澄を励まし慰めてくれようとしている。それは単純に嬉しかったし、ほっとした。
気のせいならそれでいいし、尚澄に多少おかしなところがあっても、勇斗はそれだけでは離れていかないのかもしれない、という安心感が芽生えていた。
その頃には尚澄はほとんど理解していた。
自分はこの男が、勇斗のことが、好きなのだと。
0
あなたにおすすめの小説
優しい檻に囚われて ―俺のことを好きすぎる彼らから逃げられません―
無玄々
BL
「俺たちから、逃げられると思う?」
卑屈な少年・織理は、三人の男から同時に告白されてしまう。
一人は必死で熱く重い男、一人は常に包んでくれる優しい先輩、一人は「嫌い」と言いながら離れない奇妙な奴。
選べない織理に押し付けられる彼らの恋情――それは優しくも逃げられない檻のようで。
本作は織理と三人の関係性を描いた短編集です。
愛か、束縛か――その境界線の上で揺れる、執着ハーレムBL。
※この作品は『記憶を失うほどに【https://www.alphapolis.co.jp/novel/364672311/155993505】』のハーレムパロディです。本編未読でも雰囲気は伝わりますが、キャラクターの背景は本編を読むとさらに楽しめます。
※本作は織理受けのハーレム形式です。
※一部描写にてそれ以外のカプとも取れるような関係性・心理描写がありますが、明確なカップリング意図はありません。が、ご注意ください
【完結】 男達の性宴
蔵屋
BL
僕が通う高校の学校医望月先生に
今夜8時に来るよう、青山のホテルに
誘われた。
ホテルに来れば会場に案内すると
言われ、会場案内図を渡された。
高三最後の夏休み。家業を継ぐ僕を
早くも社会人扱いする両親。
僕は嬉しくて夕食後、バイクに乗り、
東京へ飛ばして行った。
経理部の美人チーフは、イケメン新人営業に口説かれています――「凛さん、俺だけに甘くないですか?」年下の猛攻にツンデレ先輩が陥落寸前!
中岡 始
BL
社内一の“整いすぎた男”、阿波座凛(あわざりん)は経理部のチーフ。
無表情・無駄のない所作・隙のない資料――
完璧主義で知られる凛に、誰もが一歩距離を置いている。
けれど、新卒営業の谷町光だけは違った。
イケメン・人懐こい・書類はギリギリ不備、でも笑顔は無敵。
毎日のように経費精算の修正を理由に現れる彼は、
凛にだけ距離感がおかしい――そしてやたら甘い。
「また会えて嬉しいです。…書類ミスった甲斐ありました」
戸惑う凛をよそに、光の“攻略”は着実に進行中。
けれど凛は、自分だけに見せる光の視線に、
どこか“計算”を感じ始めていて……?
狙って懐くイケメン新人営業×こじらせツンデレ美人経理チーフ
業務上のやりとりから始まる、じわじわ甘くてときどき切ない“再計算不能”なオフィスラブ!
相性最高な最悪の男 ~ラブホで会った大嫌いな同僚に執着されて逃げられない~
柊 千鶴
BL
【執着攻め×強気受け】
人付き合いを好まず、常に周囲と一定の距離を置いてきた篠崎には、唯一激しく口論を交わす男がいた。
その仲の悪さから「天敵」と称される同期の男だ。
完璧人間と名高い男とは性格も意見も合わず、顔を合わせればいがみ合う日々を送っていた。
ところがある日。
篠崎が人肌恋しさを慰めるため、出会い系サイトで男を見繕いホテルに向かうと、部屋の中では件の「天敵」月島亮介が待っていた。
「ど、どうしてお前がここにいる⁉」「それはこちらの台詞だ…!」
一夜の過ちとして終わるかと思われた関係は、徐々にふたりの間に変化をもたらし、月島の秘められた執着心が明らかになっていく。
いつも嫌味を言い合っているライバルとマッチングしてしまい、一晩だけの関係で終わるには惜しいほど身体の相性は良く、抜け出せないまま囲われ執着され溺愛されていく話。小説家になろうに投稿した小説の改訂版です。
合わせて漫画もよろしくお願いします。(https://www.alphapolis.co.jp/manga/763604729/304424900)
女子にモテる極上のイケメンな幼馴染(男)は、ずっと俺に片思いしてたらしいです。
山法師
BL
南野奏夜(みなみの そうや)、総合大学の一年生。彼には同じ大学に通う同い年の幼馴染がいる。橘圭介(たちばな けいすけ)というイケメンの権化のような幼馴染は、イケメンの権化ゆえに女子にモテ、いつも彼女がいる……が、なぜか彼女と長続きしない男だった。
彼女ができて、付き合って、数ヶ月しないで彼女と別れて泣く圭介を、奏夜が慰める。そして、モテる幼馴染である圭介なので、彼にはまた彼女ができる。
そんな日々の中で、今日もまた「別れた」と連絡を寄越してきた圭介に会いに行くと、こう言われた。
「そーちゃん、キスさせて」
その日を境に、奏夜と圭介の関係は変化していく。
ハイスペックED~元凶の貧乏大学生と同居生活~
みきち@書籍発売中!
BL
イケメン投資家(24)が、学生時代に初恋拗らせてEDになり、元凶の貧乏大学生(19)と同居する話。
成り行きで添い寝してたらとんでも関係になっちゃう、コメディ風+お料理要素あり♪
イケメン投資家(高見)×貧乏大学生(主人公:凛)
兄貴同士でキスしたら、何か問題でも?
perari
BL
挑戦として、イヤホンをつけたまま、相手の口の動きだけで会話を理解し、電話に答える――そんな遊びをしていた時のことだ。
その最中、俺の親友である理光が、なぜか俺の彼女に電話をかけた。
彼は俺のすぐそばに身を寄せ、薄い唇をわずかに結び、ひと言つぶやいた。
……その瞬間、俺の頭は真っ白になった。
口の動きで読み取った言葉は、間違いなくこうだった。
――「光希、俺はお前が好きだ。」
次の瞬間、電話の向こう側で彼女の怒りが炸裂したのだ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる