ゆきかかり、果ての月

芹埜鍋

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 十二年前、尚澄の受験準備のために雇われた家庭教師が、漆原勇斗だった。


 当時大学三年生の勇斗は、早生まれの高校三年生だった尚澄から見れば四つほど年上の「大人」だった。
 黒縁のボストン眼鏡をかけ、いつも癖毛が少し跳ねていた。物腰が柔らかく穏やかで、基本的には柔和な印象であり、それでいてときおりひどくさばけた態度をとっていた。
 そんな勇斗が、年齢差以上に大人びて見えたのを、尚澄は今でも鮮明に覚えている。
 彼は週に三度ほど尚澄の勉強を見てくれていた。
 尚澄の志望大学より偏差値の高い国立大に通う男だったが、教え方はなかなか堂に入って上手かったし、教材選びや作問も的確だった。尚澄の合格判定はめきめき上がっていったことからも、家庭教師として有能な男だったと云えるだろう。
 それに勇斗は、尚澄にとっては家庭教師であると同時に、「年上の面倒見のいい友人」のような側面もあった。おそらく「他人とふたりきりで勉強をする」という環境の緊張感を和らげる意図もあったのだろうが、休憩中や授業の終わりなどに、彼はよく、煙草を片手に軽い雑談などを差し挟んだ。その会話の感覚が尚澄と合ったこともあり、ふたりはそれなりに素早く打ち解けていった。
 関係を積み重ねていった結果、雑談よりもっと突っ込んだ話を相談することもあった。自分からは云い出せない性格の尚澄を勇斗はよく気にかけてくれ、さりげなく相談に乗ってくれることも、ままあった。
 尚澄の「彼女」のこともそうだった。
 当時の尚澄には、同級生の恋人がいた。高校二年生のときに同じクラスになって知り合った、ボーイッシュなショートカットがよく似合う女子だった。
 一度目の席替えで隣に座るようになって以来、なにが気に入ったのか彼女は尚澄にかまうようになり、冬休みが始まる直前、終業式のあとに向こうから告白されて付き合い始めた。
 クリスマス、初詣と行事を一緒に過ごし、学校が始まってからも週に一度は放課後に喫茶店などでデートをした。週末にはどこかしらへ出かけたり、どちらかの友人カップルとダブルデートのようなこともした。傍目には、尚澄と彼女の仲は上々のように見えた。
 しかし、尚澄の感覚には、常に違和感がつきまとっていた。
 自分が彼女を好きなのか、一向に自信が持てなかったのだ。
 最初は「恋人ができた」というある種のトロフィーに浮かれる気持ちもあったが、比較的早い段階でそれは困惑に塗り替えられていった。
 向こうは自分のことを好いてくれていて、自分からも好意はある。けれど、好きな女に抱いて当然のはずの「性欲」が、いつまで経っても湧き上がってこなかった……考えることはあっても、「欲望」はしなかった。
 一緒に出かければ楽しいし、人混みに行けば手を繋ぐ。でも、それだけだった。いわゆる健全な青少年なら期待してしかるべきそれ以上のふれあいのことなど、尚澄は考えもしなかった。
 手を繋ぐのだって、必要に迫られてのことだ。はぐれないように、見失わないように。彼女が誰かとぶつかって転んだりしないように、手を繋いだ。大切に思う気持ちはあるが、それ以上はなにもなかった。それでも彼女が嬉しそうにしているのを見て、尚澄は得体の知れない焦燥感や罪悪感にかられた。


 ふたりの恋人関係に終止符が打たれたのは、三年生の夏休み中のことだった。
 高校最後の夏だからと一緒に近所の夏祭りに出かけ、祭りの終わり頃、彼女にキスをせがまれて、尚澄はまったく身動きが取れなかった。
 彼女の頼みに無理があったわけでもない。少し離れた河原でそろそろ花火が打ち上がるということもあり、祭り会場の公園のベンチ周辺は、閑散としていた。
 暗くて生ぬるい空気と、かわいらしい浴衣姿の、汗ばんだ恋人。キスをするのは、尚澄の考えでも自然な流れだった。
 それでも、照れたような、それでいて祈るような表情で「キスして欲しいな」と頼んできた彼女に、尚澄はなんの高ぶりも感じなかった。いつもの罪悪感と焦燥感がこみ上げてくるばかりで、自らの凪いだ感覚に戸惑いを覚えて、動くこともできなかった。
 彼女はしばらく尚澄を見つめていたが、その目には次第に諦めにも似た感情が浮かんでいった。やがて「やっぱり」と呟いた声が、少し震えていた。
「やっぱりって……」と問う尚澄に彼女はしばらく沈黙していたが、「少し前から思ってたことがあって、」とやはり震える声で前置きをして、意を決したように話し始めた。

 ──尚澄はわたしのこと、妹かなにかだと思ってるんじゃないかって疑ってたの。わたしといるときの尚澄って、なんでもお願いをきいてくれるお兄ちゃんっていう感じだから。頑張っておしゃれをしたら同じだけ頑張って褒めてくれるし、わたしのくだらない話もにこにこして聞いてくれるし、優しくて……、でも、優しい以上のことがないのね。ぎらぎらしたところがなくて。最初はそういうところもいいなと思ってたんだけど、だんだん耐えられなくなってきちゃってさ。だってわたしは尚澄のこと、お兄ちゃんとしてじゃなくて、男の子として好きだから。だから……キスして欲しかったな。でも、やっぱり無理なんだね。そういうんじゃないって、顔に書いてあるもの。だから、わたしはやっぱり、尚澄にとって妹かなにかなんだな。

 泣きながらそう告げてきた彼女を、尚澄は最後まで抱きしめてやることもできなかった。ハンカチを差し出すのが、精いっぱいだった。
 そのハンカチを受け取って涙を拭きながら、「こういうところもほんとにお兄ちゃんって感じ」と、彼女は無理矢理に笑った。
「こっちから付き合ってって頼んで、勝手云って悪いけど、……今日で最後にしよ。もう、別れよう、わたしたち」
 尚澄には、別れを引き留める権利も気概も理由も、なにひとつなかった。
 恋人がいたことを知っていた数少ない友人たちと勇斗には、別れ話をした事実と、その理由が自分にあったことを軽く説明したが、慰めと励ましをひととおり受けたあとは立ち直ったふりをしていた。
 けれど尚澄は、人知れず落ち込んでいた。
 部屋でひとり眠りにつく前などに、ついいろいろなことを考えてしまう。
 そうすると、彼女とふたりでいるときに感じていた罪悪感や、云い知れぬ不安にぼんやりと襲われて、うまく眠れなかった。

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