ゆきかかり、果ての月

芹埜鍋

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 頭はぐらぐらと不快感に煮えたぎっていたが、また横になるのもはばかられ、尚澄は男を待つ間、室内の様子を観察してみた。

 煤けた印象の、六畳ほどの和室だった。

 大きな和箪笥や布の掛かった鏡台など重たげで古ぼけた家具が部屋の隅に鎮座していて、圧迫感がある。
 家具の途切れた壁面の鴨居には、安っぽいワイヤーハンガーにかけられた尚澄の衣類が吊り下げられ、その足元にはこれも尚澄の唯一の荷物である、大きくはないボストンバッグがひっそりと置かれていた。
 本来なら貴重品を確かめるべきだろうが、中身を心配する気持ちはそれほど湧いてこない。あの男なら疑ってかかるまでもないように思えた。
 窓は敷かれた布団の頭側にあり、障子は閉まっている。その反対側には閉じられた押し入れと、板製の片引き戸。
 男が出て行くときに閉めていかなかったので、今はそちらから冷気が流れ込んできているように感じられる。とはいえ室内に暖房器具は見当たらないし、そもそも室温もたいして高くはなさそうだから、たいして気にもならない。
 引き戸の向こうには年季の入った板張りの廊下が続いているようだった。古民家とまではいかないものの、なかなかに古い家のようだ。
 そうしてあちこちを見回しているうちに、男が戻ってくる。
 手には電子体温計を持っていた。
 ほい、と手渡された体温計をおとなしくわきにはさみ、計測を待つ間、ようやく尚澄は男に質問することができた。

 おれはどうしてここに、と。

「覚えてない? ……覚えてなくてもおかしかないか、あんだけ酔ってりゃね」と前置きをして男が語ってくれた話は、尚澄が今しがた想像した物語から、大きく外れてはいなかった。
 尚澄は昨晩、酔いつぶれて上津市の公園のベンチで寝ていたところを、この親切な男に拾われたのだった。
 山がちな土地の、十二月の夜だ。こんなところで寝てないでちゃんと帰って寝なよ、と男は声をかけてくれたらしい。
 そのときのことをまったく覚えていないのだが、尚澄は「帰るところがない」といったような返事をしたのだという。友達のところやホテルは? と質問する男に、首を横に振るばかりで。
「じゃあうち来る? こっからけっこう遠いけど」と半ば投げやりな気持ちで男が問えば、酔っ払いは首を縦に振った、というわけだったとか。
 きびきびと男が話し終わったあと、体温計が小さな電子音を発して、三八度の少し手前の数字を表示した。
「そりゃあ冬場にあんなところで寝てりゃ風邪も引くよな」
 やっぱりね、とでも云いたげな調子で小さく笑ったあと、「まあ、風邪引かなくても危ないっちゃ危ないけどな、あそこは」と、男は意味ありげな呟きを漏らした。
 しかし、尚澄が問いただそうとするよりも先に、電話のベルがけたたましく鳴り響いて、彼はまた部屋を出て行ってしまう。
 廊下に電話器があるらしく、通話の応答が筒抜けになっていた。尚澄と話している間よりなまりが強く出てはいたが、それでも十分に内容が聞き取れてしまうほどの声量があるのだ。
 それによれば、男はこのあとあちこちの雪かきの手伝いに行くようだ。やはり雪深い土地なのだろう。
 通話が終わったあと男は、ちょっと留守にするからと云って、あれこれ教えてくれ、もろもろの準備もしてくれた。
 具体的には、トイレの場所と台所の場所を教えてもらい、食事は台所に用意があるから食べられそうだったらあっためて食べて、とのこと。田舎だから急に人が来るかも知れないけど、鍵をかけて出て行くからほうっておいて大丈夫、云々。
 市販薬まで用意してくれて(「俺がいつも飲んでるやつだから、あんたに合うかは判らんけどね」という断りは入ったが)、彼が世話焼きな性格であるのはもはや疑うべくもない。
 同時に、せっかちな性格であるのも疑いようがなかった。
 見知らぬ尚澄に留守を任せようとするのも、あれこれ先回りして用意してくれるのも、その証左だろう。
 口数が多いのもそうかも知れないが、とにもかくにも尚澄には対応しきれない情報量だった。尚澄の胸には体調由来の不快感のほか、現状の諸々についての不安や疑問が渦巻いているというのに、言語化する暇もない。
「ちょっと待って」
 そのまま部屋を飛び出していきそうな男を、尚澄はなんとか呼び止める。声を出すのが精一杯で、男のフランクな態度に釣られたこともあって、つい敬語を忘れていた。
 振り返った男が思いのほか目を丸くしているのを見、尚澄は少しためらってから、ひとつだけ質問を投げかけた。
「あの……たぶんまだ、聞いてないと思うんだけど、名前を教えてくれる?」
 ようやく言葉にできた疑問が、それだった。
 男はぽかんとしてから、「ごめんごめん、そういえばそうだ。全然名乗ってなかったな」と破顔した。
 悪童のような顔だった。
 尚澄はその人懐っこい笑顔を見て、ほんのわずか安堵を覚えた。混乱していた頭も、少しは落ち着く。
「俺、浜島はましまです。浜島たすく。砂浜の島に賛成反対の賛って書く」
 男……浜島は、口頭で説明する傍ら、空中に見えない文字を書き連ねた。その指先をぼんやり眺め、「浜島さん」と尚澄は、唇にその音を乗せてみる。尚澄からも自分の名前を伝えると、「霜澤さんね」と浜島は、尚澄と同じように……それでいて、妙に嬉しそうに、口の中で尚澄の名字を呟いた。
「じゃあ、霜澤さん。ボロい我が家で悪いけど、ゆっくり休んでてね。夕方頃には戻れると思うから」


 ひとりになると尚澄は、布団に再び潜り込む。
 不調も無視できるものではなかったし、なによりある程度事情を把握して安堵を覚えたためか、どっと疲れが出たのだ。
 食事は粥を作っておいてくれていると云っていたが、まだとても食べられそうな体調ではなかった。抵抗感があって、空の胃袋では薬も飲むに飲めない。多少気分がましになるまで、もう少し寝ているしかない。

 ふがいなかった。

 昨日上津市に来て酔いつぶれるまでの行動をつぶさに反省し、尚澄は自己嫌悪に陥った。
 大規模なシンポジウムと有名歌手のコンサートがたまたま同日に開かれていて、市内の大きなビジネスホテルがどこも満室だったのは不可抗力だった。とはいえ、もっとしらみつぶしに宿泊施設を当たっていればよかった。最悪ひとりでも入れるラブホテルでも探せばいいだろうと、面倒くさくなって食事を優先したのがまずかった。
 そもそももっと早く上津市に到着していればよかったのだ。目的地に行くまでのバスが日に何本、何時に出ているのかだとか、ちゃんと下調べをしておけばよかった。思いつきで、行き当たりばったりで行動するんじゃなかった。
 もとをたどれば、わざわざこんな地方に来る必要もなかったんじゃないのか。
 だって、とっくの昔に別れた元恋人の墓参りなんて。
 今更、なんの意味があるというのか……。

(……勇斗さん)

 鞄の中にあるはずの訃報のはがきを思い描いて、胸が押し潰されるように痛む。
 別れてからもう六年も経つ。亡くなったことを知ってからも半年以上過ぎているというのに、尚澄はまだ、元恋人……漆原勇斗うるしばらゆうとのことを忘れられないでいた。
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