ゆきかかり、果ての月

芹埜鍋

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 昨日と同じか少し早い夕方前に帰ってきた浜島は、尚澄の顔を見るなり「今朝はごめんな、急に話合わせてもらっちゃって」と手を合わせてきた。その顔には疲労の色が滲んでいるし、だいいち防寒着のたぐいも着たままだったので、尚澄は「それよりちょっと休んだら」と云うことしかできなかったのだが。
 服を着替えて人心地ついた浜島は、尚澄に茶を振る舞ってくれながら、ことの経緯を説明した。

 小岳平というのは田舎と聞いて想像するとおり、保守的で排他的なところの大いにある土地なのだそうだ。
 人によって保守、あるいは排他の程度に差はある。けれど狭い集落ではたいてい個人は全体と繋がっているも同然だ。だから、噂がどこで誰の耳に入って、どう考えられるか判らない。
 そうした土地で、「酔っ払って寝ていたから連れてこられた見知らぬ人」……つまり尚澄のような存在は、異物になり得てしまう。それを警戒して、つい先んじて来客のあることを明かし、それが「友達」であると嘘をついてしまった。

 だいたいそういう内容だった。
 尚澄もあのあと、腐るほどある暇な時間に考えを及ばせてはいた。
 たとえ田舎でなくとも、「酔っ払って寝ていた人を連れ帰ってきた」というのは説明に困る事象ではある。だから、昔からの知り合いであると偽られたのは納得できていた。
「都会時代っていうのは?」
 尚澄が気になったのは、どちらかといえばその単語のほうだった。
「そのままの意味だよ。三、四年前までは東京で働いてたんだ」
 俺こう見えて銀行マンだったんだよ、と胸を張る浜島に、尚澄は目を丸くした。確かにはえぬきの農家には見えないが、彼はお堅い銀行員ともイメージが違う。
 けれど、東京で働いていた、というのは、すんなり腹に落ちた。
 浜島はイントネーションや語尾にときどき方言由来の響きが混じるものの、岩雄と比べてもほとんど訛りがなかったし、くたびれた服を着ていてもどことなく垢抜けた風貌をしているように見えた。
 それに、「保守的で排他的な土地柄」で育った人間にしては、考え方もさばけていた……彼自身が「保守的で排他的」であるなら、そもそも街の酔っ払いをわざわざ自宅まで連れて帰ってはこないだろうから。
 聞けば彼の出身自体は県内で、小岳平のこの家には、元々母方の祖父母が住んでいたという。その祖父母が高齢になり、空き家になりかけていたところを、都会から戻ってきた浜島が土地家屋ごと住み継ぐことにし、ついでに就農したのだとか。
 なるほどどおりで年季の入った家なのだなと納得はしたが、彼が都会から戻ってきてひとりで暮らしている理由は、結局よくは判らなかった。
 尚澄も今は無職の身だ。昨今は景気の陰りがかなり出てきているのも事実で、失業して田舎に戻るようなつまづきの石は、案外どこにでも転がっているものなのだろう。

 そんな調子で軽い身の上話を交えたのち、浜島が夕食の支度をするというので、尚澄も朝同様手伝うことにする。
 いつも夕食を摂るよりもだいぶ早い時間だったが、空腹感も覚えていた。昼食が少なかったからだろう。
 朝、出がけに「家の中のもの勝手に食ったり使ったりしてくれていいから」と浜島が云い置いていってくれたので、尚澄は昼のうちに台所の中などをひとしきり眺めていた。それほど食欲がなかったので、そのときに見つけた粉末の梅昆布茶と、炊飯器に残っていた白米を少し拝借して昼食をすませたのだ。
 そのことを浜島に伝えると、「勝手に使えって云われても困るよな。ちゃんと用意してけばよかった。ごめんね」と、なぜか謝られてしまった。
 浜島が留守の間はそのほかに、家屋のあちこちを見て回った。  と云ってもどこまで立ち入っていいものか判らず、部屋数を数えるくらいで終わってしまったが。
 一階には茶の間、台所と、尚澄が寝起きさせてもらっている部屋のほかに、おそらく法事の際などに活躍していたのだろう広い座敷、納戸のような木戸の部屋、それに風呂やトイレなどといった水回りの設備がある。
 おそらく二階にも何部屋かありそうだったが、階段の傾斜も急で、用事もないのに勝手に上がってみる気にはなれなかった。
 そうして見て回っているうち、廊下に据え付けられた台の上に、黒電話が置いてあるのが目に入った。
 分厚い電話帳と、個人的な連絡先らしい古びたノートなどが台の下に収納されていた。

 尚澄は浜島が帰るまでの間、そこから電話帳を借りて眺めていた。
 勇斗の墓の場所がまだ、具体的に判っていなかったのだ。西上津町にししょうづまちというところに墓がありそうだ、と予想はついているのだが、その町のどの墓所に勇斗が眠っているのか知るすべを、尚澄は持っていなかった。


「あの、もしよかったら風呂を貸してもらえないかな。おとといからけっこう汗かいちゃってて……」
 夕食を終えたあと、尚澄は浜島にそう切り出した。
 風邪を引いて熱があったからというのもあるが、尚澄は上津市の土を踏んでからまだ一度も入浴していなかった。
 借りた洗面道具で身支度は整えられているとはいえ、発熱していた間にかいた寝汗などが気になり始めていたのだ。
 浜島はしまったという顔をして、「ごめん、気が回らなくて」と謝りながら、尚澄を浴室に案内してくれた。
 昼にもちらと見たが、水回りの設備は思いのほか近代的で……つまり、現代的とまでは云えないのだが……、風呂釜は尚澄にも馴染みのある、バランス釜だった。トイレについても洋式便座が据え付けられていたので、高齢だという祖父母が住んでいた頃に手入れをしていたのかもしれない。
 脱衣所にはやや型式の古い洗濯機もあり、浜島は尚澄の服を洗濯すると申し出てくれたが、尚澄はそれを断った。
 彼から借りているスウェットだけならいざ知らず、汗やなんかで汚れた下着まで彼に洗ってもらうのは、さすがに気が引ける。友人同士なら下着を洗ってもらうことにもなんの抵抗もないのかもしれないが、いくら気さくに振る舞っているとはいえ、浜島は友人ではないのだし。
「やり方を教えてくれたら自分でやるよ」と云ってみると、彼はすんなり洗濯機の使い方を教えてくれた。型が古いとはいえ、洗濯機には違いない。操作に複雑な部分もなく、一度の説明で使い方はすぐ覚えられた。
 そんな諸々の説明などをはさんでばたばたと風呂を借り、肝心の下着の替えを部屋に忘れたことに気がついたのは、すでに入浴を終え、浴室を出ようとしたときだった。
 脱いだ服は脱衣かごにやや乱雑に入れてある。もちろん下着もだ。
 それを再度着て、部屋に鞄を取りに行けばいいだけなのだが、せっかく身体を清めたのに汚れた衣類を着るのは、生理的に抵抗があった。
 幸い彼の寝泊まりしている部屋は風呂やトイレからそう離れてもいない。廊下は寒いとはいえ、行って帰ってくる間にどうこうなるというほどでもないだろう。
 万が一浜島と鉢合わせたときのことを考えると少し気まずい思いをしそうだが、ふつう異性愛者の男性は、同性の裸を見たところでどうとも思わないはずだ。自分が気にしなければ問題のないことだと、尚澄は躊躇する気持ちを振り切った。
 覚悟を決めて身体を拭いたあと、その大判のバスタオルを腰に巻いて、尚澄は廊下の寒さを想像しながら引き戸を引いた。

 浜島が立っていた。

「わ」
 思わず間抜けな声を上げた尚澄は、しかし彼が手に見慣れた鞄を持っているのを見て、その目的に気がついた。
 おそらく浜島も尚澄の着替えがないことに気がついて、部屋の荷物を持ってきてくれたのだろう。
 しかし、その荷物を受け取ろうとほとんど反射的に手を伸ばしかけたとき、尚澄は視界の端に違和感を覚えた。
 スウェットの厚地越しにも判るほど、浜島のものがかたちを持っていたのだ。
 見ているものが信じられずに浜島の顔を見る。
 そういえば彼は先ほどからずっと目を丸くして硬直していた。と、眺めるそばから、彼の頬が真っ赤に染まっていく。
「え……?」
 尚澄が疑問の声を漏らすと、浜島は我に返ったように視線を惑わせた。
 ひどく狼狽しているのが伝わってきて、それでかえって、自分の見たものが見間違いではなかったと理解できてしまう。
「ご、……ごめん、その、違くて。着替え、忘れてんじゃないかと思って来ただけで、」
 うろたえながら浜島はうつむき、尚澄から視線を逸らして鞄を差し出してくる。それを受け取りながら、尚澄は逆に、浜島に釘付けになっていた。まだその下半身は反応を示していて、そのためだろう、浜島は気まずそうに唇を噛んでいる。
 まさか、と思いつつ、妙に納得する気持ちもあった。

 ──ああ、だから。

 だから浜島は、ハッテン場の「お作法」のようなことを知っていたのだ。
 それに、その場に出入りする人たちにも偏見がなさそうだったのだ。

 ──当事者だから。

 でも、今の今まで気がつかなかった。こんな寒村の集落にも自分と同じ性的指向を持つ人間がいるなんて、想像だにもしなかった。
「……ごめん。き……気持ち悪いよな、俺」
 尚澄の沈黙をどうとらえたのか、やがて浜島の口から、諦めたような、自虐的な言葉が吐き出される。
「でも俺こんなつもりじゃなくて、その、事故っていうか……、あんたがそんな格好で立ってると思わなくて、……とにかく、あんたのことはその、そういうつもりで連れてきたんじゃないんだ。信じてもらえないかもしれないけど、ほ、本当に、ただのお節介のつもりで」
「浜島さん」
 歯切れの悪い弁明を始めた浜島に、尚澄は慌てて呼びかける。
 一度ではだめで、何度か呼びかけてやっと、浜島は顔を上げて尚澄の目をちらと窺ってきた。
 その目に浮かぶ怯えの色に、尚澄の心が痛痒を覚える。
 閉鎖的な土地、都会での挫折。
 そうした妄想めいた連想が、勝手に浜島のその目と結びついていくようだった。
「気持ち悪くないよ」
 たぶん人生のそこかしこで彼は、その性的指向を「気持ち悪い」と蔑まれてきたのではないだろうか。
 尚澄が自身の性の向きに自覚を持ったときには、幸運にもすでに勇斗がそばにいて、偏見の目のようなものからはある程度守られてきた。それでもやっぱり自らが「異質」であることはつらかった。
 否定されるのは、怖かった。
「その、おれも……、そうだから」
 わずかにためらって、尚澄はそう告げた。
 浜島はいやにぼんやりした目をしていた。言葉の意味が理解できないというか、信じられないのだろう。
 それに加えて、自らが醜態を晒してしまったショックもあるのではないか、と、尚澄は想像した。
 だからこそそんな状態の彼に云い聞かせるように、尚澄は同じ意味合いの言葉を、もっとゆっくり、そしてはっきり口にした。

「おれ、ゲイなんだ。男にしか興味を持てない。だから、あんたのそれは……別に、気持ち悪くないよ。おれも、一緒だから」

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