ゆきかかり、果ての月

芹埜鍋

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 土曜の夜、残業を終えてアパートに戻ると、部屋の前で勇斗がうずくまっていた。

 壁にもたれて膝を抱え込む彼の表情はうかがえないが、それなりに長い時間そこにいたのだろうという気がした。社会人になってからは整えられていることが多かった癖毛の襟足が、湿気で跳ねていた。
 彼は尚澄の足音に気がついて顔を上げると、「ナオ」とかすれた声で尚澄の名前を呼んだ。
 泣き出しそうな顔をしていた。
「……勇斗さん」
 言葉が出なかった。最初の一瞬こそ驚いたが、ずっと心に思い描いていた男が、すっかり憔悴して自分の前にいると思うと、嬉しいような悲しいような、あやふやで言葉にできない気持ちになる。
「ごめんね、急に来て……どうしても話したくて」
「ううん。こっちこそごめん……、ずっと、電話……」
 尚澄のか細い謝罪に、勇斗は弱々しく微笑んで首を横に振った。

 室内に勇斗を通すと、玄関をくぐるなり彼は尚澄を強く抱きすくめた。雨こそ降っていないとはいえ梅雨寒の日で、勇斗の身体はすっかり冷たくなっていた。
 寂しかった、と勇斗はやはり泣き出しそうな声で尚澄の耳元に囁く。心臓ごと抱きしめられているかのように、尚澄の胸が締めつけられた。寂しかったのは尚澄も同じだったが、彼の言葉に「おれも寂しかった」と返すのはあまりにも悪質で、はばかられた。
 尚澄は勇斗の腕をやんわりほどいて、彼を居間に通した。自身はキッチンで、濃いめにコーヒーをつくる。
 まだ決心がつかないでいたことが、けれど勇斗の顔を見ることで少しずつかたちを持ちつつあった。
 だからたぶん長い話になるだろう、という予感があった。
 それを長い話にしないために。端的に、事務的に告げるために、尚澄はコーヒーを彼に出してすぐ、声を発した。

「勇斗さん、せっかく来てくれたのに悪いけど、……おれと、別れてくれる?」

 切り出すなり、身を引き裂かれるような痛みが全身を襲ったような気がした。その痛みが喉を震わせようとしていたが、尚澄はそれを堪えて小さく唇を噛みしめた。
 勇斗はおそらくすでに覚悟していたのだろう、驚く様子もなく、代わりに苦しげなため息をひとつ吐いた。
 それから瞳を震わせては瞬きをし、やがてなにかを吹っ切るように、大きく首を横に振る。
「……ぼくのこと、信じられない? それとも、愛想が尽きたのかな」
 彼には珍しく少し投げやりな調子だった。「違う」と尚澄が否定すると、「じゃあどうして?」と切羽詰まった問いが投げかけられる。「どうして、別れるなんて……」
 尚澄はしばらく黙り込んだ。勇斗も、黙って尚澄を見ていた。
 いつもそうだった。自分の考えをまとめるのが苦手な尚澄を、勇斗は待ってくれていた。
 こんな話のときでもそうして待ってくれていることが、心苦しかった。今から喋る内容が彼に利益をもたらすことなんて、ないと判っているだろうに。
 いや、長期的に見れば利益になり得るのか。

 ──自分と別れたら、彼は自由なのだから。

 尚澄の頭に、場違いな自虐がふつりと浮かんだ。
「勇斗さんのこと、好きだよ。それは本当だ。今だって別れたくないと思ってるよ。でも……、でもおれ、たぶん、勇斗さんに子どもを持たせてあげられないことに、耐えられないんだと思う」
 勇斗はもしかしたら、本心を尚澄に語ってくれているのかもしれない。
 先日云ってくれたように、尚澄と一緒にいられたら子どものことは本当に、諦めがつくのかもしれない。今までのように、他人の子どもを見てかわいいと思うだけでも、満足できるのかもしれない。
 けれど今までの勇斗が、少なくとも子どもを育ててみたいと思っていたこと、それを尚澄への配慮で口にしていなかったことは明らかだった。だからこそ勇斗は、先日の会話で真っ先に尚澄に謝ったわけだから。
 だとしたらこの……少なくとも、子どもを持ちたい男にとっては無為な関係を、終わらせたほうがいいに違いないのだ。
「尚澄、やっぱりぼくのことを信じてくれてないじゃないか……」
 一度言葉が途切れた隙間に、勇斗の寂しげな呟きが落ちた。
 コーヒーの黒い水面を眺めていた尚澄が目を上げると、声と同じくらい寂しげな目をした勇斗と視線が絡む。
「この前は確かに、親になってみたい、みたいなことを云ってしまった。不用意な発言だったし、きみのことを慮ってあげられなくてすまなかったと思うよ。でも……、でも、ねえ、尚澄、六年だぞ。きみと一緒にいるようになって、もう六年が過ぎたんだ。あっという間だったよ。そう思えるくらい、幸せだったんだ。だからその間ぼくは、自分の子どもを持つことなんか夢にも思わなかった」
 嘘じゃない、と云う勇斗に、尚澄はかすかに頷いた。
 彼を疑っているわけではないのだ。
「……それでも、もう、だめなの?」
 尚澄の目を見て、勇斗は悟ったように悲痛な声を上げた。
「ごめん……、勇斗さんのせいじゃないんだ。おれが……ほかでもないおれのこと、許せなくなっちゃうと思ったんだ」
 勇斗がどう思っているかではなくて、彼に血の繋がった子を見せてあげられない自分が、悔しいのだ。
「このまま付き合っていけたら、きっとおれ、ほとんどの瞬間は幸せでいられると思う。おれだってずっと幸せだったんだよ。勇斗さんがおれのこと受け入れてくれたときからずっと。でも、きっとこれからは、子どもを見る勇斗さんのこと、おれが受け入れられなくなっちゃうと思うんだ……子どもを見てるときの勇斗さんって、本当にいとおしげな、すてきな顔をしていて、おれ、その顔が好きだったのに、これからはおれが、……おれが勇斗さんから可能性を奪っちゃったんじゃないかって考えて、きっと自分のことが嫌になるって、そう思ったんだ。それって……、つらいよ」
 尚澄の口から、濾過されていない言葉が垂れ流される。普段のように黙って考えをまとめることもできないまま、彼は思うさま頭の中の考えを口に出していた。
 考えていたら、一度考え始めてしまったら、もう喋り出すことはできなくなるように思われた。
「もちろん別れたってつらいよ。でもきっと、別れなくてもつらい思いをするんだ。おれがあなたに子どもを産んであげられないことを突きつけられて、あなたが、おれのせいで自分の子どもを抱けないんだって思わせられて、悲しくなる。だったら、……おれが、どっちを選んでもつらい、んだったらさ……、勇斗さんが、幸せになれそうなほうを、」
 言葉と一緒に涙がぼろぼろこぼれ落ちていく。こらえていた震えがあふれて、気がつけば尚澄は子どものようにしゃくり上げていた。
 勇斗は自身も涙をこぼしながら、手を伸ばして尚澄の頬をぬぐう。尚澄はその手を振り払おうとしたが、うまくいかなかった。勇斗の手は、室温とコーヒーでぬるく温まっていて気持ちがよくて、この温かさを失って生きていくことなど考えたくもなかった。
「ねえ、ナオ……、ぼくだって同じだ、とは、思ってくれないの?」
 尚澄の頬に触れたまま、勇斗は一度洟をすすって、涙声でそう問いかけてくる。
「ぼくがきみと別れて誰かと……、女性と結婚して、子どもができたとして……、ふとしたときに、ぼくはきみを……、きみを踏み台にしたことを思い出して、つらくなるかもしれない。そういうふうには、考えてくれないの?」
 ある意味では蠱惑的な言葉だった。そうであったらどれだけ嬉しいだろう、と、つい彼の不幸を願うようなことを考えてしまうほど。
 けれど尚澄は必死に首を横に振る。ひくつく喉を必死に整えて、「勇斗さんは、そうは思わない」と、息と一緒に言葉を吐き出した。
「勇斗さんは……、子どもに対して責任がある、から。おれのこと、考えてる暇なんかない、よ、きっと」
 勇斗は一瞬くしゃりと表情を歪め、それから、「かなわないな」と少し笑う。悲しげな笑みだった。
「……判った。よく判ったよ。ぼくが……、ぼくがきみに、そんな顔をさせてしまってるんだな。きみはもう、ぼくといても心の底からは幸せでいられないんだ。こんなに、傷つけてしまっていたなんて……」


 あの日最後にしたキスを、尚澄はずっと覚えている。
 玄関先で、このキスがすんだらさようならだね、と微笑んで唇を重ねてきた勇斗の唇の、なじんだやわらかさを。
 ひと月かふた月は、不意にこみ上げてくる喪失感や悲しさを堪えるので精一杯だった。唐突に迫り上がってくるさまざまな感情を押し殺すのに必死だった間、どう生活していたのか、尚澄はよく覚えていない。
 今はこうだけどきっと時間が解決してくれる、と自らに云い聞かせていたのはやけに鮮明に記憶していた。尚澄の見る世界が、少しずつくすんでいったことも。

 我に返ったのは秋が深まった頃だった。
 我に返ったのはいいが、勇斗のいない暮らしをどう送っていいか判らず、尚澄は途方に暮れた。

 ときには「このままではいけない」と出会いを求めたこともある。
 けれどうまくはいかなかった。
 優しそうな、強引な、それに勇斗と似たところのある、幾人かの男。そうした男たちとさまざまな場所で出会った。だが、関係を深める前に、それが勇斗でないことに気がついてしまうのだ。
 どんなに身体が合っても、どんなに優しくされても、その男は勇斗ではない。そして、たいして知りもしない男に身体を、心をこじあけられようとしている自分がむなしくなる。
 結局のところ、勇斗によって開けられた穴は、勇斗によってしかふさぐことができない。そう、尚澄自身が信じてしまっていた。

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