ゆきかかり、果ての月

芹埜鍋

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 六月だった。火曜日の夜の、いつものささやかな通話。
 彼が話していたのは、社用でデパートに出向いたときに見かけた子どものことだった。とびきりおめかしした女の子が母親とはぐれたらしく泣いていたので、見かねて声をかけたのだという。
『誕生日のお祝いで、お母さんやおじいさんおばあさんとランチをした帰りだったらしくてね。きれいな化粧品に見とれてるうちに大人とはぐれてしまったらしくて』
 勇斗とその子は少しその場で待ったが、縁者はなかなか現れなかった。おそらく女の子も最初にいた場所からは移動してしまっていて、見つけられずにいるのだろう。
 そこで彼はセオリーどおり、サービスカウンターで館内放送を入れてもらおうとした。
『慣れないきれいな靴であちこちうろうろして疲れてたみたいだから、抱っこしてあげようかって聞いたんだけど、もう自分はお姉さんになったからいらない、っていうんだ。それでゆっくり歩いて行ってね。いろんな話ができたよ』
 とはいえ幼い子どもの話だから要領を得ず、云っている内容は半分も理解できなかったらしい。
 ただ、好きに喋らせ勇斗が相づちを打っているうち、彼女はだんだん元気が出てきた。
『カウンターにつく頃にはすっかり泣き止んでくれてね。しまいにはおかあさんが迷子になったから呼んで欲しい、なんて云いだして。ちゃんとお母さんの服装なんかも覚えててね、ふふ、しっかりした子だったな。本当にかわいかった』
 勇斗が嬉しそうに笑う声に、尚澄もその様子が目に浮かぶようだった。
 なによりその子を見る勇斗の、眩しそうに細められていたであろう眼差しが想像できて、胸が苦しくなる。
 勇斗に対する愛おしさと、その頃には尚澄の中で常態化しつつあった、自責めいたもやつきのせいだった。
「また勇斗さんのよその子自慢が始まった。子どもが好きなのは、もう判ったよ」
 少し冗談めかして茶化したのが、あるいは間違いだったのかもしれない。
 尚澄はあとになってこの場面を思い出すたび、いつもそんなふうに後悔した。

『ごめん、でも本当にかわいかったんだよ。賢くて、少し背伸びもしててさ。できればぼくもああいう子の、親に……、』

 最初少しむきになっていた勇斗の言葉は、中途で失速し、途切れた。
 おかしな沈黙が落ちた。それでも尚澄には、その先の言葉が容易に想像できてしまった。

 ──親になれたらいいのに。

 あるいは、親になりたい、なってみたい、だろうか。
 なにかを思う前に、指先がすっと冷えた。そのあと胸が詰まって、尚澄は息をするのがやっとになる。
 言葉が出てこないのは勇斗も同じで、ただ沈黙だけが電話線を介して流れていた。
『……ナオ、……今のは、違うんだ』
 やがて勇斗が絞り出すようにそう呟いた。あまりにも悲痛な響きを持ったその声に、凍てついていた尚澄の頭がゆっくり回り始める。
『いや、そうじゃない……ごめん。ごめんよ、ぼくが無神経だった』
「いいよ、謝ることじゃないよ。勇斗さんが子ども好きなのは、ほんとに……、判ってる、から」
 声を発するたびに心臓が細い針に刺されているように痛んだ。無意識のうちに、受話器を握りしめる手に力がこもっていた。

「でも、……ねえ、勇斗さん? やっぱり、自分の子どもが欲しいって、思う、んだよね?」

 勇斗が電話口で息を飲んだのが伝わってきた。『違う、そんなことない』と返してきた彼の声は、震えていた。
 尚澄の脳裏には、勇斗のお見合い相手の女性のことが浮かんでいた。宣言どおりお互いに友人として、月に一度ほど食事をしているらしい。彼から聞くかぎりではさばけた性格で、「強い」印象の女性だが、勇斗とは気が合っているようだった。
『ナオ……、尚澄、ねえ、ぼくはきみがいてくれたらそれだけでいいんだよ。きみがいれば自分の子どもを持つなんてどうでもいいんだ。本当にごめん。今のは……軽率だった』
 だから謝らなくていいのに。
 尚澄の気持ちは声にならなかった。嗚咽めいた吐息が喉をふさいで、それを吐き出すのがやっとだった。謝られるとかえって悲しくなった。
 自らが傷ついたことを振りかざして、云いたくもないはずのことを勇斗に云わせてしまっている、と感じた。
「勇斗さん、……ごめん、い、今のは忘れて。なんでもないから。ねえ、今日はもう電話切るよ。ごめん、……ごめんなさい」
『ナオ……ナオ! 待って、』
 呼び止める勇斗の声を振り切って、尚澄は受話器を置いた。
 意識的に息を吸って吐くと、つるつると涙がこぼれて止まらなくなった。


 それから何日か、尚澄は勇斗の電話をとれなかった。
 電話はいつも似たような夜の深い時間にかかってきたから、ベルが鳴る頃には毎日在宅していた。習慣のせいでつい手を伸ばしかけたが、遅い時間に尚澄に電話してくる人間なんて勇斗しかいない。何度か呼び出しのベルを鳴らせばすぐに切れてしまい、しつこくかけ直されることもなかった。
 お互いの住まいも知っていたが、勇斗の住まいから少し離れた尚澄の部屋を、彼が訪ねてくることもなかった。ただ夜に電話が鳴るだけ。
 おそらくお互いの生活に影響が出ないように、という彼の理性が働いているのだろう。あるいは、尚澄のことなんてどうでもよくなってしまったのか。
 後者を否定するように、毎晩少しの間だけ電話のベルが鳴る。
 ベルは、尚澄の胸に深く響いた。

 自分がどうするべきなのか。勇斗の幸せのことを考えれば別れてあげたほうがいいに決まっている、と、尚澄は完全に思い込んでしまっていた。
 そして、自分がどうしたいのかは、考えられなかった。
 先の展開がない男と付き合っているより、愛する妻子に囲まれた幸せな家庭生活を送るほうが……その可能性を残すほうが、間違いなく勇斗のためだ。
 自分自身も、それを望んでいるような気がしてしまっていた。

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