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そのようにして浜島の家で過ごしている間に、雪の降り方は少しずつ穏やかになっていき、四日目にはほとんど降り止んでいた。
その日の午後、尚澄はすっかり自室と化した一階の和室で、自分の荷物から引っ張り出したはがきを眺めていた。
宛先は尚澄の実家で、『霜澤祥子様』と母の名が記されている。差出人は『漆原万里江』、住所は西上津町。
このはがきが、勇斗の墓が西上津町にあるという予想の根拠だった。
勇斗が結婚したことも、勇斗が死んだことも、尚澄は実家づたいに知らされた。
実家と勇斗の間には年賀状の行き来が続いていて、母は毎年送られてくる年賀状に記された彼の近況を、折に触れて尚澄に喋っていたのだ。
世間話の一環として、勇斗が自分の息子の恋人とは知らないまま。
同性愛者であることを家族には伝えていない尚澄は、進学を機に家を出て以来、親とはつかず離れずの関係を続けていた。
用事がなければ尚澄からは滅多に連絡をとらないが、親からの連絡を拒否するわけでもない。父はともかく、母は数ヶ月に一度は電話なり手紙なりで連絡を取ろうとしてくるので、結果として疎遠にならずに済んでいるわけだ。
母はやはり世間話として、尚澄と勇斗が別れた翌々年、「漆原先生、去年結婚したらしいわよ」と、様子伺いの電話のついでに告げてきた。
そのときもショックは大きかったが、今年の春頃に「漆原先生、亡くなったそうなのよ」と訃報を持ち出してきたときは、母となにを話したか思い出せないほど呆然とした。
何事か母が喋っているのが耳を通り抜けていく感覚だけが妙に残っているのだが、おそらく訃報のはがきが勇斗の妻から送られてきたことや、「まだ若かったのにかわいそうね」といった、他人事のような同情を口にしていたのだろう。
ほどなくして母から荷物が……確かに「買いすぎた米を送る」とかなんとか云っていた……送られてきたとき、件のはがきはその中に、米と生活雑貨に紛れて、無造作な茶封筒に入れられて同封されていた。尚澄が送ってくれと頼んだのかどうかも覚えていないが、おそらくそうなのだろう。
深くは考えなかった。というか、なにも考えられなかった。
はがきの差出人にある漆原万里江というのは、おそらく勇斗の見合い相手だった「万里江さん」に他ならない。英語が堪能で英会話教室に勤めていた、結婚願望がなかったはずの女性だ。はがきの肉筆は、確かに有能そうな、整っているがやや角張った印象の文字だった。
そんな文字で、勇斗の訃報が数行に渡って記されていた。短い闘病生活の末の病死だったことと、報せが遅れたことを詫びる文面が、淡々と綴られている。それと文末には、差出人欄にない「優梨」という名前が、万里江と連名で記されていた。
米が届いたという礼の電話ついでに問うたところ、「この前も話したじゃない、お子さんも小さいのにねえって。あんた聞いてなかったの?」と呆れたような口調で、母は「優梨」が漆原家の幼い長女であることを教えてくれた。母に改めて礼を云い、ゴールデンウィークには帰れなくなった旨を伝えて電話を切ったあと、尚澄はじわじわ湧き上がってくる欠落感に座り込んだ。
とっくに手の届かなくなった男だった。だから彼がこの世から失われたからって、尚澄の生活は特に代わり映えがない。そのはずなのに、尚澄はなにもかもが希薄になっていく気がした。
今までも色褪せていた世界が、日常というものが、半透明の薄い膜を隔てたようにうつろでおぼろなものに感じられた。
時間がたってもその膜は取り除かれることがなかった。
ただ勇斗のかたちをした穴だけが、心の中で黒々と鮮明に存在感を放っていた。
なにを食べても砂を噛むように感じられるようになったのはこの頃からだった。
仕事のパフォーマンスも落ちていった。
社会生活を変わりなく送っているように見せかけてはいたが、尚澄は内側からぽろぽろと生を取りこぼしているような心持ちで、日々身体を動かしていた。
そんな折、社内に大規模な人員整理の話が持ち上がった。
急激に訪れた不況と放漫経営が原因で、同規模の他社同様、あるいはそれ以上に尚澄の会社も苦境に立たされていた。倒産する企業も多い中、まだ多少身動きのとれるうちに身軽になりたい、という思惑が働くのも無理からぬことだ。
いわゆる肩叩きも行われるようだったが、早期退職希望者も募るという「お触れ」が出ていた。退職金に些少ながら色がつくというもので、本来的には給与額の大きい古株をお払い箱にするために設定された制度のはずが、なぜか勤続年数や年齢に、特段の制限が設けられていなかった。
それをいいことに泥舟から下りたい社員が何人か制度を利用していたし、尚澄もまた手を挙げた。
会社からではなく、社会生活から逃げたかった。
疲れ切っていた。
このままでは会社に大きな損害を与えるミスをしかねない、という危惧もあったが、一向に立ち直りの気配もなく、日々をやり過ごすのに精いっぱいで、とにかく疲弊していた。
幸い貯蓄はそれなりにあるし、退職金が出るならしばらくは休めるだろうと判断した。長く続きそうな不況下、再就職の口が見つかるかどうかは判然としなかったが、とにもかくにも働ける状態ではなかった。
丁寧な仕事をしてきた年若い尚澄を惜しむ声もないではなかったが、他の若手同様沈みかかった船から降りたいのだろう、と解釈する向きもあり、強引な引き留めには合わずに退職できた。
そうして仕事を辞め、アパートにこもって訃報のはがきを眺めながら寝起きするだけの生活をしばらく送って、ふと「このままではいけない」と思った。
それで上津市に来たのだ。そこにあるであろう勇斗の墓に手を合わせたら、尚澄自身を覆っている、存在を希薄にしている薄い膜が取り除けるのではないかと、ある意味では期待して。
でも、やっぱり失敗だったのかもしれない、と今に至って尚澄は考えている。
前に「このままではいけない」と行動を起こしたときも、失敗した。勇斗と別れたあと、彼を忘れよう、彼の穴を埋めようと行動して、残ったのは結局むなしさだけだったように、今回も。
その日の午後、尚澄はすっかり自室と化した一階の和室で、自分の荷物から引っ張り出したはがきを眺めていた。
宛先は尚澄の実家で、『霜澤祥子様』と母の名が記されている。差出人は『漆原万里江』、住所は西上津町。
このはがきが、勇斗の墓が西上津町にあるという予想の根拠だった。
勇斗が結婚したことも、勇斗が死んだことも、尚澄は実家づたいに知らされた。
実家と勇斗の間には年賀状の行き来が続いていて、母は毎年送られてくる年賀状に記された彼の近況を、折に触れて尚澄に喋っていたのだ。
世間話の一環として、勇斗が自分の息子の恋人とは知らないまま。
同性愛者であることを家族には伝えていない尚澄は、進学を機に家を出て以来、親とはつかず離れずの関係を続けていた。
用事がなければ尚澄からは滅多に連絡をとらないが、親からの連絡を拒否するわけでもない。父はともかく、母は数ヶ月に一度は電話なり手紙なりで連絡を取ろうとしてくるので、結果として疎遠にならずに済んでいるわけだ。
母はやはり世間話として、尚澄と勇斗が別れた翌々年、「漆原先生、去年結婚したらしいわよ」と、様子伺いの電話のついでに告げてきた。
そのときもショックは大きかったが、今年の春頃に「漆原先生、亡くなったそうなのよ」と訃報を持ち出してきたときは、母となにを話したか思い出せないほど呆然とした。
何事か母が喋っているのが耳を通り抜けていく感覚だけが妙に残っているのだが、おそらく訃報のはがきが勇斗の妻から送られてきたことや、「まだ若かったのにかわいそうね」といった、他人事のような同情を口にしていたのだろう。
ほどなくして母から荷物が……確かに「買いすぎた米を送る」とかなんとか云っていた……送られてきたとき、件のはがきはその中に、米と生活雑貨に紛れて、無造作な茶封筒に入れられて同封されていた。尚澄が送ってくれと頼んだのかどうかも覚えていないが、おそらくそうなのだろう。
深くは考えなかった。というか、なにも考えられなかった。
はがきの差出人にある漆原万里江というのは、おそらく勇斗の見合い相手だった「万里江さん」に他ならない。英語が堪能で英会話教室に勤めていた、結婚願望がなかったはずの女性だ。はがきの肉筆は、確かに有能そうな、整っているがやや角張った印象の文字だった。
そんな文字で、勇斗の訃報が数行に渡って記されていた。短い闘病生活の末の病死だったことと、報せが遅れたことを詫びる文面が、淡々と綴られている。それと文末には、差出人欄にない「優梨」という名前が、万里江と連名で記されていた。
米が届いたという礼の電話ついでに問うたところ、「この前も話したじゃない、お子さんも小さいのにねえって。あんた聞いてなかったの?」と呆れたような口調で、母は「優梨」が漆原家の幼い長女であることを教えてくれた。母に改めて礼を云い、ゴールデンウィークには帰れなくなった旨を伝えて電話を切ったあと、尚澄はじわじわ湧き上がってくる欠落感に座り込んだ。
とっくに手の届かなくなった男だった。だから彼がこの世から失われたからって、尚澄の生活は特に代わり映えがない。そのはずなのに、尚澄はなにもかもが希薄になっていく気がした。
今までも色褪せていた世界が、日常というものが、半透明の薄い膜を隔てたようにうつろでおぼろなものに感じられた。
時間がたってもその膜は取り除かれることがなかった。
ただ勇斗のかたちをした穴だけが、心の中で黒々と鮮明に存在感を放っていた。
なにを食べても砂を噛むように感じられるようになったのはこの頃からだった。
仕事のパフォーマンスも落ちていった。
社会生活を変わりなく送っているように見せかけてはいたが、尚澄は内側からぽろぽろと生を取りこぼしているような心持ちで、日々身体を動かしていた。
そんな折、社内に大規模な人員整理の話が持ち上がった。
急激に訪れた不況と放漫経営が原因で、同規模の他社同様、あるいはそれ以上に尚澄の会社も苦境に立たされていた。倒産する企業も多い中、まだ多少身動きのとれるうちに身軽になりたい、という思惑が働くのも無理からぬことだ。
いわゆる肩叩きも行われるようだったが、早期退職希望者も募るという「お触れ」が出ていた。退職金に些少ながら色がつくというもので、本来的には給与額の大きい古株をお払い箱にするために設定された制度のはずが、なぜか勤続年数や年齢に、特段の制限が設けられていなかった。
それをいいことに泥舟から下りたい社員が何人か制度を利用していたし、尚澄もまた手を挙げた。
会社からではなく、社会生活から逃げたかった。
疲れ切っていた。
このままでは会社に大きな損害を与えるミスをしかねない、という危惧もあったが、一向に立ち直りの気配もなく、日々をやり過ごすのに精いっぱいで、とにかく疲弊していた。
幸い貯蓄はそれなりにあるし、退職金が出るならしばらくは休めるだろうと判断した。長く続きそうな不況下、再就職の口が見つかるかどうかは判然としなかったが、とにもかくにも働ける状態ではなかった。
丁寧な仕事をしてきた年若い尚澄を惜しむ声もないではなかったが、他の若手同様沈みかかった船から降りたいのだろう、と解釈する向きもあり、強引な引き留めには合わずに退職できた。
そうして仕事を辞め、アパートにこもって訃報のはがきを眺めながら寝起きするだけの生活をしばらく送って、ふと「このままではいけない」と思った。
それで上津市に来たのだ。そこにあるであろう勇斗の墓に手を合わせたら、尚澄自身を覆っている、存在を希薄にしている薄い膜が取り除けるのではないかと、ある意味では期待して。
でも、やっぱり失敗だったのかもしれない、と今に至って尚澄は考えている。
前に「このままではいけない」と行動を起こしたときも、失敗した。勇斗と別れたあと、彼を忘れよう、彼の穴を埋めようと行動して、残ったのは結局むなしさだけだったように、今回も。
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