ゆきかかり、果ての月

芹埜鍋

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 寝つかれなかったら浜島の部屋に行こうと、この日の尚澄は決めていた。今日は特に寂しい気持ちが強かったからだ。

 人肌を感じたかった。

 病み上がりのあの一夜からこっち、彼はずっと「気のいい友人」のような立ち位置をとり続けている。もしかすると再び身体を求められることもあるのではないか、と、尚澄はある種の覚悟を抱いていたのだが、その後一度もそういうことはなかった。
 浜島はセックスに持ち込むことはおろか、性的な雰囲気になることにさえも細心の注意を払っているようにすら思えた。
 尚澄もそれに甘え、気さくな話し相手として彼に接してきた。
 けれど本質的には、尚澄と浜島は、行きずりの、行きがかり上の関係でしかない。
 それならこっちから誘ったって別にかまわないはずだ。尚澄は半ばいいわけのように、自分に云い聞かせていた。

 ──キスなんか、好きな相手とじゃなきゃするようなもんじゃないだろ。行きずりの相手とはしないほうがいい。

 あの夜に聞いたそんな云い回しが、頭をかすめる。

 浜島があれから尚澄を誘わないのは、単純な話で、尚澄が彼の好みに合わないからではないか。好きでもない相手に何度も手を出して、面倒な火種を抱えたくないからではないのか。尚澄はそう考えていた。
 当たり前だが、同性愛者だって男なら誰でもいい、わけではないのだ。
 あの日浜島が好みではない尚澄を抱いたのは、本当に身体が限界だったからか、尚澄の面子を潰さないためか、そんなところではないのか。あの晩の感想をふたりは互いに言葉にしなかったが、尚澄に関して云えば、そうした邪推がないでもなかった。
 それでも。そうだとしたら。
 尚澄から誘えば浜島は、また寝てくれるのではないか。

 打算だ。
 耳が痛くなるほど静まりかえった夜、落雪や雪折れの音を聞きながら寝つかれないでいるのが、今日は特につらかったのだ。もうすぐ離れなくてはいけないこの家の環境を惜しむのも、勇斗との過去を無為に思い返すのも、うんざりだった。
 自分勝手な理由だが、それを紛らわせるために、浜島にすがりつきたかった。少なくとも尚澄は、自分がそういう気持ちでいると思っていた。
 断られるかもしれないが、時間をかけて風呂に入り、身体も準備した。もしすとんと眠りに落ちればそれでよかった。けれど……。
「浜島さん」
 逡巡を断ち切るように、尚澄は襖の前から小さな声で呼びかける。
 本でも読んでいるのかページをめくるような音がしていたが、それがはたと止まった。
「……霜澤さん? どうしたの」
 返事は、意外そうな呼びかけとしてすぐ帰ってきた。慌てたように立ち上がる衣擦れの音があってすぐ襖が引かれると、例によって寝間着代わりにスウェットを着た浜島が、眠たげな目をわずかに丸くしていた。
「まだ寝てなかったんだ。どうしたの、こんな時間に……、いや、まずこっち入ってよ、寒いだろ?」と浜島に部屋の中に促されて、尚澄の断ち切れない迷いが再び首をもたげた。
 古びた蛍光灯の黄みがかった光が、ぼんやりした雪明かりに慣れた目にまぶしく感じられる。尚澄が寝ているのと大差ない煎餅布団の上に、農業関係らしい本が投げ出されていた。
「あ……」
 彼の寝床に妙に狼狽して、尚澄は浜島とその部屋から目を逸らす。
 この人柄のいい誠実な男に、抱いてくれなどと打算で頼もうとしていた自分の浅ましさに、今更ながら行き当たった心持ちだった。
「あの、……ごめん……、ごめん、なんでもない」
 逃げるように身を引いた尚澄の手を、しかし、温かい感触が包む。

 求めていた人肌の温度だ、と思った。

「待ってよ。そんな、なんでもないことないだろ? とりあえず入ってよ。手も冷たいよ」
 骨張って大きく、温かな浜島の手に引かれ、尚澄は泣きたいような気持ちになりながら、彼の部屋の敷居をまたいだ。
 座卓の前に敷かれていた座布団を「ぺらぺらでごめんね」と勧めながら自らは布団の上に腰を下ろし、浜島は尚澄と向かい合う。彼はしばし黙って尚澄が口を開くのを待ってくれていたが、その口がためらっているのを見て取ると、ふと微苦笑を浮かべた。
「霜澤さん、大事そうなことはあんまり喋ってくれないんだよなぁ。……でも俺、なんとなく判るよ。あんまり静かで、寂しくなったんじゃない?」
 そのものずばりを指摘され、尚澄はおずおずと浜島の表情を伺う。特に軽蔑するでもなく嘲るでもない、いつもの彼の顔だった。
「あのね、俺もよくあるんだよ。前も云ったかも知れないけどさ、ここってあんまり人と関わらないから。いや、昼間は爺さん婆さんと喋ってばっかりなんだけど、夜になるとまあ、ずいぶん静かだろ? 急に『ひとりになったな』って感じがして、妙に寒さが身にしみて、寂しくなっちゃうんだよね。なんだか自分がひとりぼっちだって痛感しちゃうというか」
 そう云いながら、浜島はわずかに視線をさまよわせて沈黙し、ためらいがちに尚澄の手に自らの手のひらを重ねてくる。座布団の上で正座して所在なく縮こまっていた尚澄は、その硬くて温かい手のひらに、はっと目を上げた。
「あんたもそうなんじゃないかと思って。違う? まあ霜澤さんはここの人じゃないし、都会に戻れば友達なり家族なりがいるのかも知れないけど、……逆に考えたらさ、慣れない田舎で足止めされてて、夜、寒くてこたえちゃうこともあるんじゃない?」
 優しげな声音に、尚澄はとうとう頷く。
 寂しい、という言葉を口に出すことは、しかし難しかった。
 浜島の暮らしを想像してしまったからだ。
 今は尚澄に向かって「おはよう」「おやすみ」と挨拶をしてくれるし、一緒にいればいろいろと話もできる。けれどこれまでの冬、浜島はひとりで寝起きし、ひとりで食事を摂り、日のあるうちはよその家の手伝いや農具の手入れをして、それが終わればひとりで絵を描いてきたのだ。
 そして、ひとりで寝つかれない夜を過ごしてきた。
 尚澄も長いことひとりだった。ずっと薄い膜で外界と遮断されているような心地がしていた。けれど、浜島の孤独はおそらく、それよりもっと即物的で現実的なものだ。そんな彼に向かって、自分が「寂しい」と云うことが、尚澄にははばかられた。
「ひとりでいると、なんか……雪の音が、耳について」
 寂しい、の代替を探して、やっと出てきたのはそんな曖昧な言葉だったが、浜島は「判るよ」と微笑んでくれた。
「俺もここに住み始めた頃はそうだった。小さい頃この家に遊びに来てたときは、むしろ賑やかな感じだったんだよね。じいさんもばあさんも住んでたし、そもそも家族四人で来てたわけだし。だからこの家を俺が継ぐって云い出したときには、冬、ここでひとりで過ごすってことを、よく考えてなかったんだ。それがどれくらいしんどいのかをさ」
 最近はさすがに慣れてきたけどね、と浜島は首をすくめた。
 浜島の孤独を垣間見たような気がした。
 それでも快活さを崩さない彼の態度にしなやかな強さを見て、尚澄は畏敬の念にも近い感情を覚えた。
 彼は尚澄の感慨には気づかず、そうだなぁ、と考えを巡らせて腕を組む。温かな手のひらが離れていったことに、尚澄は今までのものとは別種の寂しさを感じる。
「霜澤さん、もし嫌じゃなきゃ今日はここで寝なよ。布団は下から持ってくるから。単純だけど、やっぱ寂しいときは人といるのが一番だからさ。別に俺、その、手出さないから」
 どう? といたずらっぽい顔で問われて、尚澄は咄嗟に身を乗り出し、あぐらをかいた浜島の太腿に、自らの手をそっと乗せた。浜島は一瞬のことに、びくりと身を固くして、驚いたように尚澄を見やる。
 分厚い布越しにも浜島の体温を感じて、求めていた温度だ、と尚澄は再び思った。
「……手、出して欲しいと思って、来たんだ」
 尚澄が囁くと、浜島は困惑したように「え……」と息を呑む。
「おれ、どうしても、寂しくって……。あんたが嫌じゃなかったら、……し、したいなと思って。その……準備も、してある」
 おれとするの面白くないかも知れないけど、と自虐的な言葉を続けながら、尚澄は自分の意識の微細な変化を認識しかけていた。
 この部屋に来たのだってそもそも浜島と寝ようとしていたからだが、今はなんとなく、心持ちが違う。
 違った上で、それでも浜島に抱かれたいと思っていた。

 まだ寂しくはあって、けれど、彼の云うように同じ部屋で布団を並べて眠れば、解消できるだろうという予感もある。
 でもそれよりも、許されるなら、彼の体温とひとつになって、抱き合って眠りたかった。
 浜島はさっきまでの穏やかな表情が嘘のように、難しい、困ったような、あるいは苦しげな顔をしていたが、やがて「据え膳じゃ無視できないな」と吐き出したかと思うと、
「あんたがしてもいいって云ってくれるなら、俺もしたいよ。面白くないなんてことない。でも……ほんとに、いいの? 霜澤さん」
 と、太腿の上の尚澄の手のひらを、また包み込むように握りしめてくれた。
「うん……、悪いけど、寄りかからせて欲しいんだ。ごめん」
 尚澄の返答に浜島はゆるくかぶりを振り、更に手のひらに力を込めてくる。
 さっき手を引いてくれたときよりも、そのあと手を重ねてくれたときよりも、彼の手のひらは熱を増していた。

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