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「いつ帰るのか」という問いについては一旦保留になった。
尚澄が思いがけず考え込んでしまったうえ、話の流れも写真撮影のドタバタでうやむやになってしまっていた。
食後の片付けなどを終えても考え込んでいる尚澄の様子を見て、「よし、霜澤さんが考えてる間に作業しちまおう」と、浜島はしびれを切らした様子でもあった。
彼に促され、ふたりは浜島のアトリエに移動する。
据え付けてある椅子に座って、尚澄は障子のほうに目をやりながら、「いつ帰るのか」という疑問になんと答えるのがいいのか、考え続けた。
帰りたくない気持ちを、尚澄は先ほどまでよりしっかり認識していた。
やはり、今の暮らしが惜しいようなのだ。
浜島のとりとめもないお喋りを聞いているうちは、勇斗への感情についても、自分を取り囲んでいる薄い膜のようなもののことも意識せずにすんでいた。それが、楽だった。
雪に埋もれた真っ白な世界は、それでも膜の内側から見るくすんだ景色よりは輝いて見えるのだ。
帰らないわけにはいかない。それは重々承知している。
いつまでも浜島に迷惑をかけられない。それも何度も自分に云い聞かせていることだ。
浜島が帰る前、訃報のはがきを見ながら考えていたことを、尚澄は堂々巡りで考え続けていた。
「霜澤さん、ちょっとこっち見て」
「ん」
浜島の声がかかって、尚澄は我に返る。
浜島を見やれば、彼の真剣な眼差しが画布と尚澄を行き来していた。
いつもくるくると表情豊かな浜島は、真顔で沈黙していると少し威圧感のある顔になる。
彫りが深く、やや角張った輪郭をしているせいだろうか。引き締まった体躯もあって、黙っていれば武骨な男前といった風貌だ。
しかしその威圧感のためか、窪んだ眼窩から強い光を放つ瞳に見つめられていると、なんとなく肉食獣に獲物として見定められたような心地がするのだ。特に彼が絵を描いているとき尚澄を観察する目には、身体を重ねたときに垣間見えた獣性のようなものを想起してしまう。少しだけ気まずく、むずがゆい感覚だった。
観察されることに居心地が悪くなると、尚澄はあえて浜島の顔をじっと見つめ返して、その心地の悪さを言外に訴えた。そうすると浜島は尚澄の視線に気がついて、ふと表情を緩める。
いつもならそのあと彼は、少し照れたように手元に視線を戻すのだが。
「……霜澤さん、訊いてもいい?」
「うん? なに?」
この日珍しく浜島は、尚澄と目を合わせたまま、ためらいがちに口を開いた。
「その、西上津にいるって友達のこと。あんたみたいな人の友達がこっちに縁があるってのがちょっと意外でさ。どういう人なのかなって、ずっと気になってたんだけど……」
歯切れの悪い質問に、尚澄は一瞬、手のひらに汗をかいたような気がした。
友達がいるというのは嘘だったが、「人に会いに来た」というのは広義では真実でもある。それが墓参りであることを隠しているだけだったからだ。
当初はあまりにも個人的で湿っぽい事情をうまく説明する自信もなく、咄嗟にその事実を伏せたのだったが、今なら「墓参り」であることくらいは告げてもいいような気がした。
「……高校時代に知り合った人でね。結婚して、まあ、奥さんの実家があるっていうんで、こっちに来たみたい」
けれど、浜島に勇斗のことを話そうとすると、妙に喉につかえるものがあって、尚澄は今までの嘘を否定しないような返答をした。「友達」が元恋人であることも、故人であることも、どうしても唇に乗せる決心がつかなかった。
「ふうん。珍しいね、旦那が奥さんの実家の方に来るって」
「そうだね……、まあ、実家はお兄さんに任せてるとか云ってたから平気なんだろうけど」
それでも少しずつ勇斗の情報を開示していくと、妙に胸苦しくなってくる。結果として、奥歯にものの挟まったようなことしか云えなくなってしまう。
口ごもりがちな尚澄の様子に気がついたのか、浜島は「あんまり訊かないほうがいい?」と、少しだけ突き放すような声で問うてきた。
「いや、別にそんなことないよ。でも……その、実のところ、引っ越す前に……、というかもうけっこう前におれ、その人と、けんか別れしちゃってて。ちょっとわだかまってるというか」
──どうしておれ、浜島さんに嘘ついてるんだろう。
嘘とは云いきれないが真実でもないようなことを口にしながら、尚澄は自分の心の動きがよく判らないでいた。
洗いざらいぶちまけてもいい、と思う気持ちはあるのに、いざ勇斗のことを口にしようとすると、どうしても言葉を濁し、都合のいいように云いかえようとしてしまう。
──誰に対して罪悪感があるのか。
妙に冷たい自分の声が聞こえた気がして、尚澄はぴくりとまぶたを震わせた。
「そっか。じゃあ、……仲直りしに来たってわけか。でもその人と会うのが怖いんだな、霜澤さん」
浜島がぽつりとした声で、独り言のようにそう呟く。
「怖い?」
「うん。うーん……」
浜島はひとしきり天井をにらんで、やがて自信なさげに言葉を吐き出した。
「経緯は判らないけど、けんか別れした人と仲直りしたいなら、どっちかが謝らなきゃいけないだろ。霜澤さんがこっちに来たってことは、たぶんあんたから謝ろうと思ってるんだよな。そうだろ? でも、謝ったところで許してくれるかどうか判らない。下手したら、こっちが許せるかどうかも判らないしな。そもそも昔の話じゃ相手はもう自分のことなんてどうでもいいと思ってるかもしれないし、自分みたいにまだ気にしてるかどうかもはっきりしない。そういうギャップとか、自分でまだ気づいてないような自分の気持ちを認識するのが、なんというか、怖い……勇気が出ない、みたいな。そういうふうじゃない?」
自信なさげに、曖昧に言葉を切ったあと、ふと唇を歪め、「なんてな。これは俺がケンカしたときによくあるやつ。ちょっと判りにくい話になっちゃってごめん」と、浜島は自嘲的に笑った。
「……いや、判るよ。おれもそうなのかも」
彼と別れたことを謝りたいと思ったことはないが、後半は尚澄の胸を少しばかり突き刺す内容だった。
浜島の留守中に眺めていた電話帳には、当然のように漆原家の電話番号も載っていた。西上津町に漆原は一件しか記載がなく、名前も一致しているくらいだから絞り込む必要もない。
だから本当はここに電話をかけ、勇斗の昔の教え子だと名乗って墓所を教えてもらうのが正しい道筋だった。
しかし、尚澄にはそれがおそろしく高いハードルのように思えた。
万里江はきっと、なにも知らずに勇斗と見合いをし、意気投合して結婚しただけだ。当然だが尚澄のことなど知る由もない。
けれど尚澄は、勇斗伝いに彼女を知っている。
たとえば、「彼女に勇斗を盗られた」「彼女のせいで別れた」というような馬鹿げた意識はまったくないし、あくまでも「昔家庭教師として教わっていた教え子」という立場で接するだけなら、きっと仮面を被っていられるとも思う。
しかしそうであっても、積極的に接したいわけでは、決してなかった。
自分と別れたあとの勇斗がどういうふうに生きていたのかを知るのが、怖かったのだ。
浜島の云う、「ギャップを認識するのが怖い」というのに近い心境だ。
勇斗が幸せな家庭を持ったと知るのも気後れするが、万が一彼が、不幸な結婚生活を送っていたとしたら。
どちらにせよ、彼女と言葉を交わし、勇斗の結婚生活が垣間見えたとき、自分がどうなってしまうのか、尚澄には皆目見当がつかなかった。
尚澄が山を下り渋っているのは、あるいはそのあたりにも理由があるのかもしれない。
浜島は尚澄の様子に思うところがあったのだろう、いつ帰るのか、という質問はアトリエでも再びうやむやになって、そのあとは、いつもどおりだった。
本当は即断してしかるべきことなのにと情けなさを覚えるが、未だ結論を出せない尚澄には本当にありがたい猶予だ。
アトリエでの時間が過ぎ去ると、夕食を済ませて風呂に入る。
今は浜島が先で尚澄があとと入浴順が決まっていた。初回こそ尚澄が一番風呂をもらっていたが、そのあとは「外で働いてくる家主の浜島が最初に風呂に入るべき」と固辞し、「客が先に入るべき」と云い張っていた浜島も、尚澄の妙な頑固さに根負けしてそうなった。
尚澄は浜島の入浴中に夕食の食器を片付け、各々入浴がすめば、あとはそれぞれ部屋へ入って眠りにつく。
浜島と別れると、いつも小さな寂しさが胸に訪れた。
農家の生活習慣か、浜島はいつも早い時間に眠りについてしまう。照明のひもを引く音が静まり返った家中に妙に大きく響くので、一階と二階で別れているのにもかかわらずそれが判るのだ。
静寂の中、寒いせいか寝つきの悪い日が多く、尚澄は心細い夜を過ごしていた。
障子や雪囲いを通してもなおぼんやりと明るい外を意識しながら、去来するさまざまな……たいていはネガティブな心情を、何度も寝返りを打って必死に散らす。
静かな夜は、勇斗との電話のことを思い出させるのだ。
別れてからずっとそうだった。
夜が深くなると、電話のベルが鳴るような気がして落ち着かない。彼とのささいな会話を思い出すことも、鳴り響く電話の前で立ち尽くしていた日々を思い出すこともあって、ここに来てからは前者が多くあった。おそらく浜島との他愛ないお喋りで、記憶が知らず掘り起こされているのだろう。
勇斗と交わした、そしてもう二度と交わされることのない、ささやかな幸せ。
そうした記憶や考え事をやりすごしているうちにうとうととしてくるが、時折どさりと屋根や樹木から雪が落ちる音、それにみしみしとかぱきぱきとかいう、鈍くて重い音が外から響いてきて、そのたびに浅い眠りが途切れる。
寝つかれない予感がした。音が妙に耳につくときは、大抵そうだからだ。
それでもしばらく布団の中でもぞもぞしていたが、案の定安らかな眠りはいくら待っても訪れそうにない。
遠い日の失われた幸福、みしりと樹木の軋む音……鈍重な音の正体が「雪折れ」という現象だと、尚澄は浜島から聞いて知った……そうしたものをやりすごすことに、尚澄は辟易していた。
仕方なく覚悟を決めて、尚澄は布団から緩慢に這い出した。足音を忍ばせて部屋を出、妙に傾斜の急な階段を這いつくばるように上がって、たどり着いたのは、浜島の部屋の前だった。
幸い襖の隙間から明かりが漏れてきている。かすかに聞こえてくる物音からも、彼が起きていることは明らかだった。
尚澄が思いがけず考え込んでしまったうえ、話の流れも写真撮影のドタバタでうやむやになってしまっていた。
食後の片付けなどを終えても考え込んでいる尚澄の様子を見て、「よし、霜澤さんが考えてる間に作業しちまおう」と、浜島はしびれを切らした様子でもあった。
彼に促され、ふたりは浜島のアトリエに移動する。
据え付けてある椅子に座って、尚澄は障子のほうに目をやりながら、「いつ帰るのか」という疑問になんと答えるのがいいのか、考え続けた。
帰りたくない気持ちを、尚澄は先ほどまでよりしっかり認識していた。
やはり、今の暮らしが惜しいようなのだ。
浜島のとりとめもないお喋りを聞いているうちは、勇斗への感情についても、自分を取り囲んでいる薄い膜のようなもののことも意識せずにすんでいた。それが、楽だった。
雪に埋もれた真っ白な世界は、それでも膜の内側から見るくすんだ景色よりは輝いて見えるのだ。
帰らないわけにはいかない。それは重々承知している。
いつまでも浜島に迷惑をかけられない。それも何度も自分に云い聞かせていることだ。
浜島が帰る前、訃報のはがきを見ながら考えていたことを、尚澄は堂々巡りで考え続けていた。
「霜澤さん、ちょっとこっち見て」
「ん」
浜島の声がかかって、尚澄は我に返る。
浜島を見やれば、彼の真剣な眼差しが画布と尚澄を行き来していた。
いつもくるくると表情豊かな浜島は、真顔で沈黙していると少し威圧感のある顔になる。
彫りが深く、やや角張った輪郭をしているせいだろうか。引き締まった体躯もあって、黙っていれば武骨な男前といった風貌だ。
しかしその威圧感のためか、窪んだ眼窩から強い光を放つ瞳に見つめられていると、なんとなく肉食獣に獲物として見定められたような心地がするのだ。特に彼が絵を描いているとき尚澄を観察する目には、身体を重ねたときに垣間見えた獣性のようなものを想起してしまう。少しだけ気まずく、むずがゆい感覚だった。
観察されることに居心地が悪くなると、尚澄はあえて浜島の顔をじっと見つめ返して、その心地の悪さを言外に訴えた。そうすると浜島は尚澄の視線に気がついて、ふと表情を緩める。
いつもならそのあと彼は、少し照れたように手元に視線を戻すのだが。
「……霜澤さん、訊いてもいい?」
「うん? なに?」
この日珍しく浜島は、尚澄と目を合わせたまま、ためらいがちに口を開いた。
「その、西上津にいるって友達のこと。あんたみたいな人の友達がこっちに縁があるってのがちょっと意外でさ。どういう人なのかなって、ずっと気になってたんだけど……」
歯切れの悪い質問に、尚澄は一瞬、手のひらに汗をかいたような気がした。
友達がいるというのは嘘だったが、「人に会いに来た」というのは広義では真実でもある。それが墓参りであることを隠しているだけだったからだ。
当初はあまりにも個人的で湿っぽい事情をうまく説明する自信もなく、咄嗟にその事実を伏せたのだったが、今なら「墓参り」であることくらいは告げてもいいような気がした。
「……高校時代に知り合った人でね。結婚して、まあ、奥さんの実家があるっていうんで、こっちに来たみたい」
けれど、浜島に勇斗のことを話そうとすると、妙に喉につかえるものがあって、尚澄は今までの嘘を否定しないような返答をした。「友達」が元恋人であることも、故人であることも、どうしても唇に乗せる決心がつかなかった。
「ふうん。珍しいね、旦那が奥さんの実家の方に来るって」
「そうだね……、まあ、実家はお兄さんに任せてるとか云ってたから平気なんだろうけど」
それでも少しずつ勇斗の情報を開示していくと、妙に胸苦しくなってくる。結果として、奥歯にものの挟まったようなことしか云えなくなってしまう。
口ごもりがちな尚澄の様子に気がついたのか、浜島は「あんまり訊かないほうがいい?」と、少しだけ突き放すような声で問うてきた。
「いや、別にそんなことないよ。でも……その、実のところ、引っ越す前に……、というかもうけっこう前におれ、その人と、けんか別れしちゃってて。ちょっとわだかまってるというか」
──どうしておれ、浜島さんに嘘ついてるんだろう。
嘘とは云いきれないが真実でもないようなことを口にしながら、尚澄は自分の心の動きがよく判らないでいた。
洗いざらいぶちまけてもいい、と思う気持ちはあるのに、いざ勇斗のことを口にしようとすると、どうしても言葉を濁し、都合のいいように云いかえようとしてしまう。
──誰に対して罪悪感があるのか。
妙に冷たい自分の声が聞こえた気がして、尚澄はぴくりとまぶたを震わせた。
「そっか。じゃあ、……仲直りしに来たってわけか。でもその人と会うのが怖いんだな、霜澤さん」
浜島がぽつりとした声で、独り言のようにそう呟く。
「怖い?」
「うん。うーん……」
浜島はひとしきり天井をにらんで、やがて自信なさげに言葉を吐き出した。
「経緯は判らないけど、けんか別れした人と仲直りしたいなら、どっちかが謝らなきゃいけないだろ。霜澤さんがこっちに来たってことは、たぶんあんたから謝ろうと思ってるんだよな。そうだろ? でも、謝ったところで許してくれるかどうか判らない。下手したら、こっちが許せるかどうかも判らないしな。そもそも昔の話じゃ相手はもう自分のことなんてどうでもいいと思ってるかもしれないし、自分みたいにまだ気にしてるかどうかもはっきりしない。そういうギャップとか、自分でまだ気づいてないような自分の気持ちを認識するのが、なんというか、怖い……勇気が出ない、みたいな。そういうふうじゃない?」
自信なさげに、曖昧に言葉を切ったあと、ふと唇を歪め、「なんてな。これは俺がケンカしたときによくあるやつ。ちょっと判りにくい話になっちゃってごめん」と、浜島は自嘲的に笑った。
「……いや、判るよ。おれもそうなのかも」
彼と別れたことを謝りたいと思ったことはないが、後半は尚澄の胸を少しばかり突き刺す内容だった。
浜島の留守中に眺めていた電話帳には、当然のように漆原家の電話番号も載っていた。西上津町に漆原は一件しか記載がなく、名前も一致しているくらいだから絞り込む必要もない。
だから本当はここに電話をかけ、勇斗の昔の教え子だと名乗って墓所を教えてもらうのが正しい道筋だった。
しかし、尚澄にはそれがおそろしく高いハードルのように思えた。
万里江はきっと、なにも知らずに勇斗と見合いをし、意気投合して結婚しただけだ。当然だが尚澄のことなど知る由もない。
けれど尚澄は、勇斗伝いに彼女を知っている。
たとえば、「彼女に勇斗を盗られた」「彼女のせいで別れた」というような馬鹿げた意識はまったくないし、あくまでも「昔家庭教師として教わっていた教え子」という立場で接するだけなら、きっと仮面を被っていられるとも思う。
しかしそうであっても、積極的に接したいわけでは、決してなかった。
自分と別れたあとの勇斗がどういうふうに生きていたのかを知るのが、怖かったのだ。
浜島の云う、「ギャップを認識するのが怖い」というのに近い心境だ。
勇斗が幸せな家庭を持ったと知るのも気後れするが、万が一彼が、不幸な結婚生活を送っていたとしたら。
どちらにせよ、彼女と言葉を交わし、勇斗の結婚生活が垣間見えたとき、自分がどうなってしまうのか、尚澄には皆目見当がつかなかった。
尚澄が山を下り渋っているのは、あるいはそのあたりにも理由があるのかもしれない。
浜島は尚澄の様子に思うところがあったのだろう、いつ帰るのか、という質問はアトリエでも再びうやむやになって、そのあとは、いつもどおりだった。
本当は即断してしかるべきことなのにと情けなさを覚えるが、未だ結論を出せない尚澄には本当にありがたい猶予だ。
アトリエでの時間が過ぎ去ると、夕食を済ませて風呂に入る。
今は浜島が先で尚澄があとと入浴順が決まっていた。初回こそ尚澄が一番風呂をもらっていたが、そのあとは「外で働いてくる家主の浜島が最初に風呂に入るべき」と固辞し、「客が先に入るべき」と云い張っていた浜島も、尚澄の妙な頑固さに根負けしてそうなった。
尚澄は浜島の入浴中に夕食の食器を片付け、各々入浴がすめば、あとはそれぞれ部屋へ入って眠りにつく。
浜島と別れると、いつも小さな寂しさが胸に訪れた。
農家の生活習慣か、浜島はいつも早い時間に眠りについてしまう。照明のひもを引く音が静まり返った家中に妙に大きく響くので、一階と二階で別れているのにもかかわらずそれが判るのだ。
静寂の中、寒いせいか寝つきの悪い日が多く、尚澄は心細い夜を過ごしていた。
障子や雪囲いを通してもなおぼんやりと明るい外を意識しながら、去来するさまざまな……たいていはネガティブな心情を、何度も寝返りを打って必死に散らす。
静かな夜は、勇斗との電話のことを思い出させるのだ。
別れてからずっとそうだった。
夜が深くなると、電話のベルが鳴るような気がして落ち着かない。彼とのささいな会話を思い出すことも、鳴り響く電話の前で立ち尽くしていた日々を思い出すこともあって、ここに来てからは前者が多くあった。おそらく浜島との他愛ないお喋りで、記憶が知らず掘り起こされているのだろう。
勇斗と交わした、そしてもう二度と交わされることのない、ささやかな幸せ。
そうした記憶や考え事をやりすごしているうちにうとうととしてくるが、時折どさりと屋根や樹木から雪が落ちる音、それにみしみしとかぱきぱきとかいう、鈍くて重い音が外から響いてきて、そのたびに浅い眠りが途切れる。
寝つかれない予感がした。音が妙に耳につくときは、大抵そうだからだ。
それでもしばらく布団の中でもぞもぞしていたが、案の定安らかな眠りはいくら待っても訪れそうにない。
遠い日の失われた幸福、みしりと樹木の軋む音……鈍重な音の正体が「雪折れ」という現象だと、尚澄は浜島から聞いて知った……そうしたものをやりすごすことに、尚澄は辟易していた。
仕方なく覚悟を決めて、尚澄は布団から緩慢に這い出した。足音を忍ばせて部屋を出、妙に傾斜の急な階段を這いつくばるように上がって、たどり着いたのは、浜島の部屋の前だった。
幸い襖の隙間から明かりが漏れてきている。かすかに聞こえてくる物音からも、彼が起きていることは明らかだった。
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