ゆきかかり、果ての月

芹埜鍋

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 供えた煙草が灰になる間に尚澄は女性と会話し、予想どおり、彼女が漆原万理江であると確認した。
 連れていた女児は彼女の娘、優梨だ。
 人見知りなのか照れているのか、優梨は母親の陰に隠れ、どことなく警戒するように尚澄を見上げていた。面差しは勇斗に似たところがある。
 万理江の娘ならそれは、いうまでもなく勇斗の娘でもある。
 万理江のほうからは尚澄の素性を訊ねられ、もし彼女と会話をする機会があればそうするしかないのだろうな、とあらかじめ考えていたように、「昔、家庭教師をお願いしていたんです。つまり、教え子というやつで」と、ややもってまわったような云い方で自らと勇斗の関係を説明した。
 万理江は「ああ」と合点がいったように頷いて、「そうすると、もしかしてはがきを見て来てくださったんですか」と云う。
 昔の生徒とおぼしき連絡先には何件かはがきを出したというので、尚澄は自らの名を明かした。
「霜澤さん。たしか、お母様から年賀状をいただいた……」
 万理江は霜澤家とのやりとりを覚えていたようだった。

 ほとんど灰になった煙草の殻を回収し、親子が墓参りするのを待って、万理江の誘いで近くの喫茶店に入った。
 近く、と云っても彼女の自家用車に乗って一〇分程度の距離だ。尚澄は一旦ためらったものの、「夫の思い出話を少しだけでも伺えたら嬉しい」というふうに頼まれて、断り切れなかった。
 それに、尚澄も万理江とは話してみたいと感じていた。
 勇斗に聞いていたよりずっと、彼女の雰囲気が穏やかなものだったからかも知れない。
 自らの技能を使って身を立てたい、だから結婚願望はない、と望んでいそうなキャリアウーマンのイメージと、彼女の姿が、いまいち尚澄の中では結びつかなかった。

 喫茶店は中年夫婦がふたりでやっている個人経営の店だった。
 万理江は夫婦と知り合いらしく、お茶をしている間にいつも優梨を見てもらっているという。
 言葉どおり、優梨はカウンターに用意された子ども用の椅子に座り、夫人のほうとなにやら会話しながら、彼女の与えた道具で楽しそうに絵を描き始めていた。
「初対面の人にはどうしても人見知りする子で」と万理江は目を細めて優梨を見ながら説明した。「一度慣れると愛想がいいんですけどね」
「そうなんですね」
 尚澄は相づちをうちながら、同じように優梨を眺める。
 伸ばした髪を三つ編みにしてもらい、上機嫌でオーナー夫人とお喋りしている様子は、かつて勇斗が望んだとおりの、賢くてかわいい女の子のようだ。
 少なくとも尚澄には、そう感じられた。
「夫が家庭教師をしていた頃の話は、よく聞いていたんです。でもまさかその教え子の方と直接お話ができる機会が来るとは思っていなくて。図々しくお誘いして、ごめんなさい」
 ふたりして紅茶を啜ったあと、そんなふうに万理江に切り出されて、尚澄はわずかに居心地の悪さを感じた。「教え子」であると突きつけられると同時に、隠しごとの重みがのしかかってきたような気がしたのだ。
 もうすぐ三〇になる尚澄にとって、大学受験などもう十数年も前の話だ。
 その十数年前、しかも限られた期間に勉強を教えてもらっていただけの間柄で、その墓参りにアポもなく押しかけるなど、よくよく考えれば違和感のある話ではないか。
「いえ、ぼくもお話を伺いたいと思っていたので」などとよそ行きの態度をとりながらも、尚澄はなにをどう話し、どう聞くべきなのか一考していた。
 むろん、付き合っていたなどとは口が裂けても云えない。
 だからより慎重に、話を運ばなければならなかった。
「漆原先生とは当時は親しくさせていただいて、家庭教師と云うより、その……兄だとか、歳の少し離れた友人のように付き合ってもらってたんです。ぼくが大学に入学してからもときどき一緒に遊んでもらったりしてたものですから、亡くなったと知ったときはショックで……」
 忙しい年末であるので手を煩わせないために連絡をしなかったのだ、と言い訳をしながら、尚澄は急に押しかけてきた非礼を詫びる。
「そうでしたか」と万理江は目を細め、「仲良くしていた教え子の方がいるというのも聞いてはいたんですが、なにしろ親同士の縁で結婚することになったものですから、実際出会う前のお話が伺えるのは新鮮です」と少し嬉しそうに微笑んだ。
 その笑顔を見ると、彼女もまた勇斗を愛していたのだと実感が湧いてくる。
 彼女は勇斗が亡くなってもなお、彼の妻なのだ。

 自分から別れを切り出したから、彼女を恨むようなことは今まで一度もなかった。
 けれど複雑な思いはありはする。
 自分がもし女性だったら、自分も勇斗と結婚できたのだろうか、だとか、どうしようもない仮定を置いて落ち込むことも、ないではなかった。
 けれど万理江と接してみて、尚澄は「よかった」と自然と思っていた。
 きっと勇斗が幸せな家庭を築いていたのだろうと、容易に想像することができたからだ。
「ぼくも、先生が結婚したとは母から聞いていたんですが、……その頃には就職とかで、付き合いがなくなっていたものですから。先生の奥様にお会いできて、よかったです」
 だからそんな返事をして、微笑みを投げ返すことも、自然にできた。
 あんなに怯えていた結婚生活の話も、それほど直截に訪ねたわけではないけれど、垣間見えるそれを素直に受け止めることができていた。

 しばらくはお互いにぽつぽつと思い出話を語った。
 尚澄は高校時代、彼女に振られたときに勇斗が励ましてくれたことなどを(性指向の不一致についてなどは避けながら)話して聞かせ、万理江からは特に、病気が発覚してからの勇斗の様子についてなどを聞くことができた。
 勇斗が調子を崩してから原因を突き止めるまでに時間がかかってしまって、入院後はいろいろ手を尽くしたけれど、終わりまでは結局あっという間だったそうだ。
 淡々と話してはくれたが、「年齢が若かったのがかえってあだになったんでしょうね」と呟いた万理江の目は、うっすらと涙ぐんでいた。
「……大変な思いをされたんじゃないですか」
 闘病生活は支えるほうも支えられるほうもつらく苦しいと聞くし、その結果として夫を喪った万理江が更にどんな苦労をしてきたかなど、尚澄にはおぼろげに想像することしかできない。
 けれど、自分がぼんやりとした喪失感を支えに生きている間、彼女には現実のつらさ苦しさが襲いかかっていたことは確かだ。
 自分が情けなくて苦しくて、月並みな台詞を吐くのが尚澄の精一杯だった。
 けれど、万理江は強かった。
 取り出したハンカチで目許を少し覆ったあと、「大変でした……大変ですけど、でも、優梨がいますから」と微笑んでみせることさえした。

 彼女はきちんと勇斗とお別れができたのだ。

 尚澄はそう感じて、不謹慎だが、彼女が羨ましいような気すらした。
「子どもが好きな人でしたから、闘病中で身体がつらくても娘のことはすごくかわいがってくれて。娘がなにも判らず懐くのが、かえって励みになっていい、なんて笑ってたんです。それを思い出すと、わたしも優梨をちゃんと大事に育てなきゃと思えて……」
 だから夫と娘と、家族のおかげで、なんとかやっていけてます、と結んだ万理江に、尚澄は再び、よかった、と思う。

 よかった。

 勇斗が死んでしまったことは残念だし悲しい出来事だけれど、彼は尚澄の望んだとおり、親になる喜びを得て、家庭を築く幸せも味わえたのだ。
 勇斗と万理江はこんなにも夫婦になって、彼の遺した家庭は、幸せなかたちをしたままでいられそうなのだ。
 だからよかった。
 それなら、それが一番いいに決まっている。

 ──やっぱりおれと別れたのは、勇斗さんにとって正解だったんだ。

 一方で、尚澄はそうやって自らの気持ちが沈んでしまうのを、どうしても止められなかった。
 ようやく勇斗の死を受け入れられそうだったし、それ自体は前向きに捉えることができそうだというのに、尚澄の視界は、いまだ薄暗くくすんだままだった。

 ──勇斗さんが家庭を持って、家族に看取られて、無念だろうけれど幸せな最期を迎えられたのは、よかった。よかったと思う。

 ──でも、もっと早くから家庭を持てていれば、もしかしたらこうはならなかったんじゃないのか。少なくとも彼が家族と味わえた幸せの量は、もっと増えてたんじゃないのか。

 ──勇斗さんの時間を、やっぱりおれが浪費させてたんじゃないのか……勇斗さんがおれと付き合ってたことそのものが、やっぱりそもそもの間違いだったんじゃないのか。

 自分自身に向けられるとげとげしい疑問符が、尚澄の心を、それに勇斗との、幸せだったはずの思い出を串刺しにするようだった。

 勇斗の死を受け入れようとしているだけのはずなのに、勇斗と自分の幸せだった頃の思い出までもが死んでいくような心地が、尚澄を静かに打ちひしがれさせた。

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