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新しい年を迎えてから数ヶ月が過ぎ、季節は春を通り抜けて徐々に初夏へ向かおうとしていた。
いわゆるゴールデンウィークの後半、五月の初めのその日。
尚澄の頭上に広がっていたのは、五月晴れというにふさわしい、抜けるような青空だった。
目に沁みるほど晴れた空色に、十二月の雪曇りの空を自然と重ねながら、尚澄は上津駅のホームを再び踏んでいた。十二月よりも少し多い数泊分の荷物を抱えて、天気予報の云うとおり、薄手の長袖を羽織って。
まだ午前の、それなりに早い時間だ。
前日にはターミナル駅の周辺で宿泊し、朝一の電車に揺られて尚澄は上津市に移動してきた。
観光都市ではないとはいえ連休中で人出があるのか、電車の中も上津駅周辺も、閑散としている、とは云えない程度には人影が認められた。
朝のうちのバスを捕まえて、尚澄はまず西上津町に立ち寄るつもりだった。向かう先は他でもない、勇斗の墓がある公営霊園である。
時間帯に一本しかないバスに無事乗り込むと、尚澄は手帳を開く。
ページにはこのあとの行動予定、主に目的地周辺の地図や交通機関のダイヤがおおまかにメモしてあった。こちらに来る前、いろいろと問い合わせをするなどして調べたものだ。
冬の手痛い失敗を反省していたし、繰り返したくはなかった。
乗客のまばらなバスにしばし揺られ、見覚えのある町役場前のバス停で降りると、そこからは歩いて霊園に向かう。
当時は町内を循環するバスに乗ったが、霊園の場所はもう判っているし、ここからなら歩いても向かえる距離なのも知っていた。
徒歩ではやや遠くはあるが、今の時刻なら、バスを待つのとかかる時間は大差ないはずだった。
一軒家が建ち並ぶ、あまり整理されていない住宅街をどこかのんびりした気持ちで歩けば、五月晴れの陽気もあって、少し汗ばんでくる。けれど、時折からりとした風が吹き抜けて、気持ちがいい。
そんなふうに思えるのは、以前この町に来たときよりも格段に、心情が上向いているからだろう。
やがて一軒家の列が途切れ、広々とした遊歩道を備えた公園を挟んで、霊園が見えてくる。
洋の東西を問わない形式の墓石が以前と変わらず立ち並ぶ、見知ってはいるが見慣れない墓地。
足を踏み入れると空気が清浄に感じられるのは、墓所に手向けられた花や線香の香りのせいかもしれない。
勇斗の墓は、変わらず手入れが行き届いていた。
年末も差し迫ったあの冬の日に万理江が墓参りに来ていたのは、勇斗の月命日である週末に雪の予報が出ていたからだという。
月命日に欠かさず墓参し、墓を手入れする。
万理江のそんな習慣を想像して、尚澄はその事実にすら内心で打ちひしがれたものだった。
今日は煙草の代わりにきちんと線香を買ってきていた。それを灯し、墓に供えて手を合わせる。
以前そうしたときよりも、気持ちが和らぐのを感じられた。あのとき感じた失望めいたものは、もう欠片も残っていない、と確認できる。
──勇斗さん。
なにか話しかけてみようとしたが、心の中に浮かぶ言葉はとりとめがない。
結局名前を呼びかけて、それで終わりにした。
呼びかけたままなにも云わない尚澄に、勇斗が困ったように笑う。いつかあった光景をふと思い出して、胸が少しだけ切なくなった。
勇斗の墓参りを済ませると、霊園の入り口にあった公衆電話からタクシーを一台呼んだ。
ここからの道程も調べてはあるが、あまりにも時間がかかりすぎる。帰りにはまた公共交通機関を使うつもりでいるが、行きは様子を見ながらも、少し奮発してタクシーを使おうと考えていた。
幸い空車がすぐにつかまり、ほどなくやってきたタクシーに尚澄は「竹口町のほうまで行きたいんですけど」と告げた。
竹口町というのが、小岳平やその周辺集落を包括する町だ。
小岳平の住民がよく「役場」「町役場」と云っていたのを覚えていて、調べてみたところその「町」が、竹口町のことだったわけだ。
役場のあるあたりは小岳の麓にあたり、町の中心地で、各集落へのバスもそこから出ている、と云った塩梅だった。
住宅地を抜けると、タクシーの車窓から見える景色はどんどん長閑なものになっていく。広々とした田畑が中心の平地がしばらく続き、徐々に木々に取り囲まれた坂道が増えてくる。
運転手は物静かな壮年の男で、特に話しかけてくることもない。小さな音量で流れるラジオから聞こえてくる天気予報が、今後数日の晴天を告げていた。
竹口町の役場で下ろしてもらって、そこからはまたバスを待つ。
こうした地方では自家用車を持たない人間はバスを頼るしかないはずだが、そもそも「自家用車を持たない人間」というのがほとんどいないのだろうな、と、すかすかの時刻表を見ながら尚澄は、苦笑めいた思いを抱いた。
小岳平に着いたのは、昼下がりといった頃になった。
尚澄は手帳を鞄にしまい込み、ここからは記憶を頼りに歩く。あの懐かしい、坂の上のトタン屋根の家を目指して。
遡って、墓参りを終えた日。
東京に戻るまでの間、尚澄はいろいろなことを考えた。
今までも考えてきたようなことがほとんどだったけれど、万理江と優梨との邂逅を経て、不思議なほどにものの捉え方が変わっていた。
まるで肩の荷が下りたようだった。
勇斗を喪ったことがまだ悲しい。
勇斗と別れたことも、仕方ないとずっと思っていたけれど、本心では悲しかった。
そうしたこと⋯⋯死や喪失の悲しさを、尚澄は認められるようになっていた。
そうなってみてはじめて、尚澄は自らに「悲しむ許可」を出していなかったと気がついたのだった。
別れを持ちかけたのは自分だから、別れを悲しむ資格はないと思っていた。
もう別れた男、自分とは関係のなくなってしまった男だから、その死を悲しむ道理もないと思っていたのだ。
内心ではどちらの出来事に対しても悲しさを覚えていた。叫び出したいほど、泣き喚きたいほど悲しかったのに、そんな感情を尚澄は、ずっと無視してきていた。
それを許してこなかったからこそ、別れを、死をも受け入れられずにいたのだろう。
無視されてきた感情が勇斗への未練になって、彼のかたちをした穴を塞いでしまうことを、自分に拒ませていた。
今まで自らに嵌まっていた枷を理解して、同時に彼とその家族に幸せを願われて、ようやく尚澄は、勇斗の死を本来の意味で受け入れ、消化していけるような気がしていた。
──来てよかった。
数時間前にはなんの意味も持たない行程だったと思えた墓参りが、しっかりと尚澄の中で意味のある行為になっていた。
一方で、心にどうしても引っかかることもある。
浜島だった。
東京に戻り、再就職の口を探す日々を送りながら、尚澄はいつも浜島のことを考えていた。
都会で挫折し、田舎に引っ込んで、今は穏やかに暮らしている男のこと。
彼が自分との関係を本心から望まなかったのかどうか、尚澄は無性に知りたかった。
期待していた、と云ってもいい。
一度は諦めた男なのに、という思いもなくはない。
けれど勇斗と別れたことだって、尚澄は本心では、ずっと後悔していたのだ。それが判ったから。
今は過去の決断が正しかったと、自暴自棄ではなく、正面からそう認識できていた。
自分と別れて勇斗は家族を得、その最期を寂しいものにせずに済んだ。心残りの多い人生だったかもしれないが、尚澄と付き合っていては味わうことのできない幸せを、彼に贈ることができた。
心の底からそういうふうに思うことができるようになっていたが、一方で、自分の幸せのために彼を諦めない選択肢だってあったのではないか、とも、尚澄には思えた。
そう考えられるほどになっていた。
駄目になるまで付き合ってみてもよかったかも知れないけれど、その覚悟がなくて、尚澄は勇斗との関係を、諦めたのだ。自分の幸せを追求する覚悟が、なかった。
選ばなかったほうの選択肢があとになって惜しくなることなど、生きていればいくらでもある。
勇斗とのことは、既にそういうものになっていた。
けれど、浜島は。
勇斗とのことにけじめがついて、尚澄には浜島との間にあったものを改めて見返す余裕が生まれていた。
彼との会話や彼との行為を思い返すたび、胸が切なく苦しくなった。
彼との別れ際に尚澄の中にひらめいた、「諦めたくない」という気持ちが、時間を追うごとに強くなっていた。
だったら。
浜島を諦めたくないなら、できるだけのことをしてみた方がいいのではないか。
その、できるだけのこと、がなんなのか判らないまま、早春の頃、尚澄の次の就職先が決まった。前職の同業他社だが、以前より安定感がある企業だった。
前の会社で自分の仕事を評価してくれていた上司がそこで働いていて、尚澄を引き上げてくれたのだ。
彼も尚澄同様、早期退職の募集で手を挙げて会社を辞めていたが、こちらは無目的に退職したわけではなく、転職を見据えてのことだったようだ。現在の会社に勤めることもほとんど内定に近いかたちで話が進んでいて、要項の緩い早期退職募集は渡りに船だったという。
そちらの会社で営業補助を増員しようという話になったとき、彼はいろいろと伝手をあたって尚澄を探し出し、もしまだなにも決まっていなかったらまた一緒に働いてみないか、と声をかけてくれたのだった。
業務内容も前職とほとんど同じで、代わり映えしないといえばしないが、不景気のただ中にあって素早く再就職が決まったというだけで尚澄にはありがたかった。
それに、業務内容が同じだからこそ即戦力として数えられもした。慣れた業務だから、尚澄もそれに応えられた。
生活が安定する一方で、浜島に対する想いは募る一方だった。諦めないにしても、どうすればいいのか。
仕事が決まる前はいっそのこと小岳平、とは云わないまでも、上津のあたりに引っ越してしまうことも考えてはいた。
けれどきっと浜島は、それを喜ばないような気がしていた。
田舎では個人が全体と繋がっているも同然だ。
彼は田舎暮らしのそういう部分を、とても警戒しているようだった。彼とずっと一緒にいるには小岳平はあまりにも小さく、閉鎖的なのだ。
だからといって彼に都会に出てきて欲しいとも、尚澄は思わなかった。
ひとりで暮らす分には小岳平は、浜島の性分とそれほど相性が悪いようには見えなかったからだ。
年寄りばかりと浜島はよく云っていたが、彼はあのムラに住む年寄りのことを、悪く思ってはいないようだった。
閉鎖的な環境と彼の属性は相性が悪いような気もしたが、性的指向が発覚したときに社会的立場が危うくなるのは、あのムラに限った話ではないのだし。
いろいろと考えたが、埒が明かないまま、春になった。
どちらにせよ諦めがつかないことは判っていた。
小岳平を去ってから四ヶ月ほどの間、浜島のことを考えない日はなかった。勇斗のこともいまだに思い出しはするが、それ以上に浜島の存在は、比重が大きくなっていた。
──どうせ諦められないなら、会いに行こう。
それが自然な考えであると思われるほどに。
いわゆるゴールデンウィークの後半、五月の初めのその日。
尚澄の頭上に広がっていたのは、五月晴れというにふさわしい、抜けるような青空だった。
目に沁みるほど晴れた空色に、十二月の雪曇りの空を自然と重ねながら、尚澄は上津駅のホームを再び踏んでいた。十二月よりも少し多い数泊分の荷物を抱えて、天気予報の云うとおり、薄手の長袖を羽織って。
まだ午前の、それなりに早い時間だ。
前日にはターミナル駅の周辺で宿泊し、朝一の電車に揺られて尚澄は上津市に移動してきた。
観光都市ではないとはいえ連休中で人出があるのか、電車の中も上津駅周辺も、閑散としている、とは云えない程度には人影が認められた。
朝のうちのバスを捕まえて、尚澄はまず西上津町に立ち寄るつもりだった。向かう先は他でもない、勇斗の墓がある公営霊園である。
時間帯に一本しかないバスに無事乗り込むと、尚澄は手帳を開く。
ページにはこのあとの行動予定、主に目的地周辺の地図や交通機関のダイヤがおおまかにメモしてあった。こちらに来る前、いろいろと問い合わせをするなどして調べたものだ。
冬の手痛い失敗を反省していたし、繰り返したくはなかった。
乗客のまばらなバスにしばし揺られ、見覚えのある町役場前のバス停で降りると、そこからは歩いて霊園に向かう。
当時は町内を循環するバスに乗ったが、霊園の場所はもう判っているし、ここからなら歩いても向かえる距離なのも知っていた。
徒歩ではやや遠くはあるが、今の時刻なら、バスを待つのとかかる時間は大差ないはずだった。
一軒家が建ち並ぶ、あまり整理されていない住宅街をどこかのんびりした気持ちで歩けば、五月晴れの陽気もあって、少し汗ばんでくる。けれど、時折からりとした風が吹き抜けて、気持ちがいい。
そんなふうに思えるのは、以前この町に来たときよりも格段に、心情が上向いているからだろう。
やがて一軒家の列が途切れ、広々とした遊歩道を備えた公園を挟んで、霊園が見えてくる。
洋の東西を問わない形式の墓石が以前と変わらず立ち並ぶ、見知ってはいるが見慣れない墓地。
足を踏み入れると空気が清浄に感じられるのは、墓所に手向けられた花や線香の香りのせいかもしれない。
勇斗の墓は、変わらず手入れが行き届いていた。
年末も差し迫ったあの冬の日に万理江が墓参りに来ていたのは、勇斗の月命日である週末に雪の予報が出ていたからだという。
月命日に欠かさず墓参し、墓を手入れする。
万理江のそんな習慣を想像して、尚澄はその事実にすら内心で打ちひしがれたものだった。
今日は煙草の代わりにきちんと線香を買ってきていた。それを灯し、墓に供えて手を合わせる。
以前そうしたときよりも、気持ちが和らぐのを感じられた。あのとき感じた失望めいたものは、もう欠片も残っていない、と確認できる。
──勇斗さん。
なにか話しかけてみようとしたが、心の中に浮かぶ言葉はとりとめがない。
結局名前を呼びかけて、それで終わりにした。
呼びかけたままなにも云わない尚澄に、勇斗が困ったように笑う。いつかあった光景をふと思い出して、胸が少しだけ切なくなった。
勇斗の墓参りを済ませると、霊園の入り口にあった公衆電話からタクシーを一台呼んだ。
ここからの道程も調べてはあるが、あまりにも時間がかかりすぎる。帰りにはまた公共交通機関を使うつもりでいるが、行きは様子を見ながらも、少し奮発してタクシーを使おうと考えていた。
幸い空車がすぐにつかまり、ほどなくやってきたタクシーに尚澄は「竹口町のほうまで行きたいんですけど」と告げた。
竹口町というのが、小岳平やその周辺集落を包括する町だ。
小岳平の住民がよく「役場」「町役場」と云っていたのを覚えていて、調べてみたところその「町」が、竹口町のことだったわけだ。
役場のあるあたりは小岳の麓にあたり、町の中心地で、各集落へのバスもそこから出ている、と云った塩梅だった。
住宅地を抜けると、タクシーの車窓から見える景色はどんどん長閑なものになっていく。広々とした田畑が中心の平地がしばらく続き、徐々に木々に取り囲まれた坂道が増えてくる。
運転手は物静かな壮年の男で、特に話しかけてくることもない。小さな音量で流れるラジオから聞こえてくる天気予報が、今後数日の晴天を告げていた。
竹口町の役場で下ろしてもらって、そこからはまたバスを待つ。
こうした地方では自家用車を持たない人間はバスを頼るしかないはずだが、そもそも「自家用車を持たない人間」というのがほとんどいないのだろうな、と、すかすかの時刻表を見ながら尚澄は、苦笑めいた思いを抱いた。
小岳平に着いたのは、昼下がりといった頃になった。
尚澄は手帳を鞄にしまい込み、ここからは記憶を頼りに歩く。あの懐かしい、坂の上のトタン屋根の家を目指して。
遡って、墓参りを終えた日。
東京に戻るまでの間、尚澄はいろいろなことを考えた。
今までも考えてきたようなことがほとんどだったけれど、万理江と優梨との邂逅を経て、不思議なほどにものの捉え方が変わっていた。
まるで肩の荷が下りたようだった。
勇斗を喪ったことがまだ悲しい。
勇斗と別れたことも、仕方ないとずっと思っていたけれど、本心では悲しかった。
そうしたこと⋯⋯死や喪失の悲しさを、尚澄は認められるようになっていた。
そうなってみてはじめて、尚澄は自らに「悲しむ許可」を出していなかったと気がついたのだった。
別れを持ちかけたのは自分だから、別れを悲しむ資格はないと思っていた。
もう別れた男、自分とは関係のなくなってしまった男だから、その死を悲しむ道理もないと思っていたのだ。
内心ではどちらの出来事に対しても悲しさを覚えていた。叫び出したいほど、泣き喚きたいほど悲しかったのに、そんな感情を尚澄は、ずっと無視してきていた。
それを許してこなかったからこそ、別れを、死をも受け入れられずにいたのだろう。
無視されてきた感情が勇斗への未練になって、彼のかたちをした穴を塞いでしまうことを、自分に拒ませていた。
今まで自らに嵌まっていた枷を理解して、同時に彼とその家族に幸せを願われて、ようやく尚澄は、勇斗の死を本来の意味で受け入れ、消化していけるような気がしていた。
──来てよかった。
数時間前にはなんの意味も持たない行程だったと思えた墓参りが、しっかりと尚澄の中で意味のある行為になっていた。
一方で、心にどうしても引っかかることもある。
浜島だった。
東京に戻り、再就職の口を探す日々を送りながら、尚澄はいつも浜島のことを考えていた。
都会で挫折し、田舎に引っ込んで、今は穏やかに暮らしている男のこと。
彼が自分との関係を本心から望まなかったのかどうか、尚澄は無性に知りたかった。
期待していた、と云ってもいい。
一度は諦めた男なのに、という思いもなくはない。
けれど勇斗と別れたことだって、尚澄は本心では、ずっと後悔していたのだ。それが判ったから。
今は過去の決断が正しかったと、自暴自棄ではなく、正面からそう認識できていた。
自分と別れて勇斗は家族を得、その最期を寂しいものにせずに済んだ。心残りの多い人生だったかもしれないが、尚澄と付き合っていては味わうことのできない幸せを、彼に贈ることができた。
心の底からそういうふうに思うことができるようになっていたが、一方で、自分の幸せのために彼を諦めない選択肢だってあったのではないか、とも、尚澄には思えた。
そう考えられるほどになっていた。
駄目になるまで付き合ってみてもよかったかも知れないけれど、その覚悟がなくて、尚澄は勇斗との関係を、諦めたのだ。自分の幸せを追求する覚悟が、なかった。
選ばなかったほうの選択肢があとになって惜しくなることなど、生きていればいくらでもある。
勇斗とのことは、既にそういうものになっていた。
けれど、浜島は。
勇斗とのことにけじめがついて、尚澄には浜島との間にあったものを改めて見返す余裕が生まれていた。
彼との会話や彼との行為を思い返すたび、胸が切なく苦しくなった。
彼との別れ際に尚澄の中にひらめいた、「諦めたくない」という気持ちが、時間を追うごとに強くなっていた。
だったら。
浜島を諦めたくないなら、できるだけのことをしてみた方がいいのではないか。
その、できるだけのこと、がなんなのか判らないまま、早春の頃、尚澄の次の就職先が決まった。前職の同業他社だが、以前より安定感がある企業だった。
前の会社で自分の仕事を評価してくれていた上司がそこで働いていて、尚澄を引き上げてくれたのだ。
彼も尚澄同様、早期退職の募集で手を挙げて会社を辞めていたが、こちらは無目的に退職したわけではなく、転職を見据えてのことだったようだ。現在の会社に勤めることもほとんど内定に近いかたちで話が進んでいて、要項の緩い早期退職募集は渡りに船だったという。
そちらの会社で営業補助を増員しようという話になったとき、彼はいろいろと伝手をあたって尚澄を探し出し、もしまだなにも決まっていなかったらまた一緒に働いてみないか、と声をかけてくれたのだった。
業務内容も前職とほとんど同じで、代わり映えしないといえばしないが、不景気のただ中にあって素早く再就職が決まったというだけで尚澄にはありがたかった。
それに、業務内容が同じだからこそ即戦力として数えられもした。慣れた業務だから、尚澄もそれに応えられた。
生活が安定する一方で、浜島に対する想いは募る一方だった。諦めないにしても、どうすればいいのか。
仕事が決まる前はいっそのこと小岳平、とは云わないまでも、上津のあたりに引っ越してしまうことも考えてはいた。
けれどきっと浜島は、それを喜ばないような気がしていた。
田舎では個人が全体と繋がっているも同然だ。
彼は田舎暮らしのそういう部分を、とても警戒しているようだった。彼とずっと一緒にいるには小岳平はあまりにも小さく、閉鎖的なのだ。
だからといって彼に都会に出てきて欲しいとも、尚澄は思わなかった。
ひとりで暮らす分には小岳平は、浜島の性分とそれほど相性が悪いようには見えなかったからだ。
年寄りばかりと浜島はよく云っていたが、彼はあのムラに住む年寄りのことを、悪く思ってはいないようだった。
閉鎖的な環境と彼の属性は相性が悪いような気もしたが、性的指向が発覚したときに社会的立場が危うくなるのは、あのムラに限った話ではないのだし。
いろいろと考えたが、埒が明かないまま、春になった。
どちらにせよ諦めがつかないことは判っていた。
小岳平を去ってから四ヶ月ほどの間、浜島のことを考えない日はなかった。勇斗のこともいまだに思い出しはするが、それ以上に浜島の存在は、比重が大きくなっていた。
──どうせ諦められないなら、会いに行こう。
それが自然な考えであると思われるほどに。
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