ゆきかかり、果ての月

芹埜鍋

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 地形には見覚えがあったが、晴天の小岳平の景色は、尚澄には見慣れないものだった。
 なにしろ冬とは違って色がある。
 五月晴れの青空に、周囲を取り囲む雑木林の葉は青々と茂っていた。山地を切り開いた棚田には、既に水が張られている。田植えはまだ先なのか、どの田んぼも静かに水をたたえて、風にさざ波を立てながら、空模様を反射させていた。
 浜島の絵で見た光景に近い景色が、既に広がり始めていた。
 山に近い側にある畑らしき場所で、農作業に励んでいる人間もちらほら見えた。
 いろいろな作物が育てられているようだが、どういう種類のなにを育てているのか、蔓や葉を見たところで尚澄にはさっぱり判らない。
 実をつければそれと判るのだろうか、とその農地をぼんやり眺めていると、草むしりをしていた小柄な人影がおもむろに顔を上げ、「あらぁ」と驚嘆の声を上げた。
 遠くからでもよく聞こえる声量に逆に驚いた尚澄だったが、その声にはどこか聞き覚えがある。
よく見ればその人影はもんぺ姿の女性のようだ。
 せかせかとした足取りでこちらに近づいてくるのを眺めているうち、彼女の正体に思い当たった。
 浜島の家の「お隣さん」、三好フミだった。
「また久しぶりだなや! なじょしたのぉ、こんな田舎さ。また賛んとこ?」
 訛りの強い大きな声で懐かしそうに話しかけられて、尚澄もまた懐かしく思った。
 意味が判らないほどではないが、明らかに自分とは違うイントネーションと語彙。フミ自身の穏やかそうな雰囲気もまた懐かしいものだった。
 ご無沙汰してます、と挨拶をして、尚澄は後者を肯定した。「浜島さんの家に忘れてったものがあって、取りに来るついでに様子を見に来ました」と、微妙に言葉を濁す尚澄だったが、フミはそれを聞いているのかいないのか、うんうんと頷きながら、「賛も喜ぶ」というような意味合いのことを云っている。

 フミによると、これから水田が本格的に始まる時期なのだが、毎年指導や手伝いに来ていた浜島の祖父母はじめ家族が、今年はしばらく来られないのだという。
 祖母のほうが冬場、雪に足を取られて転倒し、骨折して以来、少し調子を悪くしているらしいのだ。
「んだから、今年はまだ賛ひとりで畑だの田んぼだのやってたっけよ。霜澤さんが顔出してやったら、喜んでこき使われっかもしんねな」
 あっはっはと笑って、フミは「まずね」と畑に戻っていく。
 尚澄はその陽気さに、多少呆気にとられるような気持ちで彼女を見送り、それから再び細い道路を歩き始めた。

 ──おれが来たことも、明日には村中に広がっているのだろうか。

 そんな疑問が一瞬脳裏を掠めたが、考えても詮ないことだった。

 三好家を通り過ぎ、轍のように土の露出している坂道をいくつか上ると、懐かしい浜島の家にたどり着く。
 以前は雪囲いがされていたが、今はその古びた外観がすべて露わになっていた。
 ここまでも他の家屋で散々見てきた、斜度の大きな赤いトタン屋根も、浜島の家のものは格別に懐かしさを覚える。
 それに、二階のあの窓。
 アトリエのある部屋の窓を見上げてから、尚澄は振り返って景色を眺めた。

 二階でなくとも、浜島の家の前から見下ろす小岳平の眺めはよかった。
 家屋の前がすぐ棚田になっていて、もう既に水が引き込まれている。田植えは他の田んぼ同様まだのようだったが、苗のないぶん、凪いだ水面はやはり鏡のように青空を映し出している。
 頭上の青空と、足下から放射状に広がっていく青空の階段。

 尚澄は言葉もなくその光景を眺めていた。

 かつて浜島の絵をきれいだと思ったように、その光景そのものも美しいと感じた。
 それに、浜島がきれいだと、好きだと思ったものを同じように見られていることが、嬉しかった。
 もし彼と話して、その結果がよくないものになったとしても、この光景を見られたことには意味があって、価値がある。
 尚澄には、そう思えた。
 ゆるやかに風が吹いて、水面が波打つ。あたりの木々がさわさわとざわめいて、尚澄は我に返る。
 時計を見ると、そろそろ夕刻が近づいていた。
 車庫代わりの物置に軽トラックは停まっておらず、おそらく浜島は農作業のためにどこかに出かけているのだろうと、尚澄はあたりをつける。
 それなら日が沈む頃には帰ってくるだろう。

 試しに玄関の引き戸を引いてみると、案の定施錠されていなかった。
 田舎によくある習慣で、よほど長く家を空けるとき以外は鍵をかけないのだ。
 冬⋯⋯尚澄の滞在中、その風習に逆らって浜島が鍵をかけるのは、尚澄と寝るときくらいだった。
 次の日の早朝に開錠しながら、「こういうことするとかえって怪しいんだけど、だからってそのものズバリを見られたらと思うと、マジでぞっとしないもんね」と、本当に困ったように苦笑していた浜島の姿を思い出すことができる。

 ──もう入って待っちゃおうかな。

 いたずらめいた気持ちに駆られた。なにしろ勝手知ったる浜島の家だ。勝手に上がり込んでも彼も怒るまい……。
 そんな誘惑をなんとかはねのけて、尚澄は棚田を臨む前庭……というほど立派なものではないが、今は物干し竿の置かれている、ちょっとした砂利のスペースがある……に直に腰を下ろした。
 ジーンズの尻に尖った砂利が刺さるような感覚があったが、痛いほどでもないし、座っているうちに気にならなくなる。あまり長く待つようならいよいよ家に侵入しよう、などと考えながら、尚澄は飽きず棚田を眺めた。
 そうしてぼんやりと風や空気の味を感じていると、やがて坂の下の道路に、見慣れた軽トラックが現れる。
 まだ遠くて運転席は見えないが、何度も乗った車だから間違いない。
 その軽トラが細い坂を上って近づいてくるのを、尚澄はやや緊張して眺めていた。
 ほどなく浜島の家までたどり着いた軽トラは、車庫に入らず前庭で停まる。その運転席から転がるように出てきた男は、他ならぬ浜島だった。

「……霜澤さん?」

 浜島に呆然と声をかけられ、尚澄は立ち上がって軽く尻をはたいた。それから改めて、浜島に目をやる。
 洗いざらしの作業着姿で首にタオルを巻いた農家然とした姿だったが、まくり上げた袖から覗く腕が相変わらず逞しい印象だ。
 肌は記憶にあるより日に焼けていて、丸い目の愛嬌を妙に引き立てていた。
 その丸い目が、瞠られている。
 かつて恋い焦がれた唇も、半ば開いたままだった。
「どうして……」
 掠れた声が、自問するように疑問を投げかけてくる。
 どうして来たんだ、だろうか。
 それとも、どうして諦めなかったんだ、だろうか。
 なんにせよ、尚澄がするべき返事はひとつだった。

「あんたに会いにきたんだ。改めて、……あんたが好きだって、云おうと思って」

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