ゆきかかり、果ての月

芹埜鍋

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15-3

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「なあ、あんたおれの名前よく覚えてたね」
 まだ行為の余韻の残る中、浜島は一度寝床を離れ、水を汲んできてくれた。
 けだるい身体を起こしてそのコップを受け取り、一息に冷たい水を飲み干すと、尚澄はおもむろに浜島に語りかける。
 彼もちょうど水を飲んでいたところだった。
 丸い目が尚澄を見遣り、どういう意味合いの問いかけなのかと疑問を投げかけるように、はたはたと瞬く。
「おれ、確か最初に自己紹介したときにしか名前を云わなかったような気がするんだよな。でも浜島さん、おれの名前、呼んでくれただろ? だから、すごいなと思って」
 尚澄は彼の瞬きの意味を読み取り、言葉を補った。

 行為の最中、「尚澄」と名前を呼ばれて、尚澄は彼の唇から漏れるその響きの甘さに打ち震えると同時に、ひどく驚いたのだ。
 浜島に下の名前を教えたのは最初の自己紹介での一度きりで、そのあとはフルネームを名乗る機会はなかった。
 その後三好岩雄に紹介されたときや、三好家の夕食に招かれたときも、浜島は尚澄を「この人は霜澤さんといって……」と苗字だけで他者に紹介していたし、尚澄自身も「霜澤です」としか名乗ってこなかった。
 もう半年近く前に一度だけ名乗った名前が、彼の口から聞こえたことが、だから尚澄には意外だったのだ。

 コップの水を飲み干した浜島は、小さくため息を吐いたあと、「ああ」と合点がいったように何度か頷く。
「なかなかいい記憶力だろ? 俺、ほら、こう見えて元営業マンだからね。それも有能な。だから、人の名前を覚えるのは得意なんだ」
 浜島はそうして得意げに胸を張ったあと、「なんてね」と失笑を漏らした。
「冗談なの?」と尚澄が困惑すると、「まあ、人の名前を覚えるのは苦手じゃないけどね。ずっと覚えてたのは、あんたの名前だからだよ」と思いがけず浜島は、真摯な、かつ照れたような目で尚澄の顔をちらと見た。
「正直なところ、あんたのことはさ……最初から、いいなと思ってたんだ。その……かわいいな、って。それで自然と一発で名前も覚えられたんだろうな。さっきみたいな場面で間違った名前を呼んだら一大事だけど、まあ、ためらいなく口から出てくるくらいにはちゃんと、……ずっと、覚えてた」
 浜島は複雑な笑みを浮かべてわずかに肩をすくめ、それからはっとしたように「間違ってないよね? 名前」と念を押してくる。
 尚澄は「なにを今更」と笑って、頷く。
「でも浜島さん……、確か最初は、おれのことなんとも思ってないふうじゃなかった? そういうつもりじゃなかったって」
 最初からいいと思っていた、と云われたのが照れくさく、尚澄はふと蘇ってきた当時の記憶に話題をそらした。
「……俺そんなこと云ったっけ?」
「いつだか云ってたよ。ただのお節介のつもりで……って。めちゃくちゃ焦って」
 あれも出会ってそれほど間もない頃だった。
 まだどちらも互いの性的指向を知らなかった頃、脱衣所で。
 尚澄がそう示唆すると、浜島も思い当たったようで、「思い出した」とややばつが悪そうに口角を下げた。
「あの場面で『あんたのことかわいいと思って連れてきた』なんか、云える奴いないだろ? あのときはあんたのこと、その……知らなかったし。やっぱ引かれたら嫌だもんな。こっちから追い出しはしないけど、出てかれちゃうかも知れないし、どんな弾みで年寄りに知れ渡るか判んないしね」
 それはそうだ。今ではもう笑い話めいているが、ああした不可抗力で性的指向が不意に発覚してしまうなど、尚澄は考えるだけでもぞっとする。あのときの浜島の心境を考えると、今もってなにやら申し訳なくなるほどだ。
「俺は割と正直なほうだと思うけど、まあ、生きてりゃ嘘のひとつやふたつはつくよ。そういうもんだろ。誰だって。俺も、あんたも」
 そうだね、と尚澄は浜島の言葉に同意した。
 そもそも彼を責めるつもりは毛頭ないし、その資格もないと尚澄は思っていた。
 自らも彼にずっと、勇斗のことを偽っていたのだ。

 それに今も、まだ浜島には伏せている気持ちが、ひとつ残っていた。

 罪悪感がわずかにひらめく。
 尚澄はしばし逡巡する。伏せた気持ちをすべて明かしてしまうのは果たしていいことなのか、判らない。本当は黙っているほうがいいのかもしれないし、黙っておく優しさ、というものも、この世には存在する。
 けれど、素直でいようと決めた心に従って、尚澄は唇を噛んで逡巡を断ち切り、言葉を発した。
「……浜島さん。その……、」
 呼びかけると浜島は、うん、と居住まいを正した。
 尚澄がなにか大事なことを云おうとしていると察したようだった。
 それぐらい自分の声が緊張していると判って、尚澄はわずかに情けない気持ちになる。
「もっと早く云っておくべきだったかも知れないし、もしかして、云わなくていいことかも知れないんだけど」
 話してしまうのは甘えで、黙っているのは不誠実。そんな格言めいた文言が、尚澄の脳裏をふとよぎる。
「おれ、……まだ、勇斗さんのこと、思い出すことがあるんだ。浜島さんのことは本当に好きだけど、あの人のことも、やっぱりすぐには忘れられなくて」
 言葉の途中、どうしても浜島の顔を見ていられなくなって、尚澄はうつむく。
 こんな話をしても、どちらにとっても得はないのに。自分はなにを口にしているのか、と自己嫌悪が遅まきに浮かんできてしまう。
 だが、こんなところで言葉を止められない。
「おれ、……思い出さないようにする。いや、というかもちろん、忘れるようにするよ。でも、もしかしたらしばらくは、思い出しちゃうかも知れない。比べるようなことは絶対しないけど、でも、やっぱり、どうしても忘れられないようなこともあって……、それを、もしできれば、許して欲しいんだ……」

 勇斗との六年間は、終わりこそつらかったけれど、幸せなことのほうが多かった。
 別れたとき、それに彼の死を知って以降はずっと、尚澄は彼を喪ってしまったという欠落感ばかりを抱いていた。
 けれど浜島と出会ってからというもの、幸せだったときの記憶がふと蘇ることが増えたのだ。
 だからこそ、浜島を勇斗の代わりとして見ているのかと、自らを疑いもしたのだが。
 まだ勇斗と付き合う前、尚澄の部屋で勉強を教わっていた頃に彼が見せてくれた笑顔。告白して受け入れられたとき、遅れてやってきた爆発的な喜び。毎日の電話を切るとき、彼が別れの挨拶にほとんど必ず付け加えてくれていた「愛してるよ」という言葉。たまの逢瀬ではしゃいで、狭いバスタブに二人で身を沈めたこと。肌を重ねた翌日、先に目覚めて眺めた穏やかな寝顔。「ナオ」と呼びかけてくる愛おしげな声。
 喪失感を手放したあとにも、そうした勇斗との幸せな思い出が残っていて、時折尚澄はそうしたものを、無意識のうちに記憶の引き出しから取り出してしまっていた。

 別れた……死んだ元恋人をそうして想っていることなど、やっとの思いで結ばれた浜島に話すような内容ではないかも知れない。
 けれど浜島には伝えておきたかった。
 かつて勇斗が隠しごとを嫌い、相手に誠実であろうとするために自らについて開示してきた気持ちが、尚澄にも判るような気がした。

「許すもなにも……」
 しばし沈黙したあと、「思い出しちゃうのはあんたの心の中のことだから、俺には決定権はないよ」と浜島は困ったように笑った。
 思いがけず凪いだ声だった。
「無理に忘れようとしなくていいよ。霜澤さんにとってその人とのことは、大事な思い出なんだろ。そりゃああんたにそんなに大事な人がいるってのはちょっと妬けるよ。比べられたらたまったもんじゃないしね。でも、前も云ったような気がするけど、俺はあんたたちみたいな、死んでもなくならない、みたいな関係がすごく……きれいだと思うからさ。そんなきれいなものを、無理に手放そうとしなくていいんじゃないかな」
 浜島は一旦言葉を切ると、うつむいたまま困惑する尚澄の頬に手を伸ばす。壊れ物にでも触れるような優しさがその指先から滲み出ていて、尚澄の胸が締めつけられる。
 顔を上げれば、意外なほど穏やかに微笑んだ浜島と目が合う。
「それに、今のあんたがこうなのは、その彼のおかげでもあるから。きっと、あんたが俺みたいなのを好きになってくれたのも、その人の影響があると思うからさ……、だからね、いいんだよ、霜澤さん。彼のことは彼のことで、ずっと好きでいたっていい。それとは別に、俺のことも……、その、だ、大事に思ってくれてたらさ、嬉しいけど」
 一瞬照れたように口ごもり、それから浜島は照れ隠しなのか、気の抜けた声で「へへ」と笑った。
「……ごめん、ちょっとかっこつけすぎちゃって、耐えられなくなっちゃった。でも今のはだいたい本音だよ。嘘じゃない。……それと、俺はその彼以上にあんたを大事にする自信があるからさ。だから、霜澤さんは彼のこと無理に忘れなくていいし、……自然に思い出すことが少なくなったら、それはそれでいい。そういうことで、どう?」
 口調はおどけていたが、その内容は真摯なものだった。
 尚澄は自らの涙腺が緩むのを感じて、唇を噛んでこみ上げてくるものをこらえる。熱い塊のような感情をやりすごしたあと、まだわずかに震える喉で、彼は小さく呟いた。
「ありがと……浜島さん」
「……賛、って呼んでよ」
 お礼の返答としては場違いな言葉が飛んできて、尚澄は思わず目を瞠る。こみ上げてきた涙が、それで引っ込んだ。
 浜島はさっきまでと同じおどけた調子で、しかしどこか切実な雰囲気を漂わせて、尚澄の頬を撫でる。
「……妬けるって云っただろ? 考えてみたら、あんたって元彼さんのことは名前で呼んでるだろ。俺は、その……今の彼氏、になる、はずなのにさ、ずっと苗字じゃない? さっきは名前呼んでくれたけど、もう元に戻ってるし。だからさ、⋯⋯ねえ、名前、呼んでみて」
 そう云われれば確かにそうだ。

 行為の最中は呼んでみたいと思って呼んだ名前だった。
 しっくりも来ていたのだけれど、我に返るとなんだか照れくさくて、自然と「浜島さん」と呼んでいた。
 そもそも歳もほとんど一緒で敬語も使わず会話しているのに、お互いに苗字にさん付けというのも違和感がある。
 距離を保つために役立っていた側面はある。
 お互い無意識のうちに、深入りしすぎないようにそうしていたのかも知れない。
 でももう、そんな必要もないはずなのだ。
「……た、賛……」
「うん。……嬉しい。大事にされてる感じがする」
 名前を呼ぶだけで? と尚澄はおかしくなって、無意識のうちに感じていた緊張がほどけていく。
「俺も、尚澄……って、呼んでいい?」
 反面、浜島はわずかに緊張した面持ちでそう提案してきた。
 提案の中で名前を音にされるだけで、尚澄の胸はささやかに高鳴る。
 たしかに名前を呼ばれることは嬉しいのだと、直前のおかしみを尚澄は心の中で取り消しながら、頷いた。
 口に馴染ませるように浜島は「尚澄」と一度呟いた。彼の目がまっすぐ尚澄を射貫く。
「尚澄、好きだ」
 ふたりの顔がどちらからともなく近づいて、唇が触れる。
 上唇を啄み、下唇を食む間に熱い吐息が交わり、浜島の手が再び欲を宿して尚澄の腰を抱き寄せた。
 尚澄は引き寄せられるまま浜島に身を寄せ、その背中に腕を回し、息苦しいほどキスをする。
 舌が絡んで粘膜が溶け合うと、すっかり汗の引いていた互いの肌に、熾火のような熱がくすぶった。
 キスの合間に尚澄は、「好きだよ賛、おれあんたのこと、大事にするから」と囁き、浜島はそれに「俺も」と短く答えて、こらえきれなくなったように、尚澄の身体を強く搔き抱いた。

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