ゆきかかり、果ての月

芹埜鍋

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 夕刻。浜島のアトリエで、尚澄は完成した自らの肖像画を眺めていた。

 想いをぶつけて受け入れられた日から、二日ほど経っていた。ゴールデンウィークも終わりが近づいていて、尚澄はそろそろ帰り支度を始めなくてはならなかった。

 田植えはまだできないからそこまで忙しくない、と浜島は云っていたが、畑仕事や水量の調整など、やらなくてはならない作業は冬場の比ではない。
 精根尽き果てるほど愛された翌日はさすがに使い物にならなかったが、尚澄も畑の草取りやなんかの、素人でもできる簡単な作業を手伝うようにした。
 冬の雪かき同様、戦力になれているとは感じられなかったが、人手があること、それに他でもない尚澄が作業を手伝ってくれる、ということに、浜島はいたく喜んでくれた。

 あとは変わらず家事に追われていた。
 農家というのは人付き合いの集まりなどもあるかと思っていたが、今はそうしたものが発生する段階ではないらしくて、食事だの酒だのに目配りをする必要はなかったのは尚澄には幸いだった。
 一方で洗濯物の量は冬とは段違いで、それはそれで、多少役立てている実感があった。
 そうした手伝いをこなす中で時間に隙間ができると、尚澄はアトリエに入り込んで休憩していた。
 そうして、肖像画のみならず、冬には見ることの叶わなかった浜島のさまざまな絵を引っ張り出して楽しんでいた。
 やはり人物画はなかったが、大きな油彩から小さなスケッチまで、見るべきものはたくさんあった。
 けれどやはり尚澄は、肖像画を眺めることが多かった。
 その絵を、気に入っていた。

 完成したそれは、実物の尚澄よりも二、三割増しの美男子のように見える。
 顔かたちは疑いようもなく己のものなのだが、髪の柔らかな質感や目許の濃やかな陰影、光がこぼれるように笑う表情がそう感じさせているのだろう。
 そうしたある種のフィクションの部分がとりもなおさず浜島のまなざしによるものなのだと思うと、尚澄は彼の愛情を感じることができた。

 ──自分の顔を見てニヤついてるってのはあんまりいいことじゃないんだけど。

 そんな自嘲めいた言い訳を心の中に思い浮かべながら、尚澄はつい緩んでしまう口許をどうすることもできずにいた。
「霜澤さん、また自分の顔見てニヤついてる」
 と、心中の自嘲とほとんど同じ言葉が、アトリエの入り口からかけられる。
 振り返ると浜島が立っていた。今日の農作業が終わったのだろう、汚れた作業着こそ着替えていたが、身体からはかすかに土のような匂いがする。
 彼の表情も嬉しげに緩んでいるのを見て、「あんたもにやけてるよ」と尚澄は云い返した。

 結局、名前で呼び合うことは定着していなかった。
 お互いに照れくさくて時間がかかるのも理由のひとつだが、どちらかといえば、周囲の目を気にしてのことだ。
 今まで苗字で呼び合っていたいい大人が、急に名前で呼び合いはじめるのは、違和感がある……と、思われるかも知れないから。
 現実的な問題は、まだ厳然として存在しているのだ。

「いや、モデルにそんなに気に入ってもらえたらそりゃあにやけもするよ。もともと誰にも見せないつもりだったけど、描いた甲斐があった」
 浜島は絵に近づき、画板をぽんぽんと軽く叩く。
 そんな浜島を愛おしげな目で眺め、尚澄はそれから再び絵に視線を移した。
「これ、おれの顔って気がしなくてさ」
 尚澄は感想を語ろうとそう口を開いたが、「似てないってこと?」と、冒頭から浜島に遮られてしまう。
 確かにそういうふうにとれる出だしだったか、と尚澄は反省しながら首を傾げた。
 似ていない、といえば似ていないのか。顔かたちは自分なのに。
「う~ん、似てないっていうか……。おれより二枚目だよ、この絵は。でも、そうじゃなくて……」
 制作途中の段階で、既にこの絵は尚澄本人よりも美化されたものだったな、とふと思い出す。
 あのときからもう浜島は、この完成図を思い描いていたのだろうか。尚澄を笑わせながら撮った写真。笑った顔がかわいいと褒めてくれた言葉……。
「なんていうか、あんたがおれのこと想って描いてくれたんだなって思えて、これを見てると嬉しいんだ」
 気持ちが文章としてうまくまとまらず、尚澄は結局そんなあやふやな言葉を浜島に告げた。
 浜島はきょとんとした顔をして考え込み、「……その」とためらったあと、
「つまり、愛の証明みたいな……ってこと?」
 と、妙に芝居じみたことを云う。
 そのなんだか大げさなものいいに、尚澄はつい笑い声を立てた。
「ふふ……そうだね。愛の、証明」
 その言葉が自然に出てきたと云うことは、彼は内心ではこの絵をそうしたものだと感じているのだろうか。

 愛の証明。

 心の中で呟いてみれば、しっくりくるようにも思われる。
 この絵を描いている間、浜島は尚澄の写真を眺め、尚澄の笑顔を思い浮かべていてくれたに違いないのだ。
 それなら確かに、愛の証明……彼が、尚澄のことを想ってくれている証明なのかも知れない。

 ふふ、となおも含み笑いを漏らす尚澄に、浜島は芝居がかった怪訝な視線を向ける。これも彼の照れ隠しの一種だろう。
 それから、えへん、と大げさに咳払いをすると、
「証明と云えばよ。あんたに証明しなきゃならないことがもうひとつあったんだ」
 と、不意に話題を変えた。
「なに?」
 尚澄の疑問には答えず、浜島はおもむろに棚をごそごそやりだす。
 あのあたりには、未整理の写真がたくさんあったはずだ。尚澄も絵を見るためにあちこちをあさったから判る。
 その過程で、前とはものの配置が変わっていることにも気がついていた。
 謎の給与明細が詰め込まれた紙袋はなくなっていたし、ごちゃついていたアルバム類も増減しているような気がしていた。
「俺が繊細な美少年だったって話」
 棚を探りながらの浜島の言葉に、尚澄は思わず失笑する。
「ほら、信じてないだろ。めちゃくちゃ笑ってる」と浜島は鬼の首でも取ったかのような勢いで尚澄を糾弾する。
 その糾弾の様もおかしく、尚澄は笑い声まで立ててしまって、言葉がなにも出てこない。
 そういえば、そんなことを云っていたときもあったなと懐かしく思う気持ちが、遠くにはあるのだが。確かにそのとき尚澄は、彼の言葉を嘘だと瞬時に判断したように思う。
「どうせそうなると思ったけど、今日は証拠があるんだからな」
 そう時間もかからず、浜島は予想どおり小さなアルバムをひとつ抱えて振り向く。
 ほら、と勝ち誇ったように差し出されたページには、古ぼけた写真が貼られていた。

 この家の前で撮られた写真のようだった。
 季節は夏に近いのか、青々とした稲穂の立ち並ぶ棚田を背景にして、まだ幼さの残る少年がはにかんでカメラを見ている。
 中学生くらいだろうか。細面だが頬の線が柔らかで、少し上を向いた鼻がかわいらしく、薄い唇に乗ったかすかな笑みは、彼のナイーブさを表しているようだった。
 丸くて大きな目は、まさしく美少年といった印象だ。
 丸くて大きな目。
 浜島のものと、同じ。
 確かにその美少年は、今とはまったく違った印象ながら、浜島のおもかげがあった。

「これ……ほんとに浜島さん?」
 呆気にとられて問うた尚澄に、「ふふ……、そうだよ、これ俺」と浜島は笑いをこらえきれないようだった。尚澄の反応がおかしいのだろう。
「……嘘みたいにかわいいな。全然信じてなかった。あんたほんとに美少年だったんだ」
 尚澄はそう云いながら少年の写真と目の前の浜島を何度も見比べる。
 骨格がずいぶんたくましくなってはいるが、やはり端々に面影があった。
 そもそも浜島の顔立ちは決して悪くない。ただ彼の饒舌さひょうきんさが、面差しの印象をゆがめてしまうのだろう。
 いわゆる、黙っていればいい男、というタイプなのだ。
 その過去が美少年であったとしても、実のところなんら違和感はないはずだ。
「実はそんなに自覚はないんだけどね。でも、これに限らず昔の写真を人に見せると美少年って褒めてくれるもんだから、無駄に自信がついちゃって。持ち芸みたいなもんだよ」
 浜島は急にそんな謙遜めいた言い訳を口にした。あまりにも自分を褒めすぎて恥ずかしくなってきたらしい。
 いや、ほんとに美少年だよ、と尚澄がためつすがめつ見比べていると、「そんだけ褒められると照れるし、我がことながら惜しくなるな。普通に育ったつもりだったんだけど、なんで俺、こんなふうになっちゃったんだろうね」と、浜島。
 その言葉に滲むわずかな卑屈さに尚澄はようやく写真から目を上げる。
 浜島の表情は今までと変わらず照れくさそうで、それがはにかんだ少年時代と同じ印象を持っていることに、尚澄はなんだか嬉しくなる。

 連続性があるのだ。その連続性が、浜島の人生であり、今の彼を作っているのだ。そんな当たり前のことが、嬉しい。

「まあ、今のあんたのほうが、かっこいいけどね」
「……え」
 小さな呟きに、浜島は目を丸くして尚澄の表情を伺う。
 視線が絡むと、感想を素直に云いすぎてしまったような気がして少し照れくさい。いつもの浜島の照れ隠しに倣って、尚澄は微笑んでみる。
「昔の美少年もいいけどね。おれはそれもひっくるめて、今の賛が好きだ」
 浜島はどこかぼんやりした声で「尚澄」と、ほとんど反射のように呟いて、それからぽっと頬を赤らめた。
 あまりに顕著な反応に、尚澄まで恥ずかしくなる。
「……ありがと……。俺も、全部ひっくるめて尚澄のこと、好きだよ」
 いつもの様子とは異なる、口の中でもごもごと転がる告白に、尚澄はおかしみを感じつつも、自らの耳が熱くなるのを感じた。
 いい歳をして、お互いに呼び慣れない名前に照れて、ひどく滑稽だと思う。
 けれどそうした物慣れない、浮ついた気持ちが、どうしても幸せだった。

 この幸せを、手放したくなかった。

「やっぱりあんたと一緒にいたいな。帰らないといけないの、寂しいよ」
 尚澄がそんな気持ちを率直に浜島に伝えると、彼も素直に頷く。
「……そうだよな。俺も、一緒にいたいよ。……なあ、帰ったら電話してよ。それで、ちゃんと話そう。あんたが云ってくれたみたいに、一緒に考えよう、ちゃんと」
 尚澄が田舎に入ることを浜島は望んでいないようだし、といって尚澄には浜島に田舎を捨てさせるつもりもない。
 今のところ落としどころのない問題が、ふたりの間には、ある。
 けれどちゃんと話をして、ふたりで考えれば、落としどころが見つかるかも知れない。
 あるいは、まったく新しい道を見つけられるかも知れない。
「うん。電話する……、あんたも、時間空けといてよ」
 電話。
 過去に勇斗と声を聞くばかりの電話をしていた頃のことを思い出す。
 あのときはこんなふうに、未来に目を向けてはいなかったな、と、ふと尚澄は思った。
 声を聞くため、毎日のささやかな共有のため、現状維持のための電話だった。未来に目を向けるまでもなく、勇斗との日々は安定していた。

 浜島とする通話は、会話は、きっとそうではないのだ。
 彼とふたりで、あの勇斗との日々のような安定を追いかけていくための話し合いだ。まだ雲をも掴むような話でしかないものを、なんとかかたちにするための。
 けれど、ほかでもないふたりの未来を考えられるのだと思えば、尚澄の心には灯りが点るようだった。
 最終的にはあの頃のような、ほんのささやかな幸せをつかみ取るためのものなのかもしれないが、それでも。
 なるようにしかならないかも知れないが、やりようもあるかも知れない。
 ふたりの関係はまだ雪景色のように漠然としていたし、いつ雪解けを迎えられるのかも判らなかった。

 雪が溶けてどんな景色が見えるのか、茫洋としていたが、今の尚澄にはそれが、希望のように思えた。

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