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四章 日差し差し込む廊下でのこと
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もう何度目だろうか。というか、いつまで続ける気だ?
理樹は、沙羅のもう何度目かも分からない『ぎゅっとします!』作戦が失敗に終わったのを見届けて、そう思った。
自販機で紙パックのジュースを買って戻ろうとしていたところ、どこから見ていたのか、後ろから彼女が飛びかかって来たのだ。しかも、どうも考えなしにやったらしい、ということも見て取れた。
というのも、沙羅は飛びかかってようやく、自分が腕の中にアンケート用紙の束を抱えていると思い出したようだ。「ああああ忘れてたッ」と急ブレーキをかけたと思ったら、つまづきかけてそれを廊下にぶちまけたのである。
アンケート用紙の最後の一枚が、滑るように廊下に落ちたところで、理樹は目の前の惨状を改めて目に留めて頭が痛くなってきた。
そばを通り過ぎて行く生徒たちはチラチラと目を向けるだけで、足を止める気配はない。あの運動場の一件以来、『二人の邪魔はしない』という暗黙のルールが出来たらしく、それもまた全然嬉しくない気遣いである。
こちらは前世でも、荒々しい連中とやり合い続けていた経験もある。よほどの不覚か、気を抜いていない限りは後ろを取られない自信もあったので、彼女には早々に奇襲は無理だと理解してもらいたいものだ。
仕方なしにしゃがんで、散乱したアンケート用紙を集めるのを手伝ってやると、沙羅が不甲斐ないとばかりに「うぅ、すみません」と言った。
「クラスのアンケート用紙、先生から頼まれていのを、うっかり忘れていました……」
「普通は中々忘れないと思うがな」
手に持った重みさえ思考から吹き飛ぶというのも、ある種の才能ではないだろうか。やろうと思っても絶対に真似出来ん芸当だと考えながら、理樹は廊下を歩く生徒が踏まないよう避けていくアンケート用紙を拾い上げた。
そもそも、同時に複数のことを考えて器用に出来るような女じゃない。
誰がその話を信じて、話したこともない彼女を『悪役令嬢』などと呼んだのか。
ふと、拾い上げる物がなくなってしまったことに気付いて、理樹は手を止めた。もうアンケート用紙は全て集め終わってしまっていた。
しゃがんでいることで同じ目線の高さになっている、向かい側にいる沙羅を見た。廊下の窓から差し込む光で、柔らかで癖のない長い髪が澄んだブラウンを浮かび上がらせ、その大きな瞳には自分の仏頂面が映っていた。
沈黙を不思議そうに聞いていた彼女が、じっと見られていることに対して少し恥じらうように、腕の中のプリントの束へ視線を逃がして、それをきゅっと抱き締めた。
「手伝ってもらって、ありがとうございます」
そう言ってはにかむ顔は、視線が少し泳いでいて、折角の機会なのだからと次の言葉を探そうとしている様子であるとも見て取れた。また何かしら、突拍子もない要求でもしてこようとでもいうのだろうか。
思い返せば、前世の彼女も唐突に「お花を見に行きたいです」と言うこともあった。夕暮れがくるまでの時間があまり残されていないタイミングだった時は、彼女は歩くのが遅かったから、帰りが暗くなっても面倒だと思って抱き上げて移動したら「優しい」と言われた。
優しくはない。これはただの俺の都合だろうと思った。時間の効率を考えて、腕の中に抱えて移動したまでだ。何も、優しいことではない。
与えられるものは全てあげていた。
初めは婚約者となるために。次は婚約者として義務的に。そして、夫として形上。けれどそれは、しばらくもしないうちに、すぐ――
高校生となった初日に、明るい沙羅の笑顔を目に留めて、生まれ変わったこの世界では家族に愛されて育っているのだと分かった。生まれ変わって幸いだったとすれば、今の彼女が、家庭や友に恵まれた幸福な少女であると知れたことだろう。
理樹は再会した際に感じたことを思い返しながら、ただ、なんとなく、少し乱れた沙羅の髪へと手を伸ばした。
すると、彼女が頬を少し染めて、緊張した様子で小さく目を見開いた。それを見てすぐ、理樹は途中でピタリと手を止めた。
沙羅はこちらをじっと見つめたまま、大きく息を吸った。そのふっくらとした小さな唇が微かに開かれて、熱を帯びた緊張した吐息がこぼれ落ちる。
別に緊張するほどのことでもないだろう。
理樹はそう伝えるように、目から少し力を抜いてこう口にした。
「髪、少し乱れてるぞ」
だから問題なければ俺のほうでぱっと整えるが、とそう提案してみてら、なぜか彼女の顔がみるみるうちに耳まで赤く染まった。
思わず彼女の名前を呼び掛けて、理樹は口を閉じた。再会した時から、それは口にしないと決めていたか。相手の女性に、余計な期待心を抱かせてしまうだろう。
「…………あの、九条君。ごめんなさい……その……恥ずかしい、です」
沙羅が視線をそらし、か細い声でそう言ったと思ったら、そのまま勢いよく立ち上がった。
理樹がびっくりして「どうした」と尋ねる声を遮るように、彼女は「これにて失礼しますッ」と早口で告げて、こちらも見ずに逃げ出して行ってしまった。
廊下に居合わせた生徒たちが、走っていく沙羅を見送った。理樹は小さくなっていく後ろ姿を、呆気に取られた顔で見つめていた。
「…………なんだ、あれ」
思わず口の中で呟いたら、どうしてか、すぐそばで立ち止まっていた一人の男子生徒が、チラリとこちらを見てきた。お前、本当に理由が分からないとかいうわけじゃないよな?と、その表情は語っている。
分かるわけがないだろう。俺が何をしたって言うんだ?
理樹は顔を顰め、膝に手をあてて「というか、恥ずかしいってなんだ」と独り言を口にしながら立ち上がった。散々好きだどうだのアタックし続けているというのに、こちらがちょっと手を伸ばすくらいであんなに赤面するとは思わなかった。
先程の彼女の様子を再び思い返したところで、理樹はとうとう堪えきれなくなって「ああ、クソ」と思わず顔を押さえた。
なぜならあの赤面した顔は、新婚だった頃に特によく見ていたものだったからだ。当時のことが鮮明に蘇って、こっちまで少し恥ずかしさを覚えた。
「…………ったく、初めてキスをした時とかと同レベルの過剰反応をするなよ」
そのほとんど吐息交じりの呟きは、理樹の口の中に消えていった。
理樹は、沙羅のもう何度目かも分からない『ぎゅっとします!』作戦が失敗に終わったのを見届けて、そう思った。
自販機で紙パックのジュースを買って戻ろうとしていたところ、どこから見ていたのか、後ろから彼女が飛びかかって来たのだ。しかも、どうも考えなしにやったらしい、ということも見て取れた。
というのも、沙羅は飛びかかってようやく、自分が腕の中にアンケート用紙の束を抱えていると思い出したようだ。「ああああ忘れてたッ」と急ブレーキをかけたと思ったら、つまづきかけてそれを廊下にぶちまけたのである。
アンケート用紙の最後の一枚が、滑るように廊下に落ちたところで、理樹は目の前の惨状を改めて目に留めて頭が痛くなってきた。
そばを通り過ぎて行く生徒たちはチラチラと目を向けるだけで、足を止める気配はない。あの運動場の一件以来、『二人の邪魔はしない』という暗黙のルールが出来たらしく、それもまた全然嬉しくない気遣いである。
こちらは前世でも、荒々しい連中とやり合い続けていた経験もある。よほどの不覚か、気を抜いていない限りは後ろを取られない自信もあったので、彼女には早々に奇襲は無理だと理解してもらいたいものだ。
仕方なしにしゃがんで、散乱したアンケート用紙を集めるのを手伝ってやると、沙羅が不甲斐ないとばかりに「うぅ、すみません」と言った。
「クラスのアンケート用紙、先生から頼まれていのを、うっかり忘れていました……」
「普通は中々忘れないと思うがな」
手に持った重みさえ思考から吹き飛ぶというのも、ある種の才能ではないだろうか。やろうと思っても絶対に真似出来ん芸当だと考えながら、理樹は廊下を歩く生徒が踏まないよう避けていくアンケート用紙を拾い上げた。
そもそも、同時に複数のことを考えて器用に出来るような女じゃない。
誰がその話を信じて、話したこともない彼女を『悪役令嬢』などと呼んだのか。
ふと、拾い上げる物がなくなってしまったことに気付いて、理樹は手を止めた。もうアンケート用紙は全て集め終わってしまっていた。
しゃがんでいることで同じ目線の高さになっている、向かい側にいる沙羅を見た。廊下の窓から差し込む光で、柔らかで癖のない長い髪が澄んだブラウンを浮かび上がらせ、その大きな瞳には自分の仏頂面が映っていた。
沈黙を不思議そうに聞いていた彼女が、じっと見られていることに対して少し恥じらうように、腕の中のプリントの束へ視線を逃がして、それをきゅっと抱き締めた。
「手伝ってもらって、ありがとうございます」
そう言ってはにかむ顔は、視線が少し泳いでいて、折角の機会なのだからと次の言葉を探そうとしている様子であるとも見て取れた。また何かしら、突拍子もない要求でもしてこようとでもいうのだろうか。
思い返せば、前世の彼女も唐突に「お花を見に行きたいです」と言うこともあった。夕暮れがくるまでの時間があまり残されていないタイミングだった時は、彼女は歩くのが遅かったから、帰りが暗くなっても面倒だと思って抱き上げて移動したら「優しい」と言われた。
優しくはない。これはただの俺の都合だろうと思った。時間の効率を考えて、腕の中に抱えて移動したまでだ。何も、優しいことではない。
与えられるものは全てあげていた。
初めは婚約者となるために。次は婚約者として義務的に。そして、夫として形上。けれどそれは、しばらくもしないうちに、すぐ――
高校生となった初日に、明るい沙羅の笑顔を目に留めて、生まれ変わったこの世界では家族に愛されて育っているのだと分かった。生まれ変わって幸いだったとすれば、今の彼女が、家庭や友に恵まれた幸福な少女であると知れたことだろう。
理樹は再会した際に感じたことを思い返しながら、ただ、なんとなく、少し乱れた沙羅の髪へと手を伸ばした。
すると、彼女が頬を少し染めて、緊張した様子で小さく目を見開いた。それを見てすぐ、理樹は途中でピタリと手を止めた。
沙羅はこちらをじっと見つめたまま、大きく息を吸った。そのふっくらとした小さな唇が微かに開かれて、熱を帯びた緊張した吐息がこぼれ落ちる。
別に緊張するほどのことでもないだろう。
理樹はそう伝えるように、目から少し力を抜いてこう口にした。
「髪、少し乱れてるぞ」
だから問題なければ俺のほうでぱっと整えるが、とそう提案してみてら、なぜか彼女の顔がみるみるうちに耳まで赤く染まった。
思わず彼女の名前を呼び掛けて、理樹は口を閉じた。再会した時から、それは口にしないと決めていたか。相手の女性に、余計な期待心を抱かせてしまうだろう。
「…………あの、九条君。ごめんなさい……その……恥ずかしい、です」
沙羅が視線をそらし、か細い声でそう言ったと思ったら、そのまま勢いよく立ち上がった。
理樹がびっくりして「どうした」と尋ねる声を遮るように、彼女は「これにて失礼しますッ」と早口で告げて、こちらも見ずに逃げ出して行ってしまった。
廊下に居合わせた生徒たちが、走っていく沙羅を見送った。理樹は小さくなっていく後ろ姿を、呆気に取られた顔で見つめていた。
「…………なんだ、あれ」
思わず口の中で呟いたら、どうしてか、すぐそばで立ち止まっていた一人の男子生徒が、チラリとこちらを見てきた。お前、本当に理由が分からないとかいうわけじゃないよな?と、その表情は語っている。
分かるわけがないだろう。俺が何をしたって言うんだ?
理樹は顔を顰め、膝に手をあてて「というか、恥ずかしいってなんだ」と独り言を口にしながら立ち上がった。散々好きだどうだのアタックし続けているというのに、こちらがちょっと手を伸ばすくらいであんなに赤面するとは思わなかった。
先程の彼女の様子を再び思い返したところで、理樹はとうとう堪えきれなくなって「ああ、クソ」と思わず顔を押さえた。
なぜならあの赤面した顔は、新婚だった頃に特によく見ていたものだったからだ。当時のことが鮮明に蘇って、こっちまで少し恥ずかしさを覚えた。
「…………ったく、初めてキスをした時とかと同レベルの過剰反応をするなよ」
そのほとんど吐息交じりの呟きは、理樹の口の中に消えていった。
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