19 / 159
5章 第三のセキュリティー・エリア(2)
しおりを挟む
近くを通っていた兎の着グルミが、男の子に風船を渡して気をそらせ始めた。アイスクリーム屋の店主が、あっという間に新しいアイスをのせて母親に渡してやる。男の子はアイスクリームが元に戻った事を喜び、彼らは一同に笑顔を浮かべた。男の子も涙を拭って、優しい店主に「ありがとう」と微笑みかけた。
途端に、エルがこの世界に抱いた現実感は薄らいでしまった。
エルは、まるで子共が思い描いたような幸せな世界に息苦しさを感じた。こんな事が現実に溢れている訳がないのに、この世界ではそれこそが正しく、正常とばかりに誰もが行動しているのだ。
ああ、なんて残酷なんだろう。これはただの、夢物語でしかないのだ。
親を失って泣き叫ぶ子共も、人混みに苛立つ大人も、休憩所を探して重い足を引きずる人間も、この幸せランドにはいない。
失った物は決して取り戻せないし、泣き叫んでも助けが来ない事をエルは知っているからこそ、この世界が偽物なのだと強烈に痛感した。泣いて求めても、それはこの手に戻って来てはくれないのだと知った時から、エルは求める事を止めたのだ。
それでも幸せな親子と、彼らを包み込む暖かな大人たちの姿から、何故か目を離す事が出来なかった。腹の底がきゅうっと締まるような、懐かしさと苦しさを覚えた。
母子の姿を目で追っていたのは、ほんの十数秒の事だったが、擦れ違う人と肩がぶつかって初めて、エルはスウェンたちの姿が見えない事に気付いた。咄嗟に辺りに目を走らせたが、背丈の低いエルでは、人混みの向こうまで確認する事が出来なかった。
遊園地を楽しんでいるのは、どれも平均的な日本人ばかりのようなので、少し先まで探せば、頭一個分飛び出た男たちを見つける事は容易に違いない。だから焦りは覚えず、エルは、どうやらはぐれてしまったようだと冷静に思う事が出来た。
ここには子供向けの小ぶりな造りの建物が多いので、あの三人は、場違いな存在感を放っているから目立つだろう。
人の通りがあまりにも多いため、クロエはボストンバッグに身を潜めてしまっていた。そろそろ仮眠を取る時間の可能性もある。クロエが寝ている時は少しだけ心細いのだが、エルは、意気込んで傾斜の上を目指して歩いた。
坂道は、しだいに傾斜を増していった。エルは、場違いな三人の外国人の姿がないか、当たりに目を走らせながら歩いた、
その時、ふと、エルは名前を呼ばれたような気がして振り返った。人混みの中に見知った顔はなく、か細い声が聞こえるほど辺りは静かでもない事実を冷静に考えたエルは、不意に恐怖を覚えた。
呼び掛けられた名前は、エルの育て親であるオジサンしか知らない、エルが永遠に失ってしまった本当の名前だった。
気のせいだ。そんな事は在り得ない。
そう自分に言い聞かせて、エルは先を急いだ。この世界に入る前から、ずっと誰かが自分を呼んでいるような気がしてならない。いや、ちょっとナーバスになっているだけだろう。旅を始めてから結構な月日が経ってしまっているから、疲れているのかもしれない。
エルが別れを告げて旅立った場所も、最後に挨拶を済ませた育て親の墓からも、ずいぶんと遠くまで来てしまった。
今帰仁に佇んでいたオジサンの家は、もう取り壊されてしまっただろうかと、そんな事を考えてしまった。
急速に心細さを覚えた。恐怖が背後に迫るような錯覚に、急く足が次第に駆け足になった。上り坂で体力が奪われて呼吸が自然と荒くなる。いなくなってしまった人を求めて、一人泣きながら探し続けた夜を彷彿とさせた。
オジサンと一緒に住み始めて、間もない頃、身体の傷が癒えたばかりで、エルはその後遺症なのかとても怖い夢を見て飛び起きる事が多かった。悪夢が追ってくると錯覚し、パニック状態になったエルが外に飛び出すたび、オジサンは、サンダルもはかずに縁側に飛び出した。逃げ惑う小さなエルを抱きとめて、怖い事は何もないよと、彼は何度も優しく励ましてくれていた。
エルは、当時見ていた悪夢の内容を覚えていない。ただ、とても怖い夢だったような気はする。得体のしれない何かに掴まり、永遠に誰にも会えなくなってしまうような、そんな悪夢だった。
エルは、あの三人を探す目的を忘れて、逃げるように途中の筋道に入った。
もしかしたら本当に敵に追われている可能性があると、頭の片隅にもぞりと現状の知識が戻って憶測をかき立てる。
自身で受ける危険は出来るだけ回避していた方がいいだろうと、そんな言い訳じみた思考が脳裏を過ぎって、エルは走った。
別に、一人が恐いわけじゃない。心細くなんてない。俺にはまだクロエがいて、この身体にはオジサンが残してくれた、一人でも生きていける術や思い出が沢山詰まっているのだから。
筋道には、小振りのお土産ショップが並んでいた。道は歪なカーブを描いて上のメイン通りまで繋がっているようで、子どもサイズの『オモチャの家』のような煙突付きの同じ青い建物が、人が二人ほど通れる隙間を背に並んでいた。
建物と建物の間にも、同じ間隔の抜け道があった。こちらに向かって下って来た若いカップルが、そのまま近くの抜け道から表通りへと出ていった。
来た道の向こうが見えなくなってしまうと、恐怖感が遠のいたように落ち着きが戻って来て、エルは走るのを止めて足早に歩いた。
メイン通りに抜ける手前にベンチをみつけ、一旦そこに腰を落ち着けた。走ってしまった事を考えてチラリとボストンバックの中を見やると、クロエは眠ったままだった。
この老年は、バッグの旅が慣れた事もあって、ちょっとの振動でも起きない事がある。起こすのも気が引けたので、エルは、嫌な鼓動を続ける胸を、自分一人で落ち着ける努力をした。
暫くじっと座っていたが、胸の鼓動は相変わらず早いままだった。トクトクトク、と小さな不安が胸の奥で脈打っている気がする。
怖い事なんか何もない。自分を守れる武器は持っている。冷静になる事が必要だ、そう何度も自分に言い聞かせた。
途端に、エルがこの世界に抱いた現実感は薄らいでしまった。
エルは、まるで子共が思い描いたような幸せな世界に息苦しさを感じた。こんな事が現実に溢れている訳がないのに、この世界ではそれこそが正しく、正常とばかりに誰もが行動しているのだ。
ああ、なんて残酷なんだろう。これはただの、夢物語でしかないのだ。
親を失って泣き叫ぶ子共も、人混みに苛立つ大人も、休憩所を探して重い足を引きずる人間も、この幸せランドにはいない。
失った物は決して取り戻せないし、泣き叫んでも助けが来ない事をエルは知っているからこそ、この世界が偽物なのだと強烈に痛感した。泣いて求めても、それはこの手に戻って来てはくれないのだと知った時から、エルは求める事を止めたのだ。
それでも幸せな親子と、彼らを包み込む暖かな大人たちの姿から、何故か目を離す事が出来なかった。腹の底がきゅうっと締まるような、懐かしさと苦しさを覚えた。
母子の姿を目で追っていたのは、ほんの十数秒の事だったが、擦れ違う人と肩がぶつかって初めて、エルはスウェンたちの姿が見えない事に気付いた。咄嗟に辺りに目を走らせたが、背丈の低いエルでは、人混みの向こうまで確認する事が出来なかった。
遊園地を楽しんでいるのは、どれも平均的な日本人ばかりのようなので、少し先まで探せば、頭一個分飛び出た男たちを見つける事は容易に違いない。だから焦りは覚えず、エルは、どうやらはぐれてしまったようだと冷静に思う事が出来た。
ここには子供向けの小ぶりな造りの建物が多いので、あの三人は、場違いな存在感を放っているから目立つだろう。
人の通りがあまりにも多いため、クロエはボストンバッグに身を潜めてしまっていた。そろそろ仮眠を取る時間の可能性もある。クロエが寝ている時は少しだけ心細いのだが、エルは、意気込んで傾斜の上を目指して歩いた。
坂道は、しだいに傾斜を増していった。エルは、場違いな三人の外国人の姿がないか、当たりに目を走らせながら歩いた、
その時、ふと、エルは名前を呼ばれたような気がして振り返った。人混みの中に見知った顔はなく、か細い声が聞こえるほど辺りは静かでもない事実を冷静に考えたエルは、不意に恐怖を覚えた。
呼び掛けられた名前は、エルの育て親であるオジサンしか知らない、エルが永遠に失ってしまった本当の名前だった。
気のせいだ。そんな事は在り得ない。
そう自分に言い聞かせて、エルは先を急いだ。この世界に入る前から、ずっと誰かが自分を呼んでいるような気がしてならない。いや、ちょっとナーバスになっているだけだろう。旅を始めてから結構な月日が経ってしまっているから、疲れているのかもしれない。
エルが別れを告げて旅立った場所も、最後に挨拶を済ませた育て親の墓からも、ずいぶんと遠くまで来てしまった。
今帰仁に佇んでいたオジサンの家は、もう取り壊されてしまっただろうかと、そんな事を考えてしまった。
急速に心細さを覚えた。恐怖が背後に迫るような錯覚に、急く足が次第に駆け足になった。上り坂で体力が奪われて呼吸が自然と荒くなる。いなくなってしまった人を求めて、一人泣きながら探し続けた夜を彷彿とさせた。
オジサンと一緒に住み始めて、間もない頃、身体の傷が癒えたばかりで、エルはその後遺症なのかとても怖い夢を見て飛び起きる事が多かった。悪夢が追ってくると錯覚し、パニック状態になったエルが外に飛び出すたび、オジサンは、サンダルもはかずに縁側に飛び出した。逃げ惑う小さなエルを抱きとめて、怖い事は何もないよと、彼は何度も優しく励ましてくれていた。
エルは、当時見ていた悪夢の内容を覚えていない。ただ、とても怖い夢だったような気はする。得体のしれない何かに掴まり、永遠に誰にも会えなくなってしまうような、そんな悪夢だった。
エルは、あの三人を探す目的を忘れて、逃げるように途中の筋道に入った。
もしかしたら本当に敵に追われている可能性があると、頭の片隅にもぞりと現状の知識が戻って憶測をかき立てる。
自身で受ける危険は出来るだけ回避していた方がいいだろうと、そんな言い訳じみた思考が脳裏を過ぎって、エルは走った。
別に、一人が恐いわけじゃない。心細くなんてない。俺にはまだクロエがいて、この身体にはオジサンが残してくれた、一人でも生きていける術や思い出が沢山詰まっているのだから。
筋道には、小振りのお土産ショップが並んでいた。道は歪なカーブを描いて上のメイン通りまで繋がっているようで、子どもサイズの『オモチャの家』のような煙突付きの同じ青い建物が、人が二人ほど通れる隙間を背に並んでいた。
建物と建物の間にも、同じ間隔の抜け道があった。こちらに向かって下って来た若いカップルが、そのまま近くの抜け道から表通りへと出ていった。
来た道の向こうが見えなくなってしまうと、恐怖感が遠のいたように落ち着きが戻って来て、エルは走るのを止めて足早に歩いた。
メイン通りに抜ける手前にベンチをみつけ、一旦そこに腰を落ち着けた。走ってしまった事を考えてチラリとボストンバックの中を見やると、クロエは眠ったままだった。
この老年は、バッグの旅が慣れた事もあって、ちょっとの振動でも起きない事がある。起こすのも気が引けたので、エルは、嫌な鼓動を続ける胸を、自分一人で落ち着ける努力をした。
暫くじっと座っていたが、胸の鼓動は相変わらず早いままだった。トクトクトク、と小さな不安が胸の奥で脈打っている気がする。
怖い事なんか何もない。自分を守れる武器は持っている。冷静になる事が必要だ、そう何度も自分に言い聞かせた。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】神から貰ったスキルが強すぎなので、異世界で楽しく生活します!
桜もふ
恋愛
神の『ある行動』のせいで死んだらしい。私の人生を奪った神様に便利なスキルを貰い、転生した異世界で使えるチートの魔法が強すぎて楽しくて便利なの。でもね、ここは異世界。地球のように安全で自由な世界ではない、魔物やモンスターが襲って来る危険な世界……。
「生きたければ魔物やモンスターを倒せ!!」倒さなければ自分が死ぬ世界だからだ。
異世界で過ごす中で仲間ができ、時には可愛がられながら魔物を倒し、食料確保をし、この世界での生活を楽しく生き抜いて行こうと思います。
初めはファンタジー要素が多いが、中盤あたりから恋愛に入ります!!
(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
無魔力の令嬢、婚約者に裏切られた瞬間、契約竜が激怒して王宮を吹き飛ばしたんですが……
タマ マコト
ファンタジー
王宮の祝賀会で、無魔力と蔑まれてきた伯爵令嬢エリーナは、王太子アレクシオンから突然「婚約破棄」を宣告される。侍女上がりの聖女セレスが“新たな妃”として選ばれ、貴族たちの嘲笑がエリーナを包む。絶望に胸が沈んだ瞬間、彼女の奥底で眠っていた“竜との契約”が目を覚まし、空から白銀竜アークヴァンが降臨。彼はエリーナの涙に激怒し、王宮を半壊させるほどの力で彼女を守る。王国は震え、エリーナは自分が竜の真の主であるという運命に巻き込まれていく。
断罪まであと5秒、今すぐ逆転始めます
山河 枝
ファンタジー
聖女が魔物と戦う乙女ゲーム。その聖女につかみかかったせいで処刑される令嬢アナベルに、転生してしまった。
でも私は知っている。実は、アナベルこそが本物の聖女。
それを証明すれば断罪回避できるはず。
幸い、処刑人が味方になりそうだし。モフモフ精霊たちも慕ってくれる。
チート魔法で魔物たちを一掃して、本物アピールしないと。
処刑5秒前だから、今すぐに!
お兄様、冷血貴公子じゃなかったんですか?~7歳から始める第二の聖女人生~
みつまめ つぼみ
ファンタジー
17歳で偽りの聖女として処刑された記憶を持つ7歳の女の子が、今度こそ世界を救うためにエルメーテ公爵家に引き取られて人生をやり直します。
記憶では冷血貴公子と呼ばれていた公爵令息は、義妹である主人公一筋。
そんな義兄に戸惑いながらも甘える日々。
「お兄様? シスコンもほどほどにしてくださいね?」
恋愛ポンコツと冷血貴公子の、コミカルでシリアスな救世物語開幕!
オネエ伯爵、幼女を拾う。~実はこの子、逃げてきた聖女らしい~
雪丸
ファンタジー
アタシ、アドルディ・レッドフォード伯爵。
突然だけど今の状況を説明するわ。幼女を拾ったの。
多分年齢は6~8歳くらいの子。屋敷の前にボロ雑巾が落ちてると思ったらびっくり!人だったの。
死んでる?と思ってその辺りに落ちている木で突いたら、息をしていたから屋敷に運んで手当てをしたのよ。
「道端で倒れていた私を助け、手当を施したその所業。賞賛に値します。(盛大なキャラ作り中)」
んま~~~尊大だし図々しいし可愛くないわ~~~!!
でも聖女様だから変な扱いもできないわ~~~!!
これからアタシ、どうなっちゃうのかしら…。
な、ラブコメ&ファンタジーです。恋の進展はスローペースです。
小説家になろう、カクヨムにも投稿しています。(敬称略)
中身は80歳のおばあちゃんですが、異世界でイケオジ伯爵に溺愛されています
浅水シマ
ファンタジー
【完結しました】
ーー人生まさかの二週目。しかもお相手は年下イケオジ伯爵!?
激動の時代を生き、八十歳でその生涯を終えた早川百合子。
目を覚ますと、そこは異世界。しかも、彼女は公爵家令嬢“エマ”として新たな人生を歩むことに。
もう恋愛なんて……と思っていた矢先、彼女の前に現れたのは、渋くて穏やかなイケオジ伯爵・セイルだった。
セイルはエマに心から優しく、どこまでも真摯。
戸惑いながらも、エマは少しずつ彼に惹かれていく。
けれど、中身は人生80年分の知識と経験を持つ元おばあちゃん。
「乙女のときめき」にはとっくに卒業したはずなのに――どうしてこの人といると、胸がこんなに苦しいの?
これは、中身おばあちゃん×イケオジ伯爵の、
ちょっと不思議で切ない、恋と家族の物語。
※小説家になろうにも掲載中です。
【完結】奇跡のおくすり~追放された薬師、実は王家の隠し子でした~
いっぺいちゃん
ファンタジー
薬草と静かな生活をこよなく愛する少女、レイナ=リーフィア。
地味で目立たぬ薬師だった彼女は、ある日貴族の陰謀で“冤罪”を着せられ、王都の冒険者ギルドを追放されてしまう。
「――もう、草とだけ暮らせればいい」
絶望の果てにたどり着いた辺境の村で、レイナはひっそりと薬を作り始める。だが、彼女の薬はどんな難病さえ癒す“奇跡の薬”だった。
やがて重病の王子を治したことで、彼女の正体が王家の“隠し子”だと判明し、王都からの使者が訪れる――
「あなたの薬に、国を救ってほしい」
導かれるように再び王都へと向かうレイナ。
医療改革を志し、“薬師局”を創設して仲間たちと共に奔走する日々が始まる。
薬草にしか心を開けなかった少女が、やがて王国の未来を変える――
これは、一人の“草オタク”薬師が紡ぐ、やさしくてまっすぐな奇跡の物語。
※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる