仮想空間に巻き込まれた男装少女は、軍人達と、愛猫との最期の旅をする

百門一新

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10章 夢人と宿主~ハイソン~(1)

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 四番目のエリアで報告を受けた後、ハイソンは――トイレの中にこもっていた。

 胃痛が絶えないのだ。既に腹痛も併発しており、下しているわけではないがトイレの往復数が格段に増えた。胃の痛みと同時に、下腹部にまで激痛と悪寒が走っている。もはや耐えられない緊張感と重圧が、彼の小さな精神を押し潰そうとしていた。

 ハイソンは本日、何度目かも分からないトイレの中で、これまでの状況を整理した。

 溜息をこぼすたびに、胃がキリキリと痛んだ。ひどいストレスである。

 スウェン率いる少数部隊は、無事に四番目のセキュリティー・エリアを突破し、五番目のセキュリティー・エリアに突入した。

 彼らが仮想空間に入ってから早半日、良い調子であるのか遅れているのか、ハイソンは焦りを覚える。現地入りを果たしていない所長の方でも、色々と調べてくれているらしいが――

 そういえば所長は、巻き込まれたらしい少年について、やけに知りたがっていたなと、ハイソンはふと思い出した。


 稼働を続けるプログラムの動きがおかしい事に気付いたのは、スウェンから三番目のセキュリティー・エリアを突破したという報告を受けた後だった。プログラムの監視モニターに、妙なバグコードが認められたのだ。


 破壊と再構築が繰り返される解析データには、これまで見た事のないコードが派生していた。それは、全く意味をなさない壊れたキー重複のように、でたらめな文字列だった。

 それは、五番目のセキュリティー・エリアに突入してからは、ピタリと出なくなった謎のデータ・コードではあるが、ハイソンは気になって仕方がなかった。

 スウェンから、チームのメンバーが正体不明の人物と接触したらしいと報告を聞いた後、何者かが介入しているのではないか、とハイソンはそんな事を考えもした。

 プログラムの監視を行っているハイソン達と、マルクの他に、仮想空間内にハッキング出来る可能性は皆無なのだが、「そんな馬鹿な事、あるわけないかと」己の考えを嗤いつつも、胃痛が絶えなかった。


 疲れているのだ。心労もピークに達している。妙な心配をしてしまうのも、仕方がない事なのだろう。
 

 先程、気付けの一杯でコーラを飲んでみたが、ハイソンは、あまりの胃痛に立っていられなかった。

 クロシマは平気な顔で、メロンソーダを大量に飲んでいたが、考えてみれば、奴も休む暇がないはずだ。その後で自分だけトイレに掛け込んだという事実に、ハイソンは、今更恥ずかしい気持ちを覚えた。

 午後の五時を回り、施設内は静けさを取り戻し始めていた。朝に勃発した大騒動が、嘘のような気さえしてくる。

 思えば、マルクの所在を突き止め、彼の逃走劇が始まり、アリスが誘拐されてログ達が仮想空間へ侵入を開始してから、まだ一日も経っていないのだ。

 それでも、ハイソンは、随分と長い時が経過したような疲労感を覚えていた。マルクの失踪と、連続行方不明者と被害者の遺体の発見から、研究チームはずっと、緊急活動を続けさせられているせいかもしれない。

 ハイソンは、手洗いを済ませた後、自販機でミルクティーを購入した。

 ひどく不味い胃薬を、ミルクたっぷりの飲料で無理やり流し込む。冷たさと水分が、じわじわと内臓に染みた。ミルクティーを半分飲み干す頃には胃に激痛が走っていたが、必要なカロリーの摂取だと考えて、どうにか一本を飲み干した。

 基地内にあるとはいえ、第三研究所は、本来ならば少ない研究員達が、黙々と仕事を行う静かなところのはずだった。軍の関係者が、ひっきりなしに出入りするような場所ではない。

 午後五時を回った今、こんなに静かになったのは久しいような気がして、ハイソンの心は少しばかり落ち着きを取り戻した。

 クロシマの真似をして、試しに空き缶をゴミ箱に投げ入れてみたが、やはり上手く入らなかった。距離は近いというのに、空き缶はゴミ箱の角にヒットすると、バウンドして廊下に転がり落ちてしまった。

 ほんの少し前まで、ここには定期的に身体検査――所長とログの個人面談の為、ハイソンは検査内容について詳細を知らなかった――に訪れるログがいて、父親の元へ遊びに来るアリスが廊下を走る姿があった。

 騒がしいなぁと思いつつ、ハイソンもクロシマも、実は時折、そうやって賑やかになる所内を居心地良くも感じていた。たまに少し事件は起こるものの、生死が関わるわけではないから平和なものだ。

 今回の事件について、事情を知らない若い研究員達は、それぞれ雑用や簡単な作業を任され、ほぼ蚊帳の外といった具合で本研究からは遠ざけられていた。彼らは戸惑いながらも、ハイソンの元同僚達の指示に従い動いている。

 ハイソンの元同僚達は、現在、ほとんどが堅苦しい肩書きを持っているか、既に名の知れた科学者といった面々だった。「あのハイソンさんは、どこで彼らと知り合ったのだろう」というのが、のんびりとした若い施設員たちの、もっぱらの話題である。

 賢くない連中で本当に良かった。それが、ハイソンの正直な心境だ。

 そもそも、何が起こっているのかと問われても、現状、説明出来る者はいない。『仮想空間エリス』の計画については、既に凍結された口外禁止の研究内容であり、深く入り込むと国家機密に触れる恐れがあった為、ハイソン達も簡単に説明してやる事が出来ないのだ。

 空き缶をゴミ箱に収めた後、ハイソンは、重い足を引きずり廊下を歩いた。

 ログ達は、今頃どうしているだろう。無事に、今回の五番目のセキュリティー・エリアも抜けられるといいのだが……

 考え出すと、『仮想空間エリス』では、どんな事が起こり得るのか予測すら立てられない状況に、不安ばかりが募る。

 マルクさんは、いったい何を考えているのだろう?

 どうして、こんにも不安に駆られるのかと考え込むと、胃痛が戻って来る。

 今回大佐から任命され、仮想空間についてスウェン隊長に伝えた時、彼があまり顔色を変えずに肯いてくれたものだから、プログラムの破壊も実現可能だろう、と安心してしまったのは確かだ。しかし、早急に判断を求められた状況での一連のやりとりを、ハンソンは今更になって後悔もしている。

 ログの所属している部隊について、ハイソンは詳しくは知らない。

 大きなプロジェクトで大惨事があっただとか、彼らのこれまでの仕事や黒い噂については、いくつか聞いた事があったが、本人を前にして見ると、そこまで恐ろしいとも思えなかった。冷酷無情と恐れられ、最年少で隊長となったスウェンについても、ちょっと難しい所はあるが、悪い人間ではないとも思うのだ。

 特にハイソンは、スウェンの判断力や分析能力を、大きく買っていた。一部の機密機関に関与しているメンバーから、彼の頭脳についての噂も聞いている。

 成功の確信が持てない任務について、あの『スウェン隊長』は、絶対に首を縦に振らないのだそうだ。危険が伴う場合は、他の部署から盾に使える部下を必ず引き連れた――らしいという、冷酷極まりない噂まである。

 ハイソンは、これまでスウェンとはほとんど面識がなかった。ログが定期健診に訪れるようになった際、廊下ですれ違う事が二、三回ほどあり、その時少しだけ言葉を交わしてみた事があるだけだ。
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