仮想空間に巻き込まれた男装少女は、軍人達と、愛猫との最期の旅をする

百門一新

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10章 夢人と宿主~そしてエル達~(5)

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 老人は二人の視線に気付く様子もなく、その場に「どっこいしょ」と腰を下ろした。強い日差しを仰ぎ、首に巻いていたタオルで大雑把に顔の汗を拭うと、腰に提げていた水筒を取り出して飲み始めた。

 その時、エルは老人に対して、首の後ろが僅かに焼けるような違和感を覚えた。足元にいたはずのクロエが、ボストンバックの中に飛び込んで、低い警戒の声を上げ始める。

 エルは、自分達よりも早く違和感を察知していたのだろうかと疑い、恐怖に震える少年へ目を向けた。

 そもそも、彼は一体何者なのだ? もしかして、自分と同じように外からやって来た人間なのだろうか。

 いや、それはいな、とエルは後者の可能性を捨てた。仮想空間に入っている者の数は、外で把握済みだとスウェンは言っていた。つまり、エルの他に、そういった人間の存在はないという事だ。

 鼠男達は、この世界のセキュリティーだ。侵入者を始末する為に動いている彼らが、この少年を追っているというのであれば、何か意味があるのだろう。

 そうだとすれば、エルは、この少年を守らなければならない。

 水筒を戻した老人の手が震え始めた事に気付いて、エルは目を止めた。老人の身体から発せられる強い違和感を察して、ああ、来るぞ、と彼女は身構えた。
 
 エルが見守る中、次第に老人の震えは全身へと行き渡り、身体の骨格に変化が生じ始めた。

 弱々しい老人の身体は、大きく逞しい肉体へと変貌を遂げ、服やサンダルが白い軍服へと転じ、頭部は大きな鼠へとすり替わった。

 新しく生まれた鼠男が立ち上がり、エル達が隠れている場所を振り返った。

 少年が短い悲鳴を上げ、立ち上がり様に腰を抜かして倒れ込んだ。

「に、ににに、逃げなきゃッ」

 少年は腰がすっかり抜けており、地面の上に手と膝をついた状態で、工場の奥へ逃げようともがいた。

 エルは「やれやれ」と立ち上がると、そのまま工場から外へと進み出た。「お前の標的はここだぜ」と挑発の声を掛けて、鼠男を真っ直ぐ見つめ返した。

 工場内にいた少年が、「無茶だ」と情けない囁きでエルに忠告した。

「君も早く逃げるんだ! あいつら、俺以外の人間を、へ、平気な顔で、こ、ここ、殺しちゃうんだからッ」
「俺は逃げないし、殺されない。あいつをぶっ飛ばしてやるから、お前は、クロエと一緒にそこで待っていて」

 立ち向かわない姿勢は気にくわないが、エルは、その苛立ちを敵で発散する事にした。

 エルが右拳を左手に打ち当てると、鼠男が、どこからともなく鉄製の槍を取り出し、槍の先端をエルへと向けた。どうやら、人間らしい挑発にも乗ってくれるらしい、とエルは場違いな感想を抱いた。

 両者とも、しばらく動かなかった。エルは、相手が動き出す一瞬を待った。

 そのまま、数十秒が過ぎた。吹き抜けた風が、一瞬、ふわりと凪いだ時――


 鼠男が走り出すのと、エルが地面を蹴り上げるのは、ほぼ同時だった。


 体躯逞しい大きな身体を持った鼠男の誤算は、エルがたった一つの跳躍で、一秒もかからずに鼠男の懐まで到達可能であった事だろう。

 鍛えられたエルの高い身体能力は、足場の砂利を抉る程の強力な瞬発力を起こした。一瞬で間合いを詰める判断力と、突き付けられた槍先を紙一重でかわすエルの動体視力は、常人の運動能力を遥かに超えていた。

 迫りくる小さな捕食動物に対して鼠男が放った槍は、彼女の肌に触れる事も出来ずに宙を切った。

 槍を突き出しきった敵の眼前で、エルは更に踏み込んだ。その拍子に、砂利がぴしゃりと跳ね、鼠男の体毛と、柔らかなエルの髪先が揺れた。

 エルが身にまとう黒いコートが、ふわりと風で膨らんだ。

 エルは槍の先端を避けた後、間髪入れず鼠男の真下に、その身を滑り込ませていた。右手の甲を鼠男の顎の下から打ち付けると、脳震盪を起こす鼠男の脇腹に、続いて全身の遠心力を利用し蹴りを叩き込んだ。

 放たれた蹴力に耐え切れなかった鼠男の身体が、軽く宙を舞って吹き飛んだ。

 エルは、鼠男が吹き飛ぶ同じ方向へ突き進むと、飛び上がり、工場の壁に叩きつけられた鼠男の首に、躊躇なく膝を突き入れた。
 

 ゴキリ、と野太い音が響き渡った。全身を強打し、首の骨を折られた鼠男の身体が、全身の力を失い崩れ落ちた。


 エルは、標的が完全に再起不能である事を確認し、衣服を整えた。

 少し息は上がってしまったものの、倒した手応えは十分だと感じた。鼠男の身体は、屈強な大人の男のものなので、固い筋肉に覆われて全体的に固い。全力でいかないと、短い時間で片付けられなかっただろうと、冷静に分析する。

 エルが手についた埃を払っていると、尻餅をついたままの少年が「すげぇ……」とぼやいた。

「君、すごいねぇッ。武道家なのかい!?」
「この街に、そんな職業があるのか?」

 エルは、憮然と訊き返した。

 これぐらいは普通にやってのけないと、鍛えてくれたオジサンに顔向け出来ない。エルは彼に勝てた事が一度もなく、かといって他の人間と手合わせした事はなかったから、自分の戦闘能力がどれほどのものであるのかも分からないが……

 少年は立ち上がると、少し困ったように頬をかいた。

「船大工の人の中にも結構強い人がいるけど、君みたいに小さな子は初めてかも」

 彼はそう答えつつ、尻についた細かい砂利を払った。

 少年は続いて、ボストンバッグに入ったままクロエを抱き上げて、「君のご主人様は、すごいなぁ」と褒めた。先程まで泣いていたのが、嘘のようにころころ気分が変わる様子を見ていると、ただの馬鹿なのではないかとも思える。

 エルは、クロエと一緒に工場の外へ出てくる少年を、怪訝そうに観察した。

 まずは危険が去った事に安心したのか、少年は崩れた塀の傍まで進むと、「こっちへおいでよ」とエルを呼んだ。

「この下にある道を進めば、港まで行けるんだ。市場を通って、人通りもほとんどない畑道に抜けるから、きっと奴らには出くわさないと思う」
「そんな事より、なんで追われているのか聞きたいんだけど」
「そういえば、君はあいつらを知っているみたいだけど、俺と同じように追われているのかい?」

 さっきも似たような応答をした覚えがあるのだが、気のせいか?

 質問をしても的確な返答が返ってこないし、話も結構な頻度で飛んでいるような気がする。少年に悪気はなさそうだが、話が進まない現状を思って、エルは雑に頭をかいた。

 エルは、彼からクロエを取り返しながら、ボストンバッグを肩から斜めに提げ直して「あのね」と尋ねた。

「俺は、貴方がどうして奴らに追われているのか知りたいんだよ」

 しかし、少年は集中力がないのか、すぐに余所へと目を向けていた。

 エルが思わず「聞いてる?」と少年の腕を掴んだ瞬間、触れた手の先から静電気が走るような違和感を覚えて、思わず目を丸くしてパッと手を離した。少年の方も同じ物を感じ取ったのか、目を見開いてエルを見つめ返した。

 彼は自身の胸に手をあてると、まじまじとエルを覗き込んで来た。
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