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12章 最後のセキュリテイー・エリア(6)
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放たれたロケットランチャーの発射音に、空気が振動した。
ロケットランチャーの弾は、飛び出した勢いで近くの吸血獣たちを薙ぎ払い、着弾点で爆発すると、粉塵を巻き上げて爆炎と爆風で吸血獣達を一掃した。
後方からその様子を見ていた吸血獣は、武器を持った人間はすぐに喰えないだろうと判断したのか、武器を持たない獲物に狙いを定め、一斉に地面から飛び上がると、三人の男の後方にいるホテルマンとエルに襲いかかった。
スウェンとログ、セイジが気付いて振り返った時には、既に数十の吸血獣達が、エルとホテルマンの眼前に迫り、鋭利な牙を剥き出していた。
爆音の直後で耳がうまく音を拾えない。
エルは瞬きの間、一瞬時を忘れた。スウェンが、「守れ」と怒号したような気がしたが、彼の顔はすぐに吸血獣達の向こうに見えなくなってしまい、彼らがどんな表情を浮かべていたのか分からなかった。
けれど、エルの迷いは一瞬だった。
エルとホテルマンは、反射的に後方へ飛ぶと、コンマ二秒の間に敵との距離を計った。
傍観者となった軍人三人の存在を忘れたエルとホテルマンは、吸血獣との間合いを確認すると、ほぼ同時に地面を蹴り上げ、その高い身体能力をフルに活かして吸血獣達の上を軽々と飛び越えた。
空中に浮遊している時間は、ほんのわずかなものだったが、エルには、それがとても長い時間のように感じた。
衣服と髪、粉塵を乗せた空気の流れが、ひどくゆるやかに流れているように見えた。
エルは、ホテルマンの隣で眼下の吸血獣達を見降ろした。素早く銃を取り出すとロックを外し、間髪入れず地上にいる吸血獣の頭を狙って打ち込んだ。ホテルマンが懐から銀のナイフを複数取り出して、笑顔を貼りつかせたまま銀色の凶器を放った。
銃弾と、放たれた銀のナイフが、全て吸血獣達の頭に命中する。
先に足から着地したホテルマンが、そのまま後方へと手をつくように回転し、別方向から飛び込んで来た吸血獣を両の足を振りまわして薙ぎ払った。
エルは落下する直前に素早く銃をしまうと、ホテルマンに続いて両手で地面に着地しつつ、こちら側に向かって来る吸血獣達の数を視認した。邪魔だった一匹を右足で蹴り飛ばすと、もう一度身体を跳躍させ、腰元から抜いたコンバットナイフを煌めかせて、三匹の吸血獣の首を切り落とした。
考える余裕はない。冷静に敵を殲滅する事だけを目的に、エルとホテルマンは飛び込んでくる吸血獣を殺し続けた。気付くと二人の周りに動く吸血獣は一匹もいなくなっており、外側へと投げ出された血の染みが、二人を囲うように円を描いていた。
二人の接近戦の様子を見ていたスウェンが、自身の呼吸を整えながら前髪をかき上げた。吸血獣達は、仲間の無残な死に様を見て恐怖したのか、いつの間にか辺りから姿を消してしまっていた。
「……こんな無茶苦茶な傭兵、うちのチームにもいなかったぞ。二人とも、すごく強いな」
呆気につられつつも、スウェンは正直な感想を口にした。とてもじゃないが、あの戦闘ぶりを見た後では接近戦で勝てる自信がなくなる。恐ろしいほど磨かれた身体能力と、天性の戦闘センスがなければ無理だ。
吸血獣がいなくなった事に遅れて気付き、エルは戦闘体制の緊張を解いた。コンバットナイフをしまうと、途端に鋭い闘気を消失させて、可愛らしい表情でコートについた粉塵を手で払い「そうかなぁ」と自信なく答える。
すると、彼女の隣で襟元を整えていたホテルマンが、襟元を整えながら「むふふふ」と妙な鼻息を上げた。
「『強い』そうですよ、小さなお客様。褒められましたね。いやはや、なかなかのナイフ捌きでした」
「そっちもナイフ投げてたじゃん」
「ふははははっ、いつかお金に変えてやろうと服に忍び込ませていた甲斐がありましたね! 結構なお値段ですので、ちょっと勿体ない気はしますが」
ああ、残念でなりません、とホテルマンが相変わらず胡散臭い顔で吐息をこぼした。先程まで戦っていた、冷酷な戦士の様が思い出せないほど普段通りだった。
銀のナイフも盗品なのか……クビになっても仕方ないのでは?
エルは、突っ込む気さえ起らず、悩ましげに首を捻った。とはいえ、彼とコンビを組んで戦うのはとてもやり易く、本当に似たタイプの接近戦闘員なのだろうなとも思えた。戦いの呼吸が同じなので、エルも非常に動きやすかったのだ。
「さあ、お客様たち、こんな所で悠長に話しなどしていられませんよ。逃げれば勝ち、というやつです!」
ホテルマンは片方の目を閉じる仕草を見せたが、作り物じみた顔では、乙女的ウィンクの再現は厳しかった。
スウェンが「うげ」と珍しく声を上げてドン引きし、セイジが「それ、やらない方がいい……」と今にも吐きそうな様子で口許を押さえ、ログがあからさまに顔を顰めて「見直して損したぜ」と盛大な舌打ちを一つした。
※※※
五人という少数部隊で、かなりの吸血獣達を再起不能に出来たようだった。
辺りには、吸血獣達の死体が多く転がっていた。吸血獣の殲滅が目的ではないので、襲いかかって来ない分に関しては深追いする必要もない。
「まぁ、確かに、彼のいう通りだね」
ホテルマンの言葉を思い返したスウェンが、諦めたような息を吐いてロケットランチャーを担いだ。
「無駄な体力の消耗は、出来るだけ避けよう」
いつ吸血獣達がまた襲って来るとも限らないので、エル達は駆け足で村を横断した。
村にある塔の奥にあったのは、断崖絶壁のような高い岩肌だった。そこには、岩で重ね作られただけの幅のかなり狭い階段が上まで続いていたが、傾斜が高く、階段を上がるというよりは、山肌の岩を登るような勇気と技術を強いられた。
ほぼ両手両足で登るしかない階段の頂上に、先にスウェン、セイジ、ログが辿り着いた。ログは丘の上に辿り着くや否や、膝を折って岩肌の階段へ目を戻した。
そこには、階段をのろのろと慎重に上がって来るエルの姿があった。ログは、彼女に手を伸ばした。
「ほれ、もうすぐだ、クソガキ」
「うるさい……別に、ちゃんと登れるし……」
エルは、どうにかそう言い返したが、内心の余裕は全くなかった。階段を両手で掴みながら、震える身体を心の中で叱咤し続けている。
こんなに高い所まで登った経験はなかった。少しでもバランスを崩したら、真っ逆さまに落ちてしまうだろう。ボストンバッグにはクロエがいるので、手足一つのミスで命取りになる緊張感が、更にエルの恐怖を煽っていた。
エルのすぐ下では、ホテルマンが「私は優秀なホテルマンなので、体力も持久力もないのですぅッ」と胡散臭い涙芝居を行っていた。本音なのか嘘なのか不明だが、彼はへっぴり腰で情けなく階段にしがみ付いている。
泣くもんか、と大きな瞳を潤ませながら懸命に励むエルを、ログは、手を差し出したまま見つめていた。彼は、彼女の下から「怖いですよぉッ」と胡散臭い台詞を吐く声を聞いて、エルの下にいるホテルマンに冷たい一瞥をくれた。
「あれだけ闘っておきながら、情けねぇ醜態を晒してんじゃねぇよ。問題なくいけるだろ。男なんだ、根性見せろ」
ログは辛辣に告げると、エルへと視線を戻して眉間の皺を薄めた。彼は吐息混じりに、「あのな」と言った。
「ここで意地張ってもしょうがないだろ。もう足も完全に止まっちまってるし、そのまま硬直状態が続く方が怖いだろうが。とりあえず手を掴め」
「そッ、別に怖くなんてないし!? というか、い、いいい今、上が見れないから、ちょっと話しかけないで……」
エル達のやりとりを聞いていたホテルマンが、すかさず「えぇぇぇ!?」と声を上げた。
「ひどい! 貴方様は鬼ですか! 小さなお客様との、対応の差が激しすぎませんかね!?」
「うるせぇな。お前は一人でもいけるだろうが」
「私は本来とても気性穏やかで、重労働はテーブルマナーしか知らない世界で一番律儀なホテルマンなのですよ! 体力勝負事にはてんで向いてないのですぅぅううう!」
ホテルマンは、自らの口で「しくしくしくしく」と効果音を上げた。どこから取り出したのか、レースの付いた桃色のハンカチを目元に当てる。
「駄目だってッ、両手でちゃんと身体を支えなきゃッ」
それに気付いたエルは、慌てて振り返り忠告したが、――うっかり視線を向けてしまった先に、ホテルマンの向こうに遥か遠くなった地面を見て眩暈を覚えた。
うぅ、怖がっちゃダメだ。絶対ログに馬鹿にされるもんッ。
エルは、震えそうになる口許を、奥歯を噛みしめて堪えた。それでも放っておけなくて、彼女は震える手を一つ離すと、ホテルマンへ向けて差し伸ばした。
「ほら、こ、怖くないよ。俺が、一緒に引き上げてやるからッ」
語尾が震えそうになったが、エルはどうにか力強くそう言った。
ホテルマンが途端に、ピタリと泣き声を止めて、妙なものを見るような顔をエルへと向けた。
二人の間に、柔らかい湿った風が吹き抜けた。
上の方から、スウェンとセイジが「大丈夫か」と声を掛けても、ホテルマンはしはらく反応を返さなかった。長い沈黙を置いた後、ログが「早くしろ」と急かす言葉を合図に、ようやく手を伸ばし始めた。
ホテルマンは、何度か躊躇するように手を止めたが、恐る恐るといった様子で、まるで壊れ物を扱うように、ゆっくりとエルの手に触れて握った。
「――はい」
どちらとも付かない声色で、ホテルマンがそう答えた。
エルは、彼の手をしっかりと握り返した。彼の手は作り物のようにキレイで、ひんやりと冷たかった。男一人を持ち上げるには厳しい状況であるが、やってみなければ分からないだろう、とエルは自分を奮い立たせた。
上で痺れを切らしたログが、エルの腕をむんずと掴んだ。
彼は「さっさと来い」と一声掛けると、ホテルマンごと、エルを難なく上へと引っ張り上げてしまった。
ロケットランチャーの弾は、飛び出した勢いで近くの吸血獣たちを薙ぎ払い、着弾点で爆発すると、粉塵を巻き上げて爆炎と爆風で吸血獣達を一掃した。
後方からその様子を見ていた吸血獣は、武器を持った人間はすぐに喰えないだろうと判断したのか、武器を持たない獲物に狙いを定め、一斉に地面から飛び上がると、三人の男の後方にいるホテルマンとエルに襲いかかった。
スウェンとログ、セイジが気付いて振り返った時には、既に数十の吸血獣達が、エルとホテルマンの眼前に迫り、鋭利な牙を剥き出していた。
爆音の直後で耳がうまく音を拾えない。
エルは瞬きの間、一瞬時を忘れた。スウェンが、「守れ」と怒号したような気がしたが、彼の顔はすぐに吸血獣達の向こうに見えなくなってしまい、彼らがどんな表情を浮かべていたのか分からなかった。
けれど、エルの迷いは一瞬だった。
エルとホテルマンは、反射的に後方へ飛ぶと、コンマ二秒の間に敵との距離を計った。
傍観者となった軍人三人の存在を忘れたエルとホテルマンは、吸血獣との間合いを確認すると、ほぼ同時に地面を蹴り上げ、その高い身体能力をフルに活かして吸血獣達の上を軽々と飛び越えた。
空中に浮遊している時間は、ほんのわずかなものだったが、エルには、それがとても長い時間のように感じた。
衣服と髪、粉塵を乗せた空気の流れが、ひどくゆるやかに流れているように見えた。
エルは、ホテルマンの隣で眼下の吸血獣達を見降ろした。素早く銃を取り出すとロックを外し、間髪入れず地上にいる吸血獣の頭を狙って打ち込んだ。ホテルマンが懐から銀のナイフを複数取り出して、笑顔を貼りつかせたまま銀色の凶器を放った。
銃弾と、放たれた銀のナイフが、全て吸血獣達の頭に命中する。
先に足から着地したホテルマンが、そのまま後方へと手をつくように回転し、別方向から飛び込んで来た吸血獣を両の足を振りまわして薙ぎ払った。
エルは落下する直前に素早く銃をしまうと、ホテルマンに続いて両手で地面に着地しつつ、こちら側に向かって来る吸血獣達の数を視認した。邪魔だった一匹を右足で蹴り飛ばすと、もう一度身体を跳躍させ、腰元から抜いたコンバットナイフを煌めかせて、三匹の吸血獣の首を切り落とした。
考える余裕はない。冷静に敵を殲滅する事だけを目的に、エルとホテルマンは飛び込んでくる吸血獣を殺し続けた。気付くと二人の周りに動く吸血獣は一匹もいなくなっており、外側へと投げ出された血の染みが、二人を囲うように円を描いていた。
二人の接近戦の様子を見ていたスウェンが、自身の呼吸を整えながら前髪をかき上げた。吸血獣達は、仲間の無残な死に様を見て恐怖したのか、いつの間にか辺りから姿を消してしまっていた。
「……こんな無茶苦茶な傭兵、うちのチームにもいなかったぞ。二人とも、すごく強いな」
呆気につられつつも、スウェンは正直な感想を口にした。とてもじゃないが、あの戦闘ぶりを見た後では接近戦で勝てる自信がなくなる。恐ろしいほど磨かれた身体能力と、天性の戦闘センスがなければ無理だ。
吸血獣がいなくなった事に遅れて気付き、エルは戦闘体制の緊張を解いた。コンバットナイフをしまうと、途端に鋭い闘気を消失させて、可愛らしい表情でコートについた粉塵を手で払い「そうかなぁ」と自信なく答える。
すると、彼女の隣で襟元を整えていたホテルマンが、襟元を整えながら「むふふふ」と妙な鼻息を上げた。
「『強い』そうですよ、小さなお客様。褒められましたね。いやはや、なかなかのナイフ捌きでした」
「そっちもナイフ投げてたじゃん」
「ふははははっ、いつかお金に変えてやろうと服に忍び込ませていた甲斐がありましたね! 結構なお値段ですので、ちょっと勿体ない気はしますが」
ああ、残念でなりません、とホテルマンが相変わらず胡散臭い顔で吐息をこぼした。先程まで戦っていた、冷酷な戦士の様が思い出せないほど普段通りだった。
銀のナイフも盗品なのか……クビになっても仕方ないのでは?
エルは、突っ込む気さえ起らず、悩ましげに首を捻った。とはいえ、彼とコンビを組んで戦うのはとてもやり易く、本当に似たタイプの接近戦闘員なのだろうなとも思えた。戦いの呼吸が同じなので、エルも非常に動きやすかったのだ。
「さあ、お客様たち、こんな所で悠長に話しなどしていられませんよ。逃げれば勝ち、というやつです!」
ホテルマンは片方の目を閉じる仕草を見せたが、作り物じみた顔では、乙女的ウィンクの再現は厳しかった。
スウェンが「うげ」と珍しく声を上げてドン引きし、セイジが「それ、やらない方がいい……」と今にも吐きそうな様子で口許を押さえ、ログがあからさまに顔を顰めて「見直して損したぜ」と盛大な舌打ちを一つした。
※※※
五人という少数部隊で、かなりの吸血獣達を再起不能に出来たようだった。
辺りには、吸血獣達の死体が多く転がっていた。吸血獣の殲滅が目的ではないので、襲いかかって来ない分に関しては深追いする必要もない。
「まぁ、確かに、彼のいう通りだね」
ホテルマンの言葉を思い返したスウェンが、諦めたような息を吐いてロケットランチャーを担いだ。
「無駄な体力の消耗は、出来るだけ避けよう」
いつ吸血獣達がまた襲って来るとも限らないので、エル達は駆け足で村を横断した。
村にある塔の奥にあったのは、断崖絶壁のような高い岩肌だった。そこには、岩で重ね作られただけの幅のかなり狭い階段が上まで続いていたが、傾斜が高く、階段を上がるというよりは、山肌の岩を登るような勇気と技術を強いられた。
ほぼ両手両足で登るしかない階段の頂上に、先にスウェン、セイジ、ログが辿り着いた。ログは丘の上に辿り着くや否や、膝を折って岩肌の階段へ目を戻した。
そこには、階段をのろのろと慎重に上がって来るエルの姿があった。ログは、彼女に手を伸ばした。
「ほれ、もうすぐだ、クソガキ」
「うるさい……別に、ちゃんと登れるし……」
エルは、どうにかそう言い返したが、内心の余裕は全くなかった。階段を両手で掴みながら、震える身体を心の中で叱咤し続けている。
こんなに高い所まで登った経験はなかった。少しでもバランスを崩したら、真っ逆さまに落ちてしまうだろう。ボストンバッグにはクロエがいるので、手足一つのミスで命取りになる緊張感が、更にエルの恐怖を煽っていた。
エルのすぐ下では、ホテルマンが「私は優秀なホテルマンなので、体力も持久力もないのですぅッ」と胡散臭い涙芝居を行っていた。本音なのか嘘なのか不明だが、彼はへっぴり腰で情けなく階段にしがみ付いている。
泣くもんか、と大きな瞳を潤ませながら懸命に励むエルを、ログは、手を差し出したまま見つめていた。彼は、彼女の下から「怖いですよぉッ」と胡散臭い台詞を吐く声を聞いて、エルの下にいるホテルマンに冷たい一瞥をくれた。
「あれだけ闘っておきながら、情けねぇ醜態を晒してんじゃねぇよ。問題なくいけるだろ。男なんだ、根性見せろ」
ログは辛辣に告げると、エルへと視線を戻して眉間の皺を薄めた。彼は吐息混じりに、「あのな」と言った。
「ここで意地張ってもしょうがないだろ。もう足も完全に止まっちまってるし、そのまま硬直状態が続く方が怖いだろうが。とりあえず手を掴め」
「そッ、別に怖くなんてないし!? というか、い、いいい今、上が見れないから、ちょっと話しかけないで……」
エル達のやりとりを聞いていたホテルマンが、すかさず「えぇぇぇ!?」と声を上げた。
「ひどい! 貴方様は鬼ですか! 小さなお客様との、対応の差が激しすぎませんかね!?」
「うるせぇな。お前は一人でもいけるだろうが」
「私は本来とても気性穏やかで、重労働はテーブルマナーしか知らない世界で一番律儀なホテルマンなのですよ! 体力勝負事にはてんで向いてないのですぅぅううう!」
ホテルマンは、自らの口で「しくしくしくしく」と効果音を上げた。どこから取り出したのか、レースの付いた桃色のハンカチを目元に当てる。
「駄目だってッ、両手でちゃんと身体を支えなきゃッ」
それに気付いたエルは、慌てて振り返り忠告したが、――うっかり視線を向けてしまった先に、ホテルマンの向こうに遥か遠くなった地面を見て眩暈を覚えた。
うぅ、怖がっちゃダメだ。絶対ログに馬鹿にされるもんッ。
エルは、震えそうになる口許を、奥歯を噛みしめて堪えた。それでも放っておけなくて、彼女は震える手を一つ離すと、ホテルマンへ向けて差し伸ばした。
「ほら、こ、怖くないよ。俺が、一緒に引き上げてやるからッ」
語尾が震えそうになったが、エルはどうにか力強くそう言った。
ホテルマンが途端に、ピタリと泣き声を止めて、妙なものを見るような顔をエルへと向けた。
二人の間に、柔らかい湿った風が吹き抜けた。
上の方から、スウェンとセイジが「大丈夫か」と声を掛けても、ホテルマンはしはらく反応を返さなかった。長い沈黙を置いた後、ログが「早くしろ」と急かす言葉を合図に、ようやく手を伸ばし始めた。
ホテルマンは、何度か躊躇するように手を止めたが、恐る恐るといった様子で、まるで壊れ物を扱うように、ゆっくりとエルの手に触れて握った。
「――はい」
どちらとも付かない声色で、ホテルマンがそう答えた。
エルは、彼の手をしっかりと握り返した。彼の手は作り物のようにキレイで、ひんやりと冷たかった。男一人を持ち上げるには厳しい状況であるが、やってみなければ分からないだろう、とエルは自分を奮い立たせた。
上で痺れを切らしたログが、エルの腕をむんずと掴んだ。
彼は「さっさと来い」と一声掛けると、ホテルマンごと、エルを難なく上へと引っ張り上げてしまった。
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