シェリーに最期のおやすみを ~愛した老犬に贈る別れの……~

百門一新

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五章 中年男と青年の海(1)~小男の悩み~下

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 本題を切り出した事で、古賀は、数刻前に見せた追い込まれたからこその勇気、といった感覚が戻ってきたらしい。萬狩の方へ身体を向けると、彼自身が人生最大の悩みとしているらしいその話について、身振り手振り説明した。

「彼女の方が、先に転勤で沖縄に住んでいたんです。しばらくは遠距離だったんですけど、その、ぼくの仕事も落ち着いてきて、こうやって移住出来た事もあって、そろそろ同棲したいって話が出ていて……」
「そんなもの、白状してしまえばいい」

 萬狩は、遠い目で間髪開けずに告げた。頭の中では、恋人なら近くに住んでいた時に家を行き来する事はあるはずで、やはり、それでよくバレなかったなという感想がぐるぐると回っていた。

 すると、古賀が途端に「えぇ!?」と飛び上がった。

「だ、だだだだだって、こんな成りで、あの漫画を描いている同人作家なんですよッ? 『旦那さんは何をしているの』と訊かれるたび、彼女が苦悩するさまを想像すると、ぼ、ぼく耐えられなくって!」

 太った小男が眼前に迫って来て、萬狩は「暑苦しいわッ」と古賀を押し返した。

「落ち着け、『あの漫画』と言われても俺には分からん! というより、お前も気が早いな。普通そこで結婚後の風景を想像するか?」

 全く自信がないという発言と態度をしておきながら、プロポーズを飛ばしてあっさり夫婦生活を想像出来るとは、実に妙な男である。それであれば、とっとと白状して結婚してしまえば良いのではないのか?

 言葉にはしなかったが、つい睨みつけてしまった萬狩に、古賀は怯えたように涙ぐみ「だって」と、実に男らしくないか細い震え声を発した。

「『あの作家さん』は格好良い美青年に違いないとか、自分達と同世代の女の子が描いているだとか、そう思わせるような漫画を、ぼ、ぼくは描いているんですよッ。実際に同ジャンルで顔の良い作家さんは、堂々と表に出ているぐらいだし、女性向けの同人誌やラジオ番組にも出るぐらい人気がありますし!?」

 まるで芸能人並みの扱いだな、と萬狩は思った。とりあえずは、それに近いぐらいに古賀も有名な漫画家の一人なのだろうと推測しつつ、彼を落ち着かせるべく「あのな」と慎重に言葉を紡いだ。

「よくは分からんが、お前の彼女はそういった漫画は読まないという事か?」
「いえ、学生時代から友達同士でコミケに行っていたぐらいだから、多分、そのジャンルも読んでいるんじゃないか、と思ってはいるんですけど……」
「ちょっと待て。すまないが『こみけ』とはなんだ?」
「コミックマーケットです」

 古賀は、そこだけ饒舌に言い切った。

 やはりこの男がよく分からない。萬狩は、なんだか頭が痛くなってきた。思わず額を押さえる彼に対して、古賀は物想いに耽った雰囲気で「ふう」と息を吐き、真面目な顔で話を続ける。

「どうしたものかと思って、ぼく、悩んでいたんです。ぼくはこんな成りだし、特技なんて自炊ぐらいだから、ちょっとでも彼女が誇れるように、ピアノの一つでも出来るようになれたら格好良いかな、なんて思って……」

 とはいえ、ほんの少し思った程度なんですけど……実は引き返すタイミングが掴めなくて、ピアノ教室に通う事になってしまったというか、と古賀は言葉を濁した。

 萬狩は額から手を離し、視線を泳がせる彼を見つめた。

「おい。何故そこでピアノなんだ?」
「仕事部屋を見られそうになった時、散らかっていると言い訳した中で、うっかり口にしてしまったというか……あの、次の作品の題材がピアノ関係という事もあって、咄嗟に出てしまったんです……その、『恥ずかしいけれど楽譜や練習用の電子ピアノもあって、ごちゃごちゃしている部屋だから開けないで』と伝えてしまったんですよ…………」

 古賀は罪悪感にまみれた死にそうな声で、その件に関して細々とした声で説明した。彼女は学生時代までピアノを習っていた経験があり、これまで音楽に興味がないと思っていた古賀が、不器用ながらに自分の影響で始めたようだと自分なりに解釈して、誤解を解く隙間も見付けられないほど喜んだのだと言う。

 あまりにも彼女が喜ぶので、音楽に苦手意識を持っているとはいえ、古賀としても期待に応えたいと思った。そこで電話帳から探し出したピアノ教室にこっそり通い、自分なりに嘘を誠にしようと努力し、どうにか一曲でも弾けるようになるべく練習に励んでいるらしい。

 萬狩は悩ましげに眉を寄せ、頭の中を整理した。気のせいか、言い訳の言葉も饒舌に語れない古賀に対して、恋人が疑う事なくそうだと信じたうえで、自ら余計な仮説を立てたうえで喜ぶ姿が脳裏に浮かんだ。

 まるで、出かける約束があるのだがと告げられた仲西青年が、勝手に都合良く解釈して「散歩にお供します!」とこちらの話も聞かず期待をぶつけてくる姿と重なる。

「……なんだか、知り合いを彷彿とさせる恋人だな」
「え、そうなんですか?」
「いや、こっちの話だ。忘れてくれ」

 脳裏に浮かんだ仲西青年と仲村渠(なかんだかり)老人の姿を、萬狩は、小さく頭を振って打ち消した。すると、古賀が照れたようにはにかみながら、彼女は行動力があり、いつも笑顔で何かを楽しんでいる、小さくて可愛らしい女の子なのだと唐突に話し出した。

 なんだ、悩みの泣き事の次は惚気かと、萬狩はそこに年相応の初々しい若さを覚えた。自分の世界に浸るように語る古賀の横顔を盗み見て、まぁ泣かれるよりはマシかと考え直し、ひとまず彼の話に対しては「そうか」と適当に相槌を打ちながら、しばらくは海を眺めて過ごした。
 

 それから、どれぐらい経っただろうか。古賀の話が落ち着き始めてようやく、萬狩はさりげなく腕時計を確認したところで、既に時刻が午後の二時二十分を回っている事に気付いた。


 萬狩は、そろそろ痺れを切らしているかもしれない仲西青年と、シェリーの事が気になった。この炎天下だ。奴の事だから、小まめに水分摂取を行って勝手に楽しんでいるんだろうが……

 全く、俺は運転係じゃないんだぞ。

 萬狩は、呑気に笑う青年の顔を苦々しく思い起こした。

 最近、こちらに対して仲西青年が、更に礼儀をなくしていっていると感じるのは、気のせいなのだろうか。父親に似ていると言われた件についても、萬狩には不思議でならない。

 あいつ、実際のところは友達なんていないんじゃなかろうか、とも不安になる。もしくは、時期的に余程暇をしているのか、どちらかだろう。

 いつの間にか古賀は話し終えていて、落ち着きなく海の方を見ていた。萬狩はふと、こんな時に仲西がいれば楽だっただろうな、と考えてしまった。古賀と彼は同世代であるのだし、きっと、話し上手な仲西なら、萬狩よりも良い話し相手になれた事だろう。

「――悩みは個人のものだから、俺は、俺が感じた事しか言えないが」

 しばらく考えて、萬狩は、古賀に視線も向けずそう告げた。

「打ち明ける秘密というのは、時には、自分が思っているよりも小さい事だってある。話してみれば案外、これまで感じていたほど大きな問題じゃなかったと、そう思うかもしれない」

 よく分からないが、恐らくはそういうものなのだろう。

 萬狩は、古賀の視線が遠慮がちに、自分の横顔に注がれているのを感じながら、そう独り言のように話した。

「俺は、誰かに相談されるような柄じゃないんだ。それぐらいしか思いつかないし、言ってやれない」

 思い返せば、息子達からそういった相談を聞かされた事もなかった。そういった内容について頼りにされない性格である事は、萬狩自身がよく知っていた。だから今回、理髪店で古賀に懇願された時も、強い困惑を覚えたのだ。

 言い終えた後で、萬狩は自分の言い方がきつくなかったか気になり、古賀の様子を盗み見た。

 古賀は特に困った様子もなく、何かを考えるように空を見上げていた。悩みについて思うところでもあったのか、やはり解決しなかったかと軽い気持ちで諦めを実感しているのか……今日の晩御飯について呑気に考えているような顔にも見えるし、どこかスッキリしたようにも思える、そんなどちらとも掴めない表情だった。

 その時、萬狩は「おぉい」と、なんとも能天気な青年の声を聞いた。肩越しに振り返れば、向こうからシェリーを連れた仲西が、こちらに向かって手を振りつつやって来るのが見えた。

 手を振っていた仲西が、視線が合った途端にこう叫んだ。

「萬狩さーん、もうお話は終わりましたか? 向こうの売店にカキ氷がありましたよ! 美味しかったので、今度は一緒に食べましょうよ~!」

 彼は二回目のかき氷を食べるつもりでいるらしい。その事実を隠すような台詞は選べなかったのだろうかと、萬狩は、欲望に素直過ぎる仲西を思って心底呆れた。随分距離がある彼に叫び返す気力は湧いて来ず、半眼で見つめ返す。

 すると、古賀が仲西青年の方へ顔を向けながら「知り合いですか?」と若干怯えたような声で訊いた。人見知りらしいと察した萬狩は、「――俺の知り合いだ」と不満げに答えた。


 その時、防波堤の方から、賑やかさとは違う種類の声が聞こえたような気がして、萬狩と古賀は同時に目を向けた。


 先程まで釣り竿を持っていた少年達が、揃って地面に手をつき、海の方を覗き込んでいるのを見て、古賀が不思議そうに首を傾けた。

「釣り竿を魚にでも持って行かれたのでしょうか?」

 萬狩は彼に答えず、眉間にぐっと力を入れて防波堤を凝視した。彼は本能的に、ほぼ無意識に、防波堤に立っている子供の人数を確認していた。一人、二人、三人……全員で四人いたはずだが、そこには三人しかいなかった。

 つまり、一人足りない。

 そう気付いてすぐ、萬狩は夏バテによる倦怠感と疲労感も忘れて、ハッとして立ち上がっていた。

「……落ちたんだ」
「え?」
「恐らく、子供が海に落ちてしまったんだ――と思う!」 

 萬狩は、言い終わらないうちに走り出していた。
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