シェリーに最期のおやすみを ~愛した老犬に贈る別れの……~

百門一新

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五章 中年男と青年の海(1)~小男の悩み~上

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 萬狩は遅い昼食の後、支度を済ませた仲西青年と老犬シェリーを乗せて、小男と約束していた海岸まで車を走らせた。

 目的地の駐車場に車を停めたところで、後でビーチ前で落ち合う事を確認し、萬狩は、シェリーのリードを握った仲西と別れた。萬狩は防波堤のある北方向へ、仲西は、木々の並ぶ遊歩道の南側へ向かって歩いた。


 ビーチは、左右に海浜公園と海岸沿いが連なっていた。萬狩が向かった先は、仲西の言う『散歩にうってつけ』らしい公園側の反対側に位置しており、浅瀬の海を拝める防波堤が設けられていた。


 青く深い海側へ向けてせり出した防波堤の上には、夏休みを楽しんでいるらしい十一、二歳ほどの少年が四人いて、暑い日差しが降り注ぐ中、帽子を着用して釣りを楽しんでいた。

 それは都心区内である内陸地の他県では考えられないほど長閑で、萬狩には、どこか馴染めない光景でもあった。けれど考えてみると、近くにはゲームセンターもカラオケ店もない場所だから、自然の中で楽しむのが、ここの少年少女達にとっては普通の遊びなのかもしれないとも思えた。

「……元気なものだな」

 照りつける日差しを手で遮り、萬狩は目を細めた。

 歩き出してまだ数分だというのに、既に汗も浮かび始めており、萬狩は早々に疲労感を覚えた。防波堤の先までは距離があるので、釣りを楽しむ少年達の会話は拾えないが、そこからは一際高い興奮した様子や、歓声の賑わいが潮風に乗って流れてきていた。

 そんな防波堤の眺められる歩道の中腹に、屋根とベンチがついた休憩所があった。

 休憩所には、先程理髪店で偶然会った、例の小男が腰かけて待っていた。彼は萬狩に気付くと立ち上がり、おどおどと視線を、何度もあちらこちらへそらしながら「今日は、その、すみません」とまずは謝った。

 互いに初対面のようなぎこちなさで会釈し、「萬狩(まがり)だ」「古賀(こが)です」と自己紹介をした。向かい合わせに座るのは何となく憚れ、それぞれ海側を向いた状態で腰を落ち着けた。

「あの、失礼ですが、貴方はどうしてピアノを……?」

 古賀が、しどろもどろに口の中で言った。いつ本題を語ろうか、どのように話せばいいのか分からないでいるように、自身の手元を見つめる眼差しには落ち着きがない。

 萬狩は、そんな彼を一度だけ横目に見て、視線を前へと戻し「数か月前に引っ越した家に――」と切り出した。

「立派なピアノが付いていた。調律もされていたものだから、一曲ぐらい弾いてみようと思った。……それだけだ」
「そう、なんですか……ご自宅にピアノが…………」

 そこで、会話は途切れた。

 萬狩は他に話題も思いつかず、黙ったまま海を眺めた。海は空の色である、というキャッチフレーズはよく耳にしていたが、浅瀬から奥へと向かって、青が作り出すコントラストが水面のヴェールにも見えるような、こんなにも深く美しい青を、彼は沖縄に来るまで知らないでいた。

 それを眺めていると、暑苦しい日差しも水面をより輝かせる素敵なものに思えてくるのだから不思議だ。潮風は生温かかったが、それを心地良くも感じるのは、きっと自分が汗をかいているせいだろう、と萬狩は思った。

「君は、いくつだ」

 気付けば景色を目に収めたまま、萬狩は、水面の波が流れるままに、吐息代わりのようにそう訊いていた。

 古賀は、何度か萬狩の横顔を盗み見た後で「……二十四です」と答えた。途中、少しだけ言葉が舌足らずになっていて、緊張しているのか、それとも会話に慣れていないのかと、萬狩は他人事のように考えてしまう。

「実は、その……僕は漫画を書いておりまして」
「ほぉ。漫画家というやつか?」
「まだまだ有名ではないのですけれど、あの、二つの連載を持っていまして、定期的に出している単行本もあって……」

 ですが、どちらかと言えば同人の方の仕事がメインというか……、と古賀が口ごもった。萬狩は聞き慣れない言葉に「なんだって?」と彼の方に顔を向けて訊き返していた。

「俺は漫画を読まないから、よく分からないんだが」
「――そ、そうですよねッ。なんというか、その、女性向けの小奇麗な感じの漫画、といいますか」

 慌てたように語る彼が、萬狩には不思議でならなかった。まるで、己の職業を恥じているように感じてしまう。

「出版もされている漫画なんだろう? 漫画家になれる人間は一握りだと聞くし、仕事としてやれているそれの、一体何が問題なんだ?」

 萬狩が不思議に思って尋ねると、古賀は、太く短い腕を組んで「うーん」と悩ましげに首を捻った。

「漫画を読む人なら知っている事なんですけど、その、男性である僕としては、あまり声を大にして語れるようなジャンルでもないと思うんですよ。だいたいの人が、大手の少年少女雑誌の漫画家を目指しながら、ぼちぼち書いてこっそり出しているような漫画でもあるというか……だから、ペンネームも二つ持ちでして……」
「隠さなければならないものなのか?」
「隠すというか……ぇと、ぼくは男性ですし、ぼくらの世代だとあのジャンルは、その、恥ずかしさもあるというか……」

 でも本職として食べていける作家さんの数もまた少ないんですよね……、と古賀は死んだような声で続けた。組んだ腕を解いて項垂れ、重い溜息を吐く。

「女性読者の好みはハッキリしていて、続けて出版出来る人は限られてくるように思います」
「なんだ。君は売れないから悩んでいるのか?」

 萬狩は、切羽詰まったような先刻の出会いを思い出した。しかし、古賀は更に沈んだ声で「違います」と両手で顔を覆った。

「……僕、同人作家としては五年目なんですけど、持っている正規の連載漫画よりも、同人の雑誌と単行本の方が、すごく売れているんです……はぁ」
「お前、内容と表情が噛み合っていないぞ。その仕事は、そんなにきついのか?」
「いいえ。ファンの人も情熱的な方が多いし、そちらの方面で世話になっている出版社からは、次は何時頃原稿が仕上がりそうかという嬉しい催促もありますし……ぼくは漫画を描くのが好きなので、漫画のお仕事を頂ける事は、本当に嬉しくもあって…………」

 そのジャンルの世界では、それなりに名前が売れている作家であるという事なのかもしれない。好きな仕事で収入もあるというのに、一体彼は何の理由があって、土砂降りに打たれた子犬が崖の上に立たされたような、悲愴たっぷりの表情をしているのだろう、と萬狩は訝った。

 漫画家という職業についてはよく知らないが、つまり手に職の仕事だ。同じ世代の若者にとっては、羨ましいと言われるような職業なのではないだろうか?

 そう萬狩が考えているそばで、古賀は、口の中でもごもごと話を続けた。

「まだ若いから、頑張れば今持っている少年向けの雑誌の連載でも、いつかは食っていけるようになりたいなと……」
「台詞だけは前向きだな」

 萬狩は、何だか彼が分からなくなってきた。互いに同じ言語を話しているはずなのに、仲西や仲村渠(なかんだかり)のように、会話のキャッチボールが噛み合わないでいるような気がする。

 不意に古賀が顔を上げた。彼はまるで、会社をリストラされたサラリーマンのように、遠い目で海を眺めた。


「――実は、同じ場所で描いているんです」


 唐突に、古賀はそう言った。

 前後の脈絡に話が見えない切り出しに、萬狩は思わず「は?」と間の抜けた声を上げた。しかし、数秒で漫画の事だと思い至り「そうか」と相槌を打った。

「まぁ、ペンネームを使い分けているとはいえ、そうなるだろうな」
「それが問題なんです」
「よく分からないな。整理整頓が上手くできないのか?」

 尋ねてみると、古賀は、やんわりと首を左右に振った。

「ちゃんと棚も分けています。でも、同人の方の仕事が圧倒的に多いから、その原稿や資料や見本の漫画が沢山ある部屋なんです」
「仕事部屋とはそういうものだろう」

 萬狩の書斎もオフィスも、会社が落ち着くまでは収拾のつかない場所だった。そんなものは、時間が出来るまでそのまま使ってしまう方が効率もいいと、経験から実感していた。

 すると古賀は、途端に泣きそうな声で「それが駄目なんですぅ」と再び両手で顔を覆った。

「実は、ぼく、付き合っている子がいるんですけど、その子には同人の事は隠してあるんですよッ。それが今回ご相談したかった、ぼくの人生最大の悩みなんです!」
「――は」

 なんだそれは。実にくだらん悩みじゃないか!

 萬狩は一瞬、表情筋が引き攣りそうになった。けれど、あまりにも古賀の激しい落ち込みようを見て、ひとまず酷な言葉は掛けられないと譲歩したうえで、とりあえずは、アドバイスにも聞こえる無難な言い回しはないかと探した。

「……あ~、なんというかだな。信頼し合っているのなら、白状しても問題ないだろうに。付き合って一年ぐらいか?」
「いえ、六年です」
「それでよくバレなかったなッ」

 顔を上げてきっぱりと答えた古賀に、萬狩は、思わず声を荒上げそうになった。

 こちらへ移住してからというもの、どうも冷静さを欠かせるような輩が多いような気がして、萬狩は「なんだかなぁ」と項垂れた。
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