好きだ、好きだと僕は泣いた

百門一新

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 二人の夏休み最後の二日間は、特に変わりもなく過ぎていった。

 彼方はいつものように絵を描き、写真集に関して仕上がりを待つばかりとなった恵は、いつものように勝手なお喋りを楽しみ、唐突にシャッターを切っては時々ふらりと出ていった。それから戻ってくると、写真部としての活動として新しい写真を撮ったと自慢しては、彼に見せてきた。

 普段、恵は「親の迎えがあるから」と言って、彼方よりも三十分前に出て行く。しかし、夏休み最後の日、新学期のために美術室の床の掃除まで手伝い、初めて下校時刻に一緒に美術室を出る事になった。

 正門に辿り着くまでに、互いの家が反対方向にあるのだと分かった。途中まで歩いて帰る事は出来ないらしいと察して、彼方と恵は正門を出たところで立ち止まり向かい合った。

「ねぇ、今度会うのは、お互いがちゃんと作品を仕上げてからにしない?」

 少し申し訳なさそうに微笑んで、彼女がそう言い出した。

「九月から自分の部室でやるわ。もし放送部の人達がまだ使うようだったら、他に仮部室を探してそこで集中する。ほら、だってどんな作品に仕上がるのか、秘密にしていた方が楽しみも大きいと思うの」

 学校が始まったら、それぞれの場所で真面目に取り組む。部活動が出来ないテスト期間や、それまでの勉強時間も含めると、交換する作品作りに取り掛かる時間は少なくもあった。

 どんな作品が完成するのか、分からない方が確かに面白いだろう。彼方は提案を受け入れる事を伝えるべく、無表情ながらしっかり頷いてみせた。

「分かった。僕も頑張るから、君も頑張れ」

 そう答えたら、どうしてか恵が一瞬だけハッとした。目元を少しだけくしゃりとすると、そうしてしまった事を隠すみたいに「にしししし」と唐突に笑った。

「うん。私も頑張るよ」

 そう答えた彼女が、だから偵察するのも無しだからね、と冗談のように口にしてきた。

「いつも部室に突撃してきたのは君だろう。僕は、そんな事はしないぞ」
「いや~、もしかしたら『写真部』の方を覗きに来るんじゃないかと思って」
「僕はどれだけ信用がないんだ?」

 顰め面を返してやったら、彼女が続く説教から逃げるような自然さで「じゃあまたね!」と元気よく手を振って、パタパタと小走りで去っていった。

             ※※※

 日曜日を挟んだ翌日、月曜日に新学期が始まった。

 夏休み明け初となる授業を受けている間も、彼方の頭の中には絵の構図の事が大半を占めていた。いつものような気分気ままな走り描きではなく、きちんとした作品とするなら、そこから考えなくてはいけないと思っていた。

 ふと、二組にいるらしい恵を思い出した。会いに行ってみようか、なんて、らしくない事を考えた。我に返って頭からそれを追い払ったものの、作品のモデルであるせいか、気付くと彼女と過ごした日々を思い返したり、『今何をしているんだろう』と想像したりした。

 その日、作品の構図が彼方の中でようやく固まった。学校の帰りに新しい材料と、いつもは買わない高価な画用紙を購入した。家に帰るとすぐに描き出しにかかり、自分が知っている彼女を描こうと、いつも以上に丁寧に時間をかけて下絵の作業を進めた。

 九月の第一週目は、そうやって過ぎていった。第二週目から天気が曇りがちになり、時々雨も降るようになった。

 その頃から、彼方の顔色も曇り始めた。唇を引き結び、正面を見据えて押し黙っている事が増えた。中間テストが終わるまではと部活動の休みを伝えたきり、担任兼美術部顧問の尾のはどこかよそよそしく、ここ数日は廊下でも写真部顧問の秋山さえ見かけていない。

 教壇に立つ担任でもある小野を、時々観察するように眺めた。ぎこちない作り笑いで授業を進行する様子を、しげしげと見つめて、時折ふっとその固い表情から力を抜いた。

 まるで何かを悟り掛けているような目だった。普段他人を拒絶しているものとは違う、年頃らしい少年の柔らかな双眼に諦めにも似た雰囲気を浮かべる。その頃には呼び留めようという意思もないように、彼方は教室を出ていく小野を目で追う事もなくなった。

「どうしたんだ? その、なんだか顔色が悪いな」

 第二週目の金曜日、小野が気遣うように声を掛けてきた。
 彼方はそちらを見ず、余計な事は何も考えるまいとするような固い表情で「別に」とだけ答えた。ただただ学校以外は部屋に閉じこもり、時間のある限り絵を描き続けていた。

 第三週目のテスト前から、ぼんやりと座って外を眺めている事が多くなった。それでも、気付けば彼の耳は教室に溢れた人の声を聞き、その目は自然と彼らを追ってもいた。

 そこに、たった一人の女子生徒を捜そうとしている自分に気付くたび、くしゃりと目を細めた。無関心とはいえ、同じ学校で過ごす少年少女の声を聞き分けられないわけではない。

「宇津見さんが二組なのは、知っているかな」

 テスト前日、校舎から出ようとしていたところで二組の担任であり、写真部顧問でもある秋山に声を掛けられた。口調にはためらいが滲んでいて、どこかぎこちなかった。

「――知っていますよ。彼女は、二年二組の生徒なんでしょう」

 彼方は一度立ち止まって、表情も向けないままそう答えた。物言いたげな秋山が、決心でもしたかのように口を開こうとした時、その続く言葉を拒絶するように歩き出していた。


 二組には恵がいる。

 きっといつものようにカメラを首からさげて、唐突にシャッターを切っては「にしししし」と笑う彼女がいるのだろう。ちっとも大人しくなんかなくて、元気たっぷりな女子生徒。


 彼方は歩きながら、ずっと想像している『彼女のいる光景』を思った。実は九月の第一週にでも、何度か会いに行く事を考えたりもしていた。

 しかし、第二週に入った頃から、じわじわと足元から込み上げる予感と思いがあった。だから、会いに行こうとはしなかった。


――二組には恵がいるだろう。しかし、僕は、そこへ行ってはいけないのだ。


 その日も、その後日も、彼方は胸を締め付ける予感を振り払うように一層絵に力を入れた。

 ろくに睡眠も食事も取れなかった。何かに追われるかのように、テストが始まっても黙々と描き進めていた。勉学に関しては今だけ手を抜いてしまっていいんじゃないかと、精神的な疲労感に負けそうになった。そのたび、自分が恵に言った言葉が彼を突き動かしていた。


――『わかった。僕も頑張るから、君も頑張れ』


 今になって思うのは、何気ないその言葉は、彼女にとって意味があったのではないだろうかという事だ。それを思い出すたび、胸の中に巻き起こる台風のような荒々しい感情と気力に突き動かされて、彼方は前を向いた。

 だから、睨みつけるようにして一心に絵や勉強にあたった。でも本当は、彼自身が一番、その言葉がどうしようもなく意味のないものだとも知っていた。たとえ自分達が頑張ったとしても、努力や行動だけでどうにかなってくれない事もあるとは分かっていた。

「彼方、大丈夫か?」
「いつもの中間テストだし、あんまり根を詰めるなよ」
「勉強を頑張り過ぎたりしてない? 平気?」

 テスト最終日の前日、クラスメイトや科目担当教師にたびたび声を掛けられた。彼方はいつものように「別に」と返しただけだった。でも普段と違って、少し苦しそうな表情を浮かべて彼らを見つめていた。

 きっと僕は、彼女と過ごした中で覚えた違和感の正体が、なんであるのか気付き始めている。

 それでも捻くれ者の僕は、そうだと認めたくないのだろう。

 彼方は、そんな事を思った。
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