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(最終話)そして、その小説家は

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 八月の中旬、午後四時前。柳生は軽装のシャツとスラックスのズボン姿で、慣れない真っ赤なカジュアル帽子をかぶって町を歩いていた。

 東京の中心街は、夏休みを過ごす若者達で賑わっている。地面からは少し傾いた日差しの熱が漂い、それぞれ向かう先の違う群衆の熱気が、蒸し暑さを増幅させているようで余計に暑かった。
 そもそも、赤い帽子は柳生の私物ではなかった。赤い色の、しかもカジュアルな帽子なんて経験がなかった。岡村から「人混みに溶け込みつつ、さりげなく目にとまる」と自信たっぷりに推薦されて、渋々拝借したものだ。

 帽子を借りた当初の予想通り、家を出てすぐに後悔した。
 人混みに溶け込めるどころか、ショーウィンドウに映った自分の姿は、恐ろしくカジュアル帽子の似合わない仏頂面の中年男だった。

             ※

 事の発端は先々週になる。
 その日、柳生が例のW出版社の応接間で一人考えているところへ、岡村がひょっこり顔を覗かせた。

「どうしたんすか、先生? 暇してるんすか? 僕、チョコパイを持っているんですけど――」

 そこで、岡村はだぼだぼのジーパンのポケットに手を突っ込み、がさごそと探った。

「食べます?」
「菓子は要らんぞ。暇をしているのは、お前の方だろう。私は打ち合わせで来ているんだ」

 柳生は小さく舌打ちしたものの、自分より若い者の意見を聞きたいところではあったので、さりげなく尋ねてみた。

「待ち合わせをしようと思っているのだが、お互いが長らく顔を見せてなくてな。それで、何か目印になるものを身につけようかと考えているんだが……」
「人混みでもお互いが分かりやすいとなると、あまりそこら辺の人とかぶらない服とかがいいですよねぇ。あ、そうだ。赤い帽子とかどうですか? 僕のを貸してあげますよ」

 岡村はそう提案して、嬉しそうにへらりと笑った。
 一体何が可笑しいんだか、と柳生もつい苦笑をこぼしてしまった。全く、お前といると自分の悩みなんて、ちっぽけに思えてくるよ。

             ※

 そして本日、待ち合わせ当日。

 打ち合わせがあった柳生は、待ち合わせの予定時刻の前にと、原稿を携えて出版社を訪れた。次は一泊二日の船旅の取材をしてみないか、と女編集長である曽野部は言った。
 費用は出すというが、予算はいつもよりかかってしまうだろうし、例の億劫な気持ちが彼の頭をもたげた。いつも通り乗り気ではない柳生の反応を見て、考えておいてと彼女が言ったそばから、岡村がやってきて赤い帽子を彼に手渡した。

「何それ?」

 曽野部が片眉を持ち上げると、岡村は「僕のを貸してあげる約束をしていたんですよ~」と答えた。彼女はよく分からなそうな表情を浮かべたが、勝手に入ってきた彼のニコニコとした笑顔を見て、詳細を聞かないまま正面玄関まで柳生を見送った。
 じゃあな、と柳生が踵を返した時、岡村がふと陽気な声でこう言った。

「先生、いってらっしゃい」

 柳生は思わず、足を止めて彼を振り返った。相変わらず、ぶん殴りたくなるような頼りのない、へらへらとした笑顔がそこにはあった。

 人生、難しいことなんて一つもないと鼻唄混じりに謳歌しているようなこの男は、しかし時々、その小さな丸い瞳に辛抱強い優しさが見える時があるとも柳生は知っていた。小説を書きたくなったら、いつでもすぐ相談してください、と言うのが彼の口癖だった。

 見つめていると、岡村が遠慮がちに微笑んだ。いってらっしゃい、なんて言われるとは思っていなかったから、柳生はこんな時になんと言えばいいのか分からなくなってもいた。
 すると曽野部が小さく微笑んで「そうね」と岡村の頭髪を乱暴に撫で、こちらを見て「いってらっしゃい」とニッコリ笑った。

 詳細を一切尋ねない二人に向けて、柳生は赤い帽子をしっかりとかぶってから、ようやく返すべき言葉を思い出した。それを口にするのは、実に十年ぶりでもあった。

「――いってきます」

 柳生は踵を返して、そのまま待ち合わせの場所へと向かった。


 足取りは重くもないし、軽くもなかった。亡き元妻の、現在の夫と会うという実感は、ぼんやりと流れる夏の雲のようにふわふわとして頼りない。

 待ち合わせ場所へと向かいながら、どうなるんだろうなぁと心の中で呟いたのは、一度や二度ではない。二人の死が現実のものとして彼の中に収まった後、世界の方がひっそりと息を潜めてしまい、まるで水の中からぼんやりと外の世界を眺めているような感覚が、柳生の中では続いてもいた。


 考えることを少しやめて、ゆっくりと歩いた。見慣れた一つ一つの風景が、今日はなんだか味気なく佇んでいる。町の大気に覆われた薄っぺらい青空、照った日差しに晒される密集した建築物、どんなドラマよりも安っぽい大勢のキャスト――そんな風に見えた。

 肌を焼くような夏の強い日差しと、肺に重く感じる熱気だけが忌々しい現実として襲いかかり、柳生を疲弊させて苛立ちを覚えさせた。歩くごとに全身から噴き出す汗が、衣服を肌に張り付けつせて心地悪い。

 俺は一体何をしているのだろうと、自嘲気味に苦笑をこぼして帽子の鍔に触れた。俺よりも十以上若いらしいあの男も、手紙で待ち合わせの約束をした通りに、真っ赤な帽子を頭に乗せているのだろうか?


 待ち合わせの時間よりも早く、柳生は東京タワーが見える広場のベンチに辿り着いた。平日の日中とあって、周囲にも人の姿はまばらだった。


 見慣れてしまった東京タワーが、古い友人のように腰を降ろして聳え立つ様子を、腰かけたベンチから眺めた。同じくらい俺も歳を取ったのだなと、そう思う。

 あの頃、妻と見た東京タワーは壮観で美しかった。真っ昼間だというのに、ここには恋人達の姿が絶えなかったのを覚えている。皆、自分の世界に夢中だったのだ。
 若い彼が恋人達を一瞥していると、妻が可笑しそうに笑って「さっきまで、あなたもそうだったじゃない」とし指摘した。――その時の柔らかなキスの味は、もう覚えていない。

 熱気を孕んだ風が柳生の頬を打った。思い出した鮮明な過去は途端に風となって、遠くの向こうへと飛ばされていく。

 あの時、お腹にいた娘が生まれてからの長い年月が、吹き抜けた風と共に脳裏を駆け巡った。家を出ていった日に見た、苛立ちと静かな怒りを宿した妻の非難の目を思い出して、そっと目を閉じた。
 今更、彼女を深く愛しているということに気付いても、もう遅いのだ。彼が失望させ、そして不幸にしてしまったから。

 そっと目を開けて、柳生は腕時計に目を向けた。いくらか時は進んだが、待ち合わせの時刻までは、まだ時間があった。手紙の差し出し人が本当に来るのか保証はなかったが、あの手紙の内容のすべてが嘘だとも思えなかった。

 ベンチに両手をついて、緊張を解すように大きく息を吐いた。不意に煙草が欲しくなり、ポケットから携帯灰皿を探し出して、胸ポケットから煙草を一本引き抜く。
 安物のターボライターで火をつけ、煙を深く吸い込んで夏空に向かって吐き出した。だいぶ歩いた後の煙草は、時間の流れさえ忘れさせてしまうくらいに美味だ。

 しばらく、煙草の煙が空中に広がっては、消えてゆく様子をぼんやりと眺めた。実際に会ってどうするのかも思い浮かんでいないくせに、こうしてココに腰かけ、時刻を確認する自分がいることを、他人事のように考えてみる。

 煙草を再び口にくわえ、深く、深く吸いこんだ。人差し指と中指の間に挟んだ煙草のフィルターが熱くなり、とうに短くなっているのに気付いて、ようやく携帯灰皿に押し込んだ。

 その時、名を呼ばれたような気がして、柳生は帽子の鍔の下にある視線を動かせた。
 三十代半ばを過ぎたくらいの男が、こちらに向かって歩いてくるのが見えた。清潔なシャツとズボンを着た、品の良さそうな青年体躯の男だった。やや撫で肩で、人の良さそうな彫りの深くない顔に、少し垂れた優しげな瞳をしていた。

 男は革の鞄を持ち、柳生と同じような赤色の帽子をかぶっていた。そこからは癖のない髪が少し覗いていて、太陽で焼けてしまったというよりは、その白い肌と同様に生まれつきそういう髪色なのだろうと思わされる、茶色混じりの黒だった。

「柳生先生ですか……?」

 男が名を尋ねてきた。
 文学誌に時折顔は出しているから、もしかしたら『柳生林山』の顔は知っているのかもしれないと推測しながら、柳生はややあって頷いて見せた。

「君が手紙をくれた『藤森(ふじもり)』か?」

 そう尋ね返すと、亡き妻の現在の夫――藤森(ふじもり)カナメが小さく頷いて、柳生の隣に腰を下ろした。

「このたびは、大変申し訳ございませんでした……」

 ベンチの脇に鞄を置いたところで、藤森が唐突に頭を深く下げてそう告げた。柳生は「もういい」と、彼の残りの謝罪の言葉を遮った。

「俺は怒ってはいない。一通目の手紙は、確かに妻が書いたものなのだろう。君は、やりとりした数通の手紙だけで、もう十分に謝っている。――不慮の事故なのだから、どうしようもない。運転手が俺であったとしても、未来は変えようがなかっただろう」

 想像して、柳生は途端に口を噤んだ。たとえ離婚していなかったとしても、妻と娘と自分の三人で、仲良くどこかへ行くことはなかっただろうと思わされたからだ。二人は互いを名前で呼ぶことも、まともに顔を合わせて話すこともなくなった状態で、夫婦生活に幕を降ろしたのである。

 重々しい沈黙に耐えかねたのか、藤森が身じろぎしてこう切り出した。

「あなたにお渡ししたい物があるのです」

 柳生は、こうして会うことになった目的を思い出し、彼の方へ顔を向けた。泣き顔で微笑む藤森と目が合った時、不意に、最後の時まで家族として触れあい、妻に愛され娘に慕われた歳若い彼が、一瞬とても羨ましく感じた。

 藤森は帽子を取ると、汗ばむ髪に空気を入れるように髪をかき上げて鞄を引き寄せた。柳生は、腹が重くなるような息苦しさを覚えて視線を落とした。

「…………あいつは、俺を怨んで、憎んで死んでいったのだろうか」

 思わず、ぽつりと言葉がこぼれた。
 藤森が弱々しく首を振って、「私には分かりません」と素直な気持ちを口にした。

「彼女は、あなたのことを多くは語りませんでした。けれど、手紙にも書いたように、私には彼女が、あなたを心の底から嫌っていたとも思えないのです」

 藤森はそう言って、亡き家族への深い愛が見てとれる潤んだ瞳を少し細めて、鞄を開けると中を少し探った。

「ようやく部屋を片付けられた時に、彼女の古い荷物の中から見付けた物があったのです」

 鞄の中から取り出した物を、彼は柳生に手渡した。それは茶色く色褪せ、表紙のすっかりくたびれた一冊の本だった。

 柳生は、表紙にこびりついた埃を指でこすり落とした。すっかり薄くなった印字に見入り、忘れかけていたその本の題名を口の中で呟いた。ずっと大事に持っているわねと告げた若き日の妻の姿が、鮮明なままに彼の両眼を貫いた。


――『愛しい二人の静かな夜明けに』


 それは柳生が学生時代に書き殴った小説の中で、デビュー作とは至らなかったものの、初めて地方の新人賞を受賞し、記念に一冊だけ本にされた短編小説だった。

 船乗りが、漆黒の海から見る灯台の光のように、彼女は柳生にとって、たった一つの道導だった。自分は小説家になれるのだろうか、という見えぬ未来の不安やもどかしさの中、その一点の柔らかな光りを頼りに彼は進んできた。

 彼女を想って、作品の中に船乗りの遺した言葉として「あの光りを見よ」という一節を入れた。それが大切な事だったのに、自分は明るい未来への歩みに慣れてしまい、光り続けている目印に目を向けることを忘れてしまったのだと気付いた。

「彼女は、きっと、あなたを心の底から嫌えなかったと思います」

 藤森が帽子をかぶり直して立ち上がり、もう一度同じことを言って、東京タワーの天辺を眩しそうに見上げた。柳生は、しっかりと立つ彼の後ろ姿に、彼が経験したであろう人生を思って、それから自分も東京タワーへ目を向けた。

 もう一度、小説を書いてみよう。

 不意に、そんな気持ちが湧き上がるのを感じた。瞼を閉じるまでもなく、女編集長の曽野部や、W出版社で自分の担当編集者をしている岡村や、友人の苅谷、ラーメン屋の店主やアルバイト君や水崎、最近出会った多くの人々の事が思い出された。
 書かなければという衝動に心が震える。俺は、人を書きたいのだ。


 愛していた、世界中の誰よりも君が好きだった。産まれたばかりの娘をこの手に抱いた時、初めて父親になった喜びを噛みしめた。

 その感情が洪水のように、柳生の胸に押し寄せた。


 人と関わり生きていく世界で、今も何処かで起こっているであろう愛の話を、書き続けたいと感じていた頃の自分を思い出した。

 柳生は、涙腺がゆるむのを振り払うように立ち上がった。藤森が彼を盗み見て、しばし戸惑うように間を置き、それからベンチに置いていた鞄を手に取った。

「先生、お忙しい中こうして時間を作って頂き、本日は本当にありがとうございました――」
「藤森君」

 名を呼ぶと、彼が言葉を切って瞬きをした。

 お互い、強い日差しにはうんざりしている。赤い帽子をかぶり続けることの我慢は、そろそろ限界に近いだろうとも思われた。いや、それはただの口下手で社交の狭い自分の言い訳だ。
 けれど、そんな稚拙な理由を一つ作るくらい、今は許される気がした。

 もう一度、君と出会えるのなら、今度は俺の方から歩み寄っていけるだろうか。世界で一番君のことが可愛くて仕方がないのだと、そう娘に伝えられるだろうか。

 柳生は踏み出す一歩を、関わり合うことの大切さを教えてくれた彼女の存在を背中に感じた。来世で会えたのなら、なんて、自分らしくもないロマンチックな言葉だと思った。あまりにもファンタジーで非現代文学的で――

 それなのに信じたくなって、涙腺がゆるみそうになった。

「急ぎの用事がないなら、少し喫茶店で休憩しないか。さすがに暑さでくたくただ」

 立ち止まっていた二人の影が、帽子を頭から降ろした後に並びあい、同じ方向へと足を進め始めた。


                             了
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