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七話 『風来の、猫』
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「……ふへえ」
暑い。
いよいよ7月が目前に迫り、雨の降っていない日は本格的に気温が高くなってきている。
そうなってくると帰宅の道は更なる地獄と化す。
ただでさえ高校からの帰り道はひたすら上り坂。畦道と田んぼの道なき道をひたすら自転車を漕ぎ、運の悪い日は涼しい風すらも吹いてこない。
ダイエットには最適なのだろうが、これが毎日続くとなるともはや一種の何らかのトレーニングなのではないかというのが私の帰路だ。
汗だくになった首筋の汗をタオルで拭いて、私はようやく見えてきた民宿ヤマガミの看板を見上げた。
「はー、着いたー」
これでまだ夏本番でないというのが恐ろしい。考えたくもない。
……かといって、冬になれば冬になったで別の地獄が待っているのが田舎の帰り道なのだが……まあそれは、その時が来たら考えよう。
民宿の駐車場に入ると、お母さんが同年代のご近所さんの女性と話をしていた。
よく立ち話をしている人だ。二人とも村の出身で、中学まで同級生だったという話を以前に聞いた事がある。
そしてその二人の足元には、ポンがいつも通りゴロンと仰向けになって昼寝をしていた。相変らずオジサンのような風体と態度である。
「……へー、それじゃ、この猫その家で飼ってたんだ」
お母さんは、何やら少し驚いた様子でご近所さんと話している。
「あくまで噂だけどねぇ。でもそういう家があった、っていうのは本当だよ」
「ふーん、そっか……。お前も大変な思いしてきたんだね」
「にゃー」
「無責任な話だけどね。この辺りの野良猫は喧嘩が多いし、民宿に避難してきてるのかもよ」
「なるほどねえ」
……どうやら、ポンの話をしているらしい。
その会話の内容が気になりつつも、私はいつも自転車を置いている民宿本館の裏手に向かうため、二人に近づいていった。
「こんにちはー」
「あら、柚子ちゃん。おかえり」
ご近所さんは私に気付くと、にっこりと微笑んでくれた。私も軽く会釈をする。
「暑いのにご苦労様だったねぇ。今日は早かったの?」
「いえ、いつも通りです。……帰宅部なので」
「あはは、そうだったわね。民宿の次期女将だから頑張らないとね」
「はははは……悩み中です」
「あら、そうだったの?愛純。ワタシは決まってるものだと思ってたんだけど」
話を振られたお母さんはフッと笑った。
「悩んでてもいつかはここに帰ってくるもんよ」
「うわー、意味深。……自転車置いてくるね」
母親の嫌な笑顔を見た後で、私は自転車を押しながら民宿の裏手に運んでいった。
――
私が戻ると、ご近所さんの姿はなかった。どうやらあの後に自分の家に帰ったらしい。
もうすぐ夕飯時だし、支度があるのだろう。
私がお母さんの所に戻ると、母親は冷えた紫色の液体の入ったペットボトルを、私に差し出した。
「はいコレ」
「わ、シソジュースだ。お婆ちゃん、もう作ったんだ。……今年もそんな時期かぁ」
「もうペットボトル何本分も作って、量産してるよ」
「あはは、夏がきたーって感じだね」
家の祖母は、毎年この時期になると畑でとれるシソの葉を使ってシロップを煮出し、それを水で薄めたシソジュースを作る。
赤シソの葉で出来た液体は綺麗な赤紫色になり、ウチでは砂糖の他に塩を少々入れて熱中症対策もかねた夏の水分補給の定番になっている。
この辺りの田舎では、麦茶ほどではないが割とポピュラーな飲み物になっている。
キャップを開けて、一口。
シソの味は少々強めだが、程よい甘みと酸味。それに塩味が絶妙に効いた、ヤマガミ特製のジュースだ。
私は子どもの頃から、祖母の作るこの味が好きだった。
「んー……美味しいっ。夏だねー」
「あはは、ばーちゃんにも言ってあげな。喜ぶよ」
「そうだね。あとで……。……そういえば、さっきご近所さんとポンくんの話してたの?」
「……ああ。世間話してたら、コイツがいつも通りやってきてね。それで、この猫の話になったの」
「なにか知ってたの?ご近所さん」
「色々と、噂をね」
母親はそう言うとしゃがみ、呑気に寝転んでいるポンの顎を指先でくすぐる。
ポンは気持ちよさそうに細目になると、いつも通り「うなー」と掠れた声をあげるのだった。
「……この猫ね、元は家猫だったんだって」
「え、そうなんだ。……道理で人慣れしてると思ったよ」
家で飼っていた猫だと分かれば、この辺りの猫らしくなく、人に怖気づかないで近づいてくる理由も納得がいく。
……だが、次の疑問が湧く。
「でも、どうして野良猫になってるの?……捨てられたとか?」
「……んー……。まあ、ここからは噂レベルらしいんだけどね」
母親はそういうと、少し悲しげな目をして、ポンの顔を見つめる。
「……この猫飼ってた家の女の子が、とってもこの子を可愛がってたんだって。まだ小学生だったらしいよ。だからここまで人に慣れてるんだろうけど……でもね。
その家、離婚しちゃったらしいのよ」
「え……」
「元々都会育ちの夫婦だったらしいのよ。田舎暮らしに憧れて南桑村の空き家をリフォームして住み始めたらしいんだけれど……色々と理想とギャップがあったみたいね。思い描いていた夫婦の関係とか、田舎の暮らしとか……。
何年かはこの村に住んでたらしいんだけど、最近になって離婚して、二人とも自分の実家がある都会の方に戻ったそうだよ。
女の子は母親の方が引き取ったんだけど……都会に猫は連れていけなかったみたいね。……どうやら、その家から……出させられたみたい」
「……」
「女の子は泣きながら嫌がったそうだけど……所詮、人間の都合の方が優先されたみたい。
猫は家から出されて、夫婦と女の子は村から出ていって……。……それで、ポンは野良猫になったんだってさ」
「……そう、なんだ……」
ヒドイ話だ。人間の都合で飼われて、人間の都合で捨てられて……。
きっとその女の子の事を、ポンは大好きだったんだろう。それなのに……大人たちに、その関係すら奪われて。
……それなのに……。
「……っと、そろそろ支度しなくちゃね。柚子、着替えて少し休んだら、民宿手伝いしてくれる?」
「……うん、分かった」
お母さんはポンから手を放し、本館の方へと戻っていった。
私は……仰向けからうつ伏せに寝返り、しばらくお母さんのことを見送っていたポンに手を伸ばし、頭を撫でる。
「うな?」
見ていない方向から差し出された自分を撫でる手に少し驚いた様子のポンだったが、やがて気持ちよさそうに私の手に身体を委ねてくる。
「……人間に捨てられたのに……まだキミは、人間の事、好きなんだね」
「にゃー」
「……」
家で飼われていて、急に放り出された外の世界。きっと何度も、危ない事もあったのだろう。
ようやくこの民宿に逃げ込んできて、居場所を見つけたのだろうか。
……母が聞いてきた話は、噂だ。本当にこの猫が体験してきた事とは限らない。
……だけど……。
「……ありがとう。人間を、嫌いにならないでくれて」
「にゃー」
私は、ポンをしばらく、民宿の庭で撫でていた。
――
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