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第四章:かりそめの婚約。その終わり

35:来訪者

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 腕組みをした龍進は、爆薬入りの数多の玉が乗ったビリヤード台をじっと見つめており、睡蓮はその脇で無表情のまま立っている。
 彼女は思う。これはやはり石榴が仕掛けたものだろう。とすると、彼はこの近くにいるのかもしれない。自分が気づかなかっただけで、舞踏会の会場に紛れていた可能性はある。
 どこからか彼の匂いはしないか、彼の声は聞こえないかと、五感を研ぎ澄ます。
 二階から聞こえてくる管弦楽の演奏と、人々の騒めき声はどこか遠くの世界のようだ。風が出てきたのか、窓ガラスがかたかたと音を立てて揺れる。窓の外では、闇に沈んだ庭の木々の影が風に靡いている。
 五分は経っただろうか。小野はなかなか戻ってこない。
 そんな中、二階堂がそわそわと落ち着かない素振りを見せはじめた。

「どうした?」
「い、いえ……、その……。大変お恥ずかしいのですが……」

 青白い顔をした彼は震える声で続けた。

「か、厠に行ってきてもよろしいでしょうか。少々、緊張のあまり……。す、すぐに戻って参ります」
「ああ、構わない。軍人といえど、生理現象にはあらがえないものだ」

 二階堂が何度も頭を下げて出て行くと、部屋には龍進と睡蓮の二人が残された。
 ややあって、龍進が真正面を向いたまま、静かな声で言った。

「睡蓮、助かった。君がいなければ今頃どうなっていたことか。帝国陸軍を代表して礼を言う」
「……いえ。旦那様の婚約者である以上、当然のことをしたまでです」

 そう答えた後、睡蓮はぽつりと付け足した。

「ですが……、旦那様が、直接、白い玉を手にしたときは、驚きました。本当は私が持つべきでしたのに」

 明日か、来週かはわからないが、いずれ、罪人として処刑されるのだから、そういう危険な役割は自分が担った方がいい。
 それに、睡蓮としては、正直、この会場に集った人々がテロの犠牲になろうと、知ったことでは無い。ただ、龍進が傷つけられるのが嫌だった。
 彼は困惑した表情で睡蓮を見やる。

「いや、そんなことはない。危険なことをやるのは軍人の仕事だ。とはいっても、君をここまで巻き込んでおいて、今更かもしれないが……」
「…………」

 二人の間に沈黙が落ちる。
 それからややあって、龍進が何かを言おうと口をひらきかけたとき、ドアがノックされた。
 入ってきたのは小野少佐だった。

「如月少佐、本当に申し訳ない。水原中佐が君にも来て欲しい、とおっしゃっているんだよ。如月少佐の意見も聞いて考えたい、だとさ」

 眉を顰める龍進に、小野が頭を掻いて続ける。

「いやあ、なんか困っちゃったよ。どうも僕だけじゃ信用がないみたいでねえ」
「……わかった」

 龍進はそう答えると、睡蓮を見て言った。

「悪いが、君はここで少し待っていてくれないか。二階堂軍曹もすぐに戻ってくるだろう」

 睡蓮はこくりとうなずいて、部屋から出て行く二人を見送った。
 一人きりになった彼女は改めて、部屋の中を見渡す。
 部屋の真ん中に置かれた、二つのビリヤード台。その上に散乱している下瀬火薬入りの色とりどりの玉。脇には、彼女の背丈ほどの観葉植物が置かれ、窓硝子が風に揺れてガタガタと揺れている。

「…………!」

 そのときだった。窓の外に人影が見えた。
 人影は、睡蓮をまっすぐに見つめていた。
 目をこらし、睡蓮の背筋が泡立つ。彼女がよく見知った顔だった。
 左目に眼帯をした、隻眼の少年。睡蓮を認め、にやりと口元を歪めた。

 ……石榴!

 途端、彼女は窓に向かって駆け出していた。
 窓を開けようとする彼女の眼前で、影は逃げるように、林の奥へ消える。

「うっ……!」

 開け放した窓から、外に躍り出ると、石榴の消えた林へと走り込んだ。彼の匂いは、はっきりと残っている。
 なにかの罠かもしれない、という疑念が一瞬、頭をかすめるが、それでも今は明確な脅威である彼を追うしかない。
 落ち葉で湿った地面は靴のヒールを捕らえがちで、低木から飛び出た枝は舞踏会用のドレスの袖やスカートに引っかかる。
 折角、龍進が仕立ててくれたものなのに、汚したくないのに、と彼女は一瞬ためらう。だが、彼を守ることの方が優先だと己に言い聞かせると、意を決して靴を脱ぎ捨て、スカートの裾を絞ると、狩りをする猫のごとく、獲物目がけて速度を上げた。



 厠から戻ってきた二階堂軍曹は、室内に誰もいないのを見て、困惑した表情で立っていた。

「睡蓮様……?」

 部屋の奥の窓がわずかに開いているが、もしかしたら最初から開いていたかもしれない。
 二階堂は帽子を取り、坊主頭を掻きながら呟く。

「お花摘み、かな……」

 とにかく上官達が戻ってくるまで、自分はこの場を守る任を果たす必要があると、彼は気を引き締め、開いた窓を閉め、その場で直立不動になる。


 
 睡蓮は石榴を追って、林の中を走り続ける。やがて、生い茂っていた木々が急に晴れ、あたりは住宅街に変わった。迎賓館の敷地から出たらしい。
 夜遅いこともあり、人気は無い上、ガス燈もなく、あたりは暗い。
 舗装の施されていない道を、音も無く駆け抜けていくと、やがて、前方にやたらと明るく、野卑た喧騒に包まれた一角が見えてきた。風に乗って、安酒の匂いが漂ってくる。
 飲み屋街だ。新橋駅前に広がるこの繁華街は、鉄道の建設時に集まった作業員向けに飲食店が集まったところから始まったと言われている。
 石榴は、人目につかない裏路地を伝って、街の奥へ奥へと向かっていた。
 残飯やアルコール、排泄物の匂いなどが、雑多に入り交じったこの空間は、先の上流階級が集まった迎賓館でかいだ匂いとは全く異なるものだった。
 ひときわ闇が濃い一角、廃屋と思われる建物の角を曲がった先に、石榴は立っていた。
 その先は、袋小路になっていて、彼はゆっくりとこちらを振り返ると、表情も変えずに淡々と言った。

「悪かったな。ここまで来れば邪魔が入らないと思ってね。あと、には色々都合がいい」
「…………」

 睡蓮は腰を落とし身構える。得物がない以上、体術で対応するほかない。
 それにしても、準備とはなんのことだろうか。
 少なくとも、ここにいるのは石榴だけではない。周囲から複数の視線を感じる。殺気が感じられない故に、睡蓮の同業者ではないだろう。とすると、なんらかの目的で若榴に協力している者たちか。

「ところで、睡蓮、今日はずいぶんめかし込んでいるね。よく似合っている。特に黒髪に挿した白い薔薇がいい」

 彼は揶揄するわけでもなく言った。

「ちょうどいい。これから最大のショウを、帝都の人々にお披露目しようと考えている。ゆえに、君にも是非、役者として、手伝って欲しいと思っているんだが、どうだろうか? その衣装も舞台に映えることだろう」
「……なにを言っているのか、私にはわかりません。だけど、私が、貴方に協力する義理はありません」
「ふうん?」

 彼が初めて表情を変え、口の端を曲げた。

「おまえは、俺と契約を交わし、俺の駒として動く人斬りだったはずだがな」
「かつては、そうでした。ですが、私は一度、旦那様に。だからそこであなたとの契約は終わり、今、私は旦那様との新たな契約の上で、生かされているのです」
「なるほど。それは一理あるな。だが、睡蓮、おまえは咎人だ。おまえは、あの軍人に利用されているだけだ。価値が無くなったら捨てられる」
「……わかっています。私は最後は、旦那様に殺されます。それでいいのです」

 一瞬の間を置いて、
「交渉決裂だな。ただ、どういう結論であるにせよ、俺の計画の中では、おまえをショウの役者として使うことは変わらないんだ」

 直後、睡蓮の眼前から、若榴の姿がかき消えた。

「…………!」

 気配を背後に感じ、振り返ろうとした瞬間、首の後ろに大きな衝撃を受けた。視界が暗転し、意識が急速に遠のいていく。
 最後、意識が途絶える瞬間、なぜか瞼の裏に浮かんだのは、自分に向かって笑みを浮かべる龍進の顔だった。
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