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10. きれいな顔
しおりを挟む「仮眠室は別にあるって聞いたけど、どうしようか。まだもう少しここにいて様子を見たほうがいい気はするけど」
D/S用の救急外来とあって、病室は狭いながらも個室だ。
といっても清潔なベッドに小さなチェスト、それに簡易椅子がいくつか置いてあるだけの小さな部屋。広さは二畳ほどだ。
D/S用の救急外来に来る患者の大半はサブドロップに陥ったSubか、本能が過剰に反応して暴走しているDomあるいはSubだ。そのため、他の患者や付き添い人のグレアやコマンドを迂闊に浴びないように、狭くても個室を設けて対処する病院が多い。この病院もそのようだった。
久慈が目覚めるまで帰るつもりはなかったが、随分と時間も遅くなってきたので仮眠室を借りて一度休もうか悩ましい。ここで蓮哉がじっと久慈を見つめていても、やれることはないのだ。もし仮眠中に久慈の目が覚めたら、呼んでもらえるようにはなっている。
「顔色は悪いけど、久慈さんってかなりのイケメンだよな」
寝ている青年の顔を見ながら、蓮哉は呟いた。
初めて出会ったときも思ったが、久慈はとても華のある容姿をしている。モデル顔とでもいうのか、整った容貌は目を瞑っていても変わらない。
(ほんと、きれいな顔してる……。それに目がきれいだったな。……あの目が潤むところを、もっと見てみたい。この形のいい口が必死に息を吸って、苦しんだところでたくさん甘やかしてやりたい。体じゅう、どろどろになるまで貪ってやりたい……)
久慈の端正な顔を見ていると、そんな歪んだ欲望の芽がむくむくと育っていくを感じて、蓮哉はハッとした。
「……っ。何考えてるんだ、俺は……」
サブドロップしていた久慈を助けたのは、己のDom欲を一方的に満たしたかったからではない。ただただ純粋に、困っているSubを助けたかっただけだ。相手が久慈でなくても助けたと思う……おそらく。
けれど、青白い顔で眠っている久慈を見ていると、どうにも庇護欲や支配欲、それに嗜虐心が掻き立てられて、落ち着かない。
眠っている相手になんてことを考えているんだと、久慈から目を逸らした。
しかし、せっかく逸らした目はすぐに、まるで本能で引き寄せられ、吸い付くように久慈へと向けてしまう。今まで感じたことのない衝動が体の中をずっと渦巻いていた。
「不思議だよな……俺がグレアを出せるなんて」
ざわつく本能をなんとか鎮めながら、蓮哉は久慈を見ては目を逸らすを繰り返しつつ、今夜のことを思い出していた。
——蓮哉はたしかにDomなのだが、欠陥Domだ。
欠陥Domというのは、蓮哉が自分のことを便宜上呼んでいるだけで一般的な定義があるわけではない。
なぜ欠陥かというと至極単純な話で、蓮哉はここ何年かでグレアを自ら意図的に放てたことがほとんどないのだ。
原因を話せば長くなるのだが、端的に言えば心因性のものだ。生まれつきのものではない。
つい数年前までは蓮哉も、何ら問題なくグレアを出すことができていた。だが、ある出来事がきっかけで、蓮哉は「自分の意思でグレアを出す」という行為をろくにできない症状を抱えることになった。
まったくできないわけではないが、苦心を重ねて年に一、二度できればいいほうだ。つまり、今夜はかなりイレギュラーな状況だった。
心因性グレア不全症。
蓮哉に下った病名だ。そういった事情から、今夜難なくグレアを放てた自分の体に何か影響が出てないか、念のため蓮哉も医者の診察を受けていたのだ。
「なんでグレアが出せたんだろう。んー……たとえば、久慈さんがいたから、とか? いやいや、まさか……。でも、そうだな……こんな人が自分のSubだったら、きっと幸せだろうな」
久慈を見ながら、ふと思う。
モデルのようにかっこいいSub。彼と関わるようになって間もないが、サブチーフという肩書きを持っていたので、おそらく仕事の面においても優秀なのだろう。久慈のSub欲がどんなものかはわからないが、こんな人を支配できるDomは幸せだと思う。
グレアがまともに出せない自分など、間違ってもパートナーにはなれない相手だ。
そんな取り留めのない、どうしようもないことをつらつらと考えていると、見つめていた長い睫毛がふるふると揺れる。その睫毛に縁どられた瞼がゆっくりと開いて、久慈が目を覚ました。
「…………ここは……」
「目が覚めましたか。よかった」
「え……と、俺……?」
ぼんやりとしながら、久慈は頭に疑問符を浮かべている。自分が置かれた状況が把握できていない様子だった。口調もビジネスシーンの取り繕ったものではなく、一人称も先日会ったときの「私」から「俺」になっていた。
それに、葉山の自宅で会ったときに見た、意志の強そうな瞳が不安そうに揺れているのを見て、蓮哉はドキリとした。
——このSubをもっと深く知りたい。
そんな想いが胸をよぎる。それは、久しく感じたことのない感覚だった。
先ほど頭に浮かんだ欲望といい、今の感覚といい、久慈を見ているとどうにもしがたい感情が湧いてくる。高ランクが珍しいとはいえ、Subなんて久慈以外に何人も見てきたというのに。
だが、自分の戸惑いよりも何よりも、まずは状況を把握しかねている久慈への説明が先決だろう。
蓮哉はぐっと息を一つ飲み込んで、ベッドに横たわる久慈へと説明をした。
「ここは病院です。久慈さん、倒れる前のこと覚えてます? 『エストレージャ』でサブドロップした久慈さんを見つけて、タクシーで救急外来に来たんです」
エストレージャは、今夜蓮哉が訪れていた神楽坂のスペイン料理店の名前だ。ちなみにオーナーは諸星といって、蓮哉とはちょっとした顔見知りだ。そのエストレージャを偶然、久慈も訪れていた。
久慈は、どうやら会社の同僚たちと仕事上がりに飲みに来ていたようだ。姉と共にカウンターに座っていた蓮哉は久慈の来店には気づかなかったのだが、そのあと一度トイレへ席を立ったときに、奥のテーブル席に久慈らしき人物を見つけた。
偶然ってあるもんだなぁと思いつつ、特に声をかけるわけでもなく、蓮哉はその後も自分は自分で酒や料理を楽しんでいた。なにせ、お互いプライベートの時間である。顔見知りとはいえ、わざわざ声をかけるほどの仲でもない。
久慈のほうは、あの日一緒に葉山の家へとやって来た辻という営業の男と、もう一人別の男と三人で話をしていた。楽しそうに酒と食事を楽しんでいたので、余計な気を遣わせたくもなかった。
そんな中で、サブドロップに陥っている久慈を助けたのは、たまたまだ。
久慈がトイレへ立つ姿を視界の端に収めた何分かあとに、別の客でDomの男がトイレへ向かうのを見た。なんとなく嫌な予感がしていると、僅かにグレアの気配を感じたので、様子を見にトイレへと向かった。そしてそこで、若いDomの男に言い寄られ青い顔をしている久慈を見つけ、助けに入ったのだ。
「——というわけで、今に至ります」
「……そうだったんだ。……っと、いま、何時っ? 俺、……っぅ」
「夜中の三時を過ぎたところです。とりあえず看護師呼ぶので、まだ寝ててください」
蓮哉の話を聞いているうちに寝起きの頭が少しずつ冴えてきているようだが、久慈は砕けた口調を気づく様子もなく、慌てて起き上がろうとした。だが、顔を顰めて頭を軽く抑えてしまう。まだ体の不調が続いているのだろう。
彼にまだ寝ているように伝えつつ、蓮哉はナースコールのボタンを押した。
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