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49. 情けないのはどちらか
しおりを挟む綾春は病院に連れて来られるやいなや、有無を言わさず診察台に寝かされ、医者と看護師数人に囲まれて腹部を中心に診察と処置を受けた。
殴られた箇所はやはり随分と赤くなっていた。おそらくこれから痣になるのだろう。だが幸いなことに、骨折も内臓への影響もないらしい。腹を殴られはしたが、打撲で済んだとも言える。
どちらかと言えば、Subの不安症状から来る頭痛や吐き気などの諸症状のほうを心配されたくらいだった。その症状のせいで、はじめは内臓がやられているのか見極めるのが大変そうだった。
決定的だったのは相当ひどい隈で、年配の女性看護師に「あら可哀想。ちゃんとプレイしなさいねー」なんて母のような眼差しを向けられながら、血圧やら脈やらを測られもした。
「なんか、結局迷惑かけちゃってすみません」
「いえいえ。迷惑なんて思ってませんよ」
蓮哉を助けに入ったはずなのに、こうして世話になってるのは綾春のほうで申し訳なさが募る。
「ほんと、まったくだよ。お前を担いで東雲さんと病院に来るのは、これで二度目って。要らん縁を作るな」
「ははは、ほんとごめんって」
中井にも謝りながら、綾春は病室でベッドに横になりながら点滴を受けていた。投与されているのは、鎮痛剤と強めの抗不安薬だ。蓮哉に会うまでにぐるぐると渦巻いていた不安は、一ノ瀬たちに立ち向かっているときは気にならなかったのに、病院に着く頃には再び症状が表れていた。しかも腹部の打撲との掛け合わせて、それはもう酷い有り様だった。
目眩も頭痛も止まらないし、自傷行為に走ろうとするし、口を開けば不安ごとを呟く始末だった。綾春の自覚以上にボロボロの状態だった。
そこで、蓮哉にケアもしてもらいながら処置を受け、薬も効いてきたところで、ようやくまともな思考になってきて二人と話せるようになったのだ。
「東雲さん……いや、蓮哉さん」
綾春は、蓮哉をあえて下の名で呼んだ。
「あーっと、ごめん。中井には、俺と蓮哉さんのこと、ざっくりと話した。いろいろと俺の悩みを聞いてもらったから。それに……今はこっちの話し方で話したい。いいかな?」
「もちろん」
ベッド脇に置かれた二脚の丸椅子に、蓮哉と中井がそれぞれ座っている。
中井がいる状況ではあるが、綾春は取引相手である陶芸家・東雲蓮哉ではなく、一人の男性——好意を寄せる相手である東雲蓮哉と話をしたかった。
どうせ中井には、もう自分たちの関係性はバレている。バレているというか、綾春から話したし、中井が直接感じ取れなかろうと蓮哉が綾春を傷つけられたことでディフェンスを引き起こしたことも見ているので、今さらだ。中井はNormalだが、D/S事情に詳しいのだ。
綾春は、ふぅー……と息を吐いてから、蓮哉の目を見て言った。
「訊いてもいい?」
傷ついたような黒い瞳で綾春を捉えたままに、男は首肯した。
「どうしてあんなやつ……一ノ瀬さんの言うこと、黙って聞いてたんだ? あんなの、無視して逃げればよかったのに」
一ノ瀬との確執は、すでに聞き及んでいる。
蓮哉にとって、彼はトラウマを植え付けた張本人。まかり間違っても、言葉を交わすどころか顔すら見たくない相手なはずだ。
あの場で出会ってしまったことはおそらく不可抗力だろうけど、律儀に話を聞いてやる義理などなかった。適当にあしらって、目的地に向かうこともできたはずだし、背後には彼の愛車も停まっていたから車に乗ってしまうこともできた。
でも、なんというか綾春の目には、一ノ瀬に詰られている蓮哉がそれを甘んじて受け入れているようにも見えたのだ。
それを責めるつもりはないけれど、単純に気になってしまった。
すると蓮哉はバツが悪そうな表情を浮かべて、口を開いた。
「情けない話だけど……一ノ瀬が目の前にいると思うと、動けなかったんだ」
はっと息を呑んだのは、綾春だった。
(俺……また、訊くことを間違った)
それは一ヶ月前の、あの日。映画を観たあとのこと。
学生時代の話から前職の話になり、退職のきっかけを話してくれたときも、綾春の好奇心から蓮哉につらい過去を語らせてしまった。
「綾春たちが来てくれる前に、一ノ瀬と一緒にいたやつにグレアで挑発されたりもしてた。正直、めちゃくちゃ腹が立った。けど、なんでかな……やっぱり俺はグレアを出せなかった。綾春が来るまで、あんな格下の挑発を、笑って受け流すこともできなかった」
苦々しい顔をして、情けないと下唇を噛み締める蓮哉を見て、居た堪れない気持ちになる。
そんな悲しい顔など、させたくなんかなかったのに——。
「俺が……もっと早く駆けつけてあげられていたらよかったよな」
「そんなことないよ。助けてくれて、ありがとう。もちろん中井さんも。でもまあ……言われっぱなしってのは、堪えたな」
彼に悲しい顔をさせたのは、綾春だ。
不穏な話し声を聞いたとき、すぐに足を動かしていれば。
中井が見てくると言ったときに、綾春も一緒に駆け出していれば。
蓮哉の姿を見たときに、すぐに一ノ瀬を止めていれば。
こうして不躾に「なぜ」と問わなければ。
そうすれば、蓮哉は今、笑っていられたのだろうか……。
(泣かせてごめん)
目の前の彼は、決して涙を流しているわけじゃないけれど。
雨の降る校舎の中で呆然と立ち尽くす少年を、謂れのない罵声を浴びせられて心を打ち砕かれた青年を、自分の過去を今なお背負わんとする男を今すぐ抱き締めてあげられたらいいのに。
けれど、点滴の刺さった左腕は、伸ばしても蓮哉の頬には届かない。
蓮哉とのプレイのとき、彼に頬や髪を撫でられるのが好きだ。それは綾春がSubだからかもしれないけれど。でもあの、ほっとする気持ちを蓮哉にも分けてあげたかった。
「——でも、もう心配しなくていい」
綾春が流れぬ涙を拭ってあげられないうちに、蓮哉は何かを決意したようにきっぱりと言った。意志の強そうな双眸を見ながら、綾春はどういうことかと瞳を向ける。
「自分が何もできない臆病者のままでいると、本当に大切なものを失いかねないってわかった」
「蓮哉さん……」
「俺がもっとしっかりしていれば……グレア不全症なんかじゃなければ、綾春が殴られることもなかったのにな。本当にごめん」
ああ、なるほど、と思った。
先ほど、ディフェンスに陥った蓮哉が敵意剥き出しのグレアを弱めたとき、彼は綾春に「ごめん」と言った。あれは、強いグレアを浴びせてしまったことに対する謝罪だけではなくて、ディフェンスに陥る状況——つまり、綾春がカズキに殴られた状況を作り出したことに対する謝罪だったのだ。
それはよく似ているようで、その質は異なる。
綾春がよく考えもせず、怒りのままに飛び出して殴られただけなのに、蓮哉はその責任すらも負おうとしている。
「待って、蓮哉さん。それは違う」
体を捩り、左腕をなんとか伸ばして、綾春は蓮哉の腕を浮かんだ。
彼の手の熱さに、自分がまだ指先まで冷えていることに気づく。冷たい思いをさせるなと心の中で詫びながらも、綾春はその手を離さずに告げた。
「俺は蓮哉さんのせいで殴られたわけじゃないよ」
「いや、でも……」
自分のせいで、Subが傷ついたのだと思ってほしくない。
その一心で、綾春は蓮哉に言葉を紡いだ。
だが、その言葉をどう受け止めたらいいかわからないとでもいうように、蓮哉は複雑な表情を浮かべる。まるで綾春の言葉を聞けないと、拒否するような態度を示されて、ひどく悲しい気持ちになった。
「なんつーか……」
二人の押し問答が始まりかねない状況を見かねたのか、それまで黙って様子を見守っていた中井が口を開いた。
「二次性を持ってるやつは、DomだろうとSubだろうと大変だな。本能に振り回されて、どっちも窮屈そうだ。そうやって本能に翻弄されてる綾春たちを見てるとたまーに、お前らが可哀想に思うよ」
簡単なことを複雑に捉えがちだ、と中井は呆れ顔で呟いた。
綾春と蓮哉は、何か言いたげな中井を見つめる。
視線を向けられた彼は、よいしょ、と椅子に座り直してから、改めて口を開いた。
「Normalのやつらはさ、たとえば自分の家族や恋人、まあ友達とかも含めて、自分の大切なやつをバカにされたら、言葉や暴力で解決していくんだ。まあ暴力はよくないけどな。でもまあ……そうやって、ごくごくフツーにダイナミクス云々じゃないモノで解決していく。誤解があれば言葉で正す。言いたいことがあれば態度で示す。言葉を尽くす。証拠を突き出す。本能による支配やら何やらじゃなくてな」
中井が話していることは、じつにシンプルだ。
シンプルでいて、二次性を持つ者からすれば耳の痛くなる話でもあった。
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