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50. 本能と理性と心
しおりを挟む二次性を持っていると、どうしても本能に左右されがちだ。
Domとしての欲求。Subとしての欲求。互いに求め、求められていること。プレイ上の役割。
支配して、服従して……そういう主従関係や上下関係のような状況になっていくと、どっちが強いか、偉いか、正しいかという判断が本能に依りすぎて、本質を見失うことも少なくない。
相槌を打つことも忘れて中井の話に耳を澄ます綾春と蓮哉に、気のいい男は言葉を続けた。
「そうやって、フラットに、フツーに考えて……だ。今回の件で悪いのは、東雲さんでもなければ、綾春でもない」
綾春が触れていた蓮哉の手がぴくりと揺れた。
いや、もしかしたら揺れたのは綾春の手かもしれない。
「東雲さんに罵詈雑言を浴びせてたあのイケすかないチビが悪いし、綾春を殴ったクソ野郎が悪い。つーか逃がしちまったけど、普通に傷害罪だろあれ!」
やっぱ警察呼んどきゃよかった! と、中井は頭をガシガシとかいた。せっかくセットしてあるおしゃれパーマが台無しだ。そういえば、身嗜みを整えておいたほうが仕事の信頼度も上がるし、女の子にもモテるだろ、と飲みの席で辻にアドバイスしてたことを意味もなく思い出す。
この友人は、本当に面倒見がいいやつなのだ。
「過去に何があったかは知りませんが、少なくとも今回、東雲さんは悪くありません。もちろん、綾春も悪くない……って言いたいけど、お前は、もうちょっと考えて動け。殴られたのはお前の責任じゃねーけど、可愛い友人兼後輩が目の前で殴られた俺の身にもなってくれ」
何やってんだよとか、無茶しすぎだとか、どうやら今日は中井にさんざん言われる日らしい。せめて、いつものように小突かれなかったのが彼の優しさなのだろうと、綾春は苦笑しながら「わかったよ」と返した。
綾春としては、先に駆けだしたのは中井なんだから、自分だってよく考えてほしいなんて思ったけど。でもそう言うと「俺とお前とじゃ訳が違う」とか言われそうなので黙っておく。理由や状況がなんにせよ、具合が悪いのにいろいろと無茶をしたのは綾春だ。
「はぁー……、ほんとわかってんのかねぇ。……まあいいや。とにかくどっちが悪いって話なら、不毛なんでやめましょう。答えは単純明快——『あの胸糞悪いDomとSubが悪い』で解決です」
必要とあらば、我が社も全面協力して東雲さんをフォローしていきますよ、と中井は不適な笑みを浮かべて言った。
実際のところ、綾春たちの仕事には蓮哉が不可欠なので、どこぞのたちの悪いSubから蓮哉に対して理不尽な要求をされたり、手を出されたりするのは困るのだ。
動画もありますしね、と中井はスマホをひらひらと見せる。
「さて、と。綾春もだいぶ頭がまともになってきたみたいだし、俺は先に帰るわ。——東雲さん、悪いんですがそいつのこと、頼みます。なんか一人でぐるぐる悩みすぎてたんで、話聞いてやってください」
「あ、はい。すみません、お礼はまた後日に」
「いえ、礼には及びません。その代わり、東雲さんの器は楽しみにしてます。そこのバカと同じで、俺も東雲さんの器、気に入ってますから」
「ありがとうございます」
綾春をバカと揶揄した中井は、丸椅子から立ち上がった。軽口は彼なりの励ましだ。
室内なので脱いでいたコートを羽織りながら、中井は「あーそれから」と綾春へ視線を向けた。
「綾春は自分の気持ちに素直になるよーに! 思ってることは、全部ぶちまけちまえ。んじゃな。あとでメッセするわ」
そう言って、中井は大股で病室を出ていった。
中井が去ると、病室には二人きり。
綾春は腹部の打撲に、Sub不安症も加わっているため様子見として一泊二日の入院を余儀なくされたのだけれど、大部屋が空いていなくて個室に案内された。そのため、部屋にはほかに誰もいない。
「あー……っと、その……」
触れていた指先が、急に恥ずかしくなって慌てて手を引っ込めた。
それに蓮哉は小さく笑ってから言った。
「中井さんの言うとおりだな。あいつの、一ノ瀬のことでぐだぐだ話すのはもう止めよう。俺はまた同じことがあったら黙って耐えるのはやめるし、綾春に危害を加えられるのなら容赦しない。だから綾春は安心していい」
それでいいだろ、と蓮哉は言う。
綾春としても、中井に言われたとおり、これ以上あれこれ話をしても仕方がない、と頷いた。
「それよりも……その体調不良、俺のせいだよな」
離した指先が、綾春の目元に触れる。
体のしんどさはだいぶマシになったけれど、まだ目の下の隈が消えていないのだろう。労わるように肌をなぞる指がじんわりと心をあたたかくした。
「悩ませてごめん。好きだなんて言ったから、プレイするのも悩んでこんなになってたんだろ? この一ヶ月、プレイ不足で体調崩してないから心配だったんだけど、綾春の気持ちを尊重したくて何も言えずにいた」
「いいや、蓮哉さんが謝ることないって。俺が勝手に悩んで、迷って、会っていいのかわかんなくなってただけだからさ」
「でも、もう少し時間をかければよかったとは思う。いろいろ性急すぎたよな」
眉根を寄せる精悍な顔が、鼓動を速める。
自分のことをこれだけ想ってくれていると、ちゃんと伝わった。
「って、ははっ。……俺たち、またお互い謝ってるな」
「あ、ほんとだ。これじゃまた中井に怒られるや」
もう中井はこの場にいないから、下手したらまた不毛な会話が続きそうだ。それを蓮哉が気づいて、重い空気を笑い飛ばしてくれた。
それで綾春は、心のうちを伝える決心がついた。
「いろいろ考えたんだけどさ……俺、蓮哉さんのことが好きだ」
好き。それはパートナーとしても、恋愛としても。
一人の男性としても、Domとしても、彼に惹かれている。
「なんで悩んでたのかって、蓮哉さんのこと嫌いだからじゃない。自分の気持ちに自信が持てなくて、会うのが怖かっただけなんだ」
「怖い? それは、俺がDomだから? たしかにコマンドで『好き』って言わせることもできなくはないだろうけど」
蓮哉の言うように、たしかにDomがコマンドを使えばSubに「好き」と言わせることはできるかもしれない。実際は好きでもなかったらセーフワードなり何なりで拒否するだろうけど、一掴みでも好意の気持ちがあればSランクの蓮哉相手に抗える自信はない。
けれど、そういう意味ではないのだ。
「違う違う。蓮哉さんは俺よりランク、高いだろ? 俺、今まで自分より高ランクのDomとプレイしたことがなかったから、蓮哉さんに対する『いいな』って気持ちは本能から来るものなんじゃないか、そうだとしたら軽薄すぎる自分に引くし、気持ち悪いと思って、悩んでた」
綾春は、誤解だと首を振った。
「蓮哉さんとのプレイで、今までにないくらいSubとして満たされてた。こんなこと初めてで、どうしていいかわからなかった」
体を繋げたプレイもそうだけど、軽いプレイであっても蓮哉とのプレイは綾春の欲望を満たしてくれた。薬を飲む量が減り、体も軽かった。
セックスを交えたときは、はじめてサブスペースにも入れた。
蓮哉のグレアは圧倒的で、もっと欲しいとねだっても尽きることなく与えてくれる。溺れるほどのグレアで支配して、綾春の中を満たしてくれる。
生まれて初めてのことづくしの体験に、体は悦び、心はざわめき、頭はついていけなかった。
「でも、プレイを抜きにしても蓮哉さんと一緒にいる時間は楽しかった。まあ、そんなに多くの時間を過ごしたわけじゃないけど。俺たち、プレイありきで会ってたところが大きいし……。けど、なんてことない会話とか、蓮哉さんの雰囲気とか声とか、いいなって思う」
いつからだろう。
彼のそばにいるのは、とても心地が良かった。
いま思えば——それは出会った夏の日から、すでに始まっていた気もする。
「それに……『俺だけのSubにしたい』っていうの、すごく嬉しかった」
「本心だからな」
「あはは……うん。嬉しい」
穏やかな空気を纏いながら、蓮哉は微笑む。
優しくて、あたたかい想いがすっと綾春の心に沁み渡っていく。
「そんなこと言ってくれた蓮哉さんが、一ノ瀬さんにいいように言われてるのは腹が立った。嫌な目に遭っているのが我慢できなかった。てかさ、あんなに怒りでぶちギレたの、はじめてだよ」
「ああ……あんなに綾春が強気なの、初めて見たから少し驚いた」
蓮哉ほど穏和な性格でないにせよ、綾春はそう激昂型ではない。
「嫌いになった?」
「いいや」
もっと好きになった、と蓮哉は笑う。
「よかった。——まあそれで、わかったんだ。俺、ちゃんと蓮哉さんが好きだって」
言葉にすると、なんてシンプルなんだろう。
蓮哉が好きだ。
普段は穏和で、静かな空気感を纏っているこの人が。
それでいて、強い支配欲で躾けてくれるこの男が。
自分を好きだと、心まで支配したいと求めてくれるDomが。
本能と理性と心で、好きだと感じられている。
それでいいと、綾春は自分に言うことができた。
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