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番外編
熱帯夜は熱く、長く 03
しおりを挟む「じゃあ東雲さん。悪いんですが、そいつのこと任せます」
「え!?」
横にいた中井がまるで蓮哉がいることを知っていたかのような発言をするので、綾春は再び驚きの声を上げる。
しかし、驚く綾春を気にも留めずに、中井は笑顔を浮かべて綾春の背中をトン、と軽く押した。力が入ったものではなかったが、綾春の体は素直に蓮哉のそばまで近づいてしまう。
「少し飲ませすぎたかもしれませんが、まあ大目に見てやってください」
「はい。中井さんもお気をつけて」
「ええ。——じゃ、綾春。また来週なー」
ひらひらと手を振って、本当ならば二人で降りるはずだった階段を、中井は一人で降りていった。
ぽかんとしたまま、その背中を見送って、見えなくなったところで綾春は斜め上にある蓮哉の顔を見た。いつからそうしていたのか、彼はすでに綾春を視界に収めていた。
「あ、あーっと……えっ、と…………」
まだ仲直りをしたわけではないので、なんとなく気まずい。
謝ろうと決意したはいいものの、こう不意打ちで来られてしまっては、どんな言葉から声をかけたらいいか混乱してしまって、上手く言葉が紡げない。
タイプは違えど、風貌の際立つ二人が道端で並んでいるため、帰路を急ぐ人たちの何人かは振り返りながらも小走りで去っていく。チラチラという他者の視線には慣れている綾春だけれど、このときばかりは自分の心境も相俟って、なんだか落ち着かなかった。
「久しぶり」と言うには前に会ったのは一週間前だし、今さら「こんばんは」も違う気がする。それなら「お疲れ」かな? いやいや、そもそも仲直りをしたいのだから「この前はごめん」から始めるべきか……と、綾春が頭の中で慌ただしく思考を巡らせていると、その逡巡をわかっていたのか、蓮哉はそっと綾春の耳元まで唇を寄せて、綾春だけに聞こえるトーンで囁いた。
「Come、綾春」
「っ……!」
次の瞬間には一歩踏み出していた蓮哉の背中を、綾春は一気に速くなる拍動とともに黙って追いかけていた。
駅方向を背中にして路地裏へ入っていくと、数台ほどが停められるコインパーキングに辿り着く。そこには、綾春もすっかり見慣れた国産のSUV車——蓮哉の愛車だ——が停まっていた。
料金を払ってくるから乗っていて、と言う蓮哉の指示に従って、綾春はおずおずとしながらもロックの解除されたドアを開いて、いつもの助手席へと乗った。乗り込むと嗅ぎ慣れた車の匂いがして、無意識のうちにほっと息をつく。
「お待たせ」
しばらくして料金を払い終えた蓮哉が運転席に戻ってきて、エンジンを回す。
どう反応するのが正しいのか、いまだに悩んでいるうちにアクセルが踏まれて、どこへ行くのかと訊く間もないうちに車は優しいスピードでパーキングを出てしまった。
表参道駅を横目に国道を進んで、車は滞りなく首都高のランプに入る。蓮哉の運転はスムーズで、ナビも使わずに夜の首都高をひた進んでいった。
車内には、ピリつくような緊張感はなく、ゆったりと静かな空気が流れる。
「——お酒、飲みすぎたかもって中井さん言ってたけど、車大丈夫か?」
「あ、うん」
何か話さなくちゃと思っているうちに、蓮哉が言葉をかけてくれて、綾春は内心でわたわたしながらも頷いた。
まるで喧嘩なんてなかったかのように、自然体に——今まで通りに、いつもみたく話しかけてくれる蓮哉に、綾春は無性に泣きたい気持ちになった。
悲しいんじゃなくて、嬉しいのだ。
蓮哉が敢えて、以前と変わらぬ態度をとってくれていることがわかるから。
「そこの水も買ったばっかだから、よかったら飲んで。飲んだあとの水分大切だしな。あと、冷房も寒かったら教えて」
しっかりと前を見ながらも、口元に笑みを浮かべる蓮哉の横顔を見ながら、綾春はまた「うん」と頷く。
見れば、運転席と助手席の間にあるカップホルダーには未開封のミネラルウォーターが置かれていた。冷房だって、この熱帯夜に綾春を迎えに来るためか、もわっとした空気を一気に冷やすほど全開にかけてくれていたことに気づく。適温に冷えた車内は、おそらくあと少しもすれば綾春が言わずとも蓮哉が風を弱めるだろうことも、察してしまう。
彼は綾春に、とことん甘いのだ。
(……って、こんな態度じゃダメだろ。ちゃんと言わないと)
蓮哉が作ってくれる心地の良い空気感に身を委ねそうになっている自分に気づき、綾春はパチンッと両手で自分の頬を叩いた。
それから、蓮哉の好意に甘えてペットボトルの水を手に取って、四分の一ほど飲む。少しだけ温くなってはいたが、酒を飲んで渇いていた喉がすっと潤って、気持ちも幾分シャキッとした。
「あのっ、蓮哉さん……!」
気合いを入れすぎて、少し大きくなってしまった声にも、蓮哉は「んー?」と穏やかなトーンで応えてくれた。それがまた嬉しくて、堪らなくて。
「この前は、ごめんなさい。俺、蓮哉さんの気持ちをちゃんと考えないで発言してた。他の人が気になったとか、好きだとか、そういうことじゃなくて……。仕事がうまくいきそうだったし、蓮哉さんと話せるのが嬉しかったからテンション上がっちゃってさ……」
夜の首都高を走る車内で、綾春は一つ一つの言葉をなるべく丁寧に紡いでいく。蓮哉はハンドルをしっかり握り、危うげなく運転しながらも、じっと耳を傾けてくれていた。
「蓮哉さんが不満に思ったって伝えてくれてたのに、俺は信じてもらえてないのかなって自分勝手に不安になっちゃって、つい言い過ぎた。そんなことないって、ちゃんと考えたらわかることなのに。本当にごめん」
一度口を開けば、謝罪の言葉はすんなりと出てきた。
あれほど中井相手に愚痴を言い、自分の気持ちをわかってもらえなかった苛立ちや悲しさが胸の中でわだかまっていたのに、いざ気持ちを伝えてみると、やっぱり自分が未熟だったなぁと反省しかない。
高速道路でハンドルを握る蓮哉が助手席を見られるのは僅かなことくらいわかっていても、綾春はシートベルトはそのままに、なるべく蓮哉へ体を向けて深々と頭を下げた。
ギスギスした空気では居心地が悪いだろうと気を配ってくれた蓮哉に、綾春が返せるのは真摯に謝ることだけだ。喧嘩をしてもなお、恋人に甘い彼の深い愛情を感じながら、できれば許してもらいたいと小さく祈る。
「——俺も、大人げなかった」
しばらくの沈黙ののち、声を発したのは蓮哉だった。
そっと頭を上げると、チラリと助手席に視線を向けた蓮哉と一瞬目が合う。表参道駅前で、サプライズで現れたときと同じように、静かで穏やかな表情に心臓がきゅっとなった。
緩やかなカーブに差しかかり、再び視線を前へと戻しながら蓮哉は続けた。
「はじめは、いつもの嫉妬だったんだ。でも、綾春があんまりもにこにこ話をするもんだから、ついイラッとして。ちょっとした遊びと冗談のつもりで終えるつもりが、引けなくなったっていうか……。それで、綾春が真剣に考えてくれているのを蔑ろにしたよな。変に不安にさせて悪かった。俺のほうこそ、ごめんな」
尽くしてくれる言葉一つ一つが、綾春の心にじんわりと響く。
「元カレのことも、仕事だってちゃんとわかってる。まあ、面白くないってのは本音だけど……そいつに限らず、俺以外の誰かをきみが好きになるはずがないってのは、俺が何よりもよく知ってるから」
だから、『遊び』の延長だろうとも、嫌な思いをするほどに追い詰めてしまって悪かった、と蓮哉は詫びの言葉を紡ぐ。
冷静になればなるほど——そして、中井と話したことで考えたところで、やっぱりどちらかと言えば、綾春に非があると思うのだ。けれど、蓮哉は自分も悪かったからと言ってくれる。それは、どうしようもなく綾春を大切にしてくれている証拠だし、綾春が自分を責めすぎて過度に落ち込まないようにしたいという優しさに他ならない。
綾春のDomは、どこまでも、呆れるほどに綾春のことを愛してくれている。
なぜこの人のことを疑ってしまったのだろう。
「この何日か、不安じゃなかったか? 症状は?」
互いに謝罪の言葉を述べたことで、車内の空気が軽くなった。
これで喧嘩は終わり。蓮哉の声色ははじめから柔らかくはあったけれど、いっそう労りの気持ちを乗せながら、気遣わしげに綾春に問いかけた。
「うん、大丈夫。あー、まあ……今日明日でダメになってたかもだけど。でも、中井が『お前が悪いんだから早く謝れ』って諭してくれたのもあってさ。あっ、別に中井とは何もないからな? ただの友だちだから!」
「ははっ。わかってるよ。さすがに中井さんのことは疑わないって」
嫉妬は、まあ少しはするけどな、と蓮哉は笑う。
「本当は、もっと早く仲直りしたかったんだけど、ずっとイライラしててさ。メッセージ一つ送れなかった」
「俺も」
「でも、直接会って謝れてよかった。そういえば、予定があったんじゃないの? たしかお祖父さんとご飯食べに行くって話じゃなかったっけ」
今さらながら、なぜ蓮哉が表参道まで来られたのか訊ねる。
先日話に聞いていた限りだと、今夜は蓮哉は祖父との食事の予定だったはずだ。葉山の家の元の持ち主である彼の祖父は、今は横浜で悠々自適な生活を送っているらしく、その横浜の自宅に一泊してから帰ってくると言っていたのだけれど。
「ああ、食べには行ったよ。いつも通り、器も何個か渡した」
「それじゃあ、なんであそこに?」
「中井さんから連絡もらってさ。もともと、もし時間があったら綾春から話を聞いてやってほしいって伝えてて、それでなんかあったら連絡してほしいって中井さんに頼んでたんだ」
「え。そうだったんだ……知らなかった」
表参道駅前で会ったとき、中井が蓮哉が待っているのをまるで知っている様子だったのは、そういう経緯があったらしい。
「言っておくけど、綾春のこと信用してないわけじゃないからな?」
「あー、うん。それは、わかってる。っていうか、なんか……中井にも蓮哉さんにも気を遣わせちゃったなって思ってさ」
有り難いやら、情けないやらで、綾春は複雑な気持ちだった。
友情と愛情を感じて、こそばゆいと言ってもいいかもしれない。
「まーあとは、祖父さんに『こんなことしてる暇があったら話に行きなさい』って叱られてさ。早く行けって、追い出されたよ」
「へぇ。そういや、蓮哉さんのお祖父さんってちょくちょく話題には出るけど、俺、会ったことないよね。いつかお会いしてみたいなぁ」
蓮哉の暮らす葉山の自宅も、彼の仕事である陶芸の仕事も、祖父から声をかけられたのがきっかけだという話は綾春も聞いていた。
「うーん……祖父さんもDomだからなぁ。はっきり言って、あんまり綾春に他のDomを会わせたくない」
「身内であっても?」
「身内であっても」
「俺、カラーまでもらってるのに?」
「であっても、だよ」
蓮哉はむすくれたようなトーンで、しかし真剣に返してくる。
こんなに外見は冷静で穏やかそうに見えるのに、中はどろどろに溶けきったマグマのような熱で満ちているのかと思うと、綾春は胸いっぱいになった。
「ふぅん……。ふふふ……」
「束縛しすぎか?」
「んーん、全然」
それからは、蓮哉の危なげないハンドル捌きと、夜道を駆ける精悍な横顔に見惚れながら、他愛のない会話が続いた。
◇◇◇
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