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番外編
熱帯夜は熱く、長く 02
しおりを挟む「……俺はさ、俺の相手は蓮哉さんしかいないって信じてもらえてなかったのかなって。たとえいっときの感情だとしても、そう思ったら、ついさ……。なんか悲しくなっちゃったんだよな……」
中井に言うつもりはなく、ほとんど独白に近い呟き。
それでも、なんだかんだで友人思いの中井はその呟きをしっかり耳で捉えていて、「はははっ」とおかしそうに笑った。
「ったく、お前はいくつになっても可愛いねぇ」
「アラサーに可愛いはきついって」
「まぁまぁ」
届いた赤のデキャンタから、中井は新しい二つのワイングラスへルビー色の液体を注ぐ。「飲め飲め」と言ってくれるのは、素面だと自分を押し殺しがちな綾春の性格をよく知っているからだろう。
泥酔にはまだほど遠く、心地よく酔いが回ってきているなか、綾春はぶつくさ言いながらもワインを煽り、タリアータを口に運んだ。
美味しい酒と食事は、ささくれ立った心を癒してくれる。そこに品よくまとまったテーブルウェアやインテリアがあれば、さらにいい。
「でも、そうだな。綾春、お前の気持ちも完全にわからないわけじゃないぞ」
「なんだよ、調子いいやつ」
「俺はお前が苦労してきたのも、我慢してきたのも見てきたからなぁ。Normalの俺じゃその本能までは理解してやれんが、まさしく『運命の相手』ってやつが東雲さんなんだろうから、些細なことに一喜一憂するのは仕方ねーのかもとは思う」
そうなのだ。
綾春にとって、蓮哉はまさに掛け替えのない唯一無二の相手。パートナーとしても、恋人としても、強い信頼を抱いている。心のすべてを預けてしまっていると言っていい。
だからこそ、その預けた心を疑われた悲しみが憤りになってしまった。
「プレイならまだよかったんだけど、結構ガチだったからさ……」
不満だか愚痴だかを零しつつ、赤を舌先で転がして、ゆっくり味わう。程よい渋みと酸味がいまだ胸の奥で燻っている恋人への苛立ちと、それを上回る哀情を流してくれようとするけれど、完全には消し去ってはくれない。
あの夜、蓮哉と言い合った末に、綾春はキレるようにして電話を切ってしまった。それから互いに電話もメッセージも交わしておらず、不仲な状態がもう数日経っている。喧嘩になる前の週末に話していたとおりなのであれば、明日には会う約束をしてはいるのに、モヤモヤした気持ちが消えない。
でも、喧嘩はしても、嫌いになんてなれない。
むしろ、蓮哉のことを深く想っているからこそ、今なお続いてしまっているギスギスした雰囲気に心が晴れない。
おそらく、あと数日もすれば、今の状況が身体的に耐えられなくなるのは綾春のほうだ。SubもDomも、パートナーとプレイできない苦しみはあれど、Subの綾春のほうが圧倒的に不安症状が出やすいのだから。
明日の夕方に会って、できれば仲直りをして、ちゃんとプレイをすれば、この数日で溜め込んだ鬱憤からくる不安は消えてくれるだろうけれど。
とはいえ、そもそも明日、本当に会えるのだろうか……。
あまり考えないようにしていたけれど、先週末の約束が有効なのかさえ、今の綾春には自信がなくなってきていた。
「…………やっぱ、俺が悪いよな」
いや、わかってはいるんだけど、と綾春は言い訳がましく付け加える。
「んー、まあ。悪いかどうかはさておき、仲直りはしたいんだろ?」
「それは、もちろん……」
仲直りは、したい。
いつまでも今の空気が続くのは耐えられない。
「なら、早く仲直りするんだな。——俺、ちょっとトイレ」
「あ、うん」
赤の入ったグラスを豪快に煽った中井は、慌ただしく席を立って用を足しに向かった。その背中を見送りながら、アルコールと中井のおかげで少しだけ柔らかくなった頭で考えてみる。
喧嘩の状態であっても、別れるとかそういうことではないと思うのだ。少なくとも、綾春はそう思っている。
一時的な些細な気持ちのすれ違いで、もともと自分と蓮哉の向いている方向にそう大きなズレはないはず。ちょっとしたボタンの掛け違えのようなもの。ボタンを一度外して、きちんとした場所に留めていけば綺麗に収まるのに、間違ったままに次のボタンを掛け続けようとしているだけだ。
(そうだよな……。まずは、ちゃんと謝ろう。謝って、でも俺の気持ちもしっかり伝えたい。このまま喧嘩し続けるのは嫌だし、俺の気持ちを理解してもらえないのも嫌だ。——しっかりしろよ、綾春。蓮哉さんは話せばわかってくれる人だってことくらい、知ってるだろ)
中井に愚痴に付き合ってもらったことで溜飲も下がったのか、最後に残ったのは「大人気なかったな」という反省と、「もっと歩み寄りたい」という彼への素直な愛情だ。
結局のところ『痴話喧嘩をした』という愚痴の皮を被った惚気話に付き合ってくれた悪友に内心で感謝する。
心が決まってしまえば、あとは実行あるのみだ。
綾春はワインを燻らせながら、カバンに入れていたスマホを取り出す。ロック画面にメッセージアプリの通知は無し。顔認証でロックを解除すると、メッセージアプリのアイコンをタップして、蓮哉とのやりとり画面を表示した。
「通話を終了しました」という無機質なシステムメッセージを最後に、蓮哉とのやりとりはない。綾春からも、蓮哉からもメッセージを送っていないので、最後のシステムメッセージが表示されている日付は、火曜から水曜に日付が変わった深夜だった。
綾春は、寂しさが漂う画面をじっと見つめる。
(今日……は、さすがに迷惑になるよな。でも、なるべく早いほうがいいだろうから、明日の午前中にメッセージを送ろう)
謝るのは、直接会ってしたい。
でも、謝る意思があることを彼には伝えておきたい。
蓮哉は今夜、横浜で用事があるのだと言っていた。
あまり詳しくは聞いていないのだけれど、横浜のマンションに住む祖父と食事をするらしい。その祖父というのは、あの葉山の家のもともとの持ち主で、蓮哉にとっては自分とは違う意味で大切な人であることは、綾春も知っている。
綾春がいかに蓮哉のパートナーであり恋人であろうとも、妬心はさすがに持っていない。むしろ、大切な家族との時間を楽しく過ごしてほしいと思っている。だから、メッセージを送るのは明日。
そう決意して、再度画面を見ると寂しさも少しだけ薄れる気がした。
「……にしても、中井遅いな?」
メッセージアプリを閉じ、スマホをカバンにしまったところで、綾春はふと首を傾げた。飲食店——特に、酒を取り扱う店での夜の食事は、多少は化粧室も混みがちではあるけれど。それにしても、少し時間がかかっているようにも思った。
まさかとは思うが、飲み過ぎたのだろうか。
綾春も酒はそれなりに強いほうだけれど、中井は相当の酒豪だ。それでいて、きちんと自分のキャパとペースを理解してもいる。
「時間かかってるだけならいいんだけど…………あ」
「お。お前もトイレ?」
様子を見に行くべきかと腰を上げたところで、ようやく中井が帰ってきた。
「いや、中井が遅いから様子を見に行こうと思ったんだけど……飲み過ぎとかじゃないよな?」
「いんや? ちょっと前の客が長くてな」
「あーそういう」
それなら良かったと笑えば、中井もなんだかすっきりした様子で再び美味しいワインと食事を口に運び始めた。綾春が深刻そうな話をしても、こうして中井は変に大事にしすぎないでくれるから、つい弱音を吐けるのだ。
今は恋人ができたから、その役目は蓮哉が多いけれど、恋人には恋人の、友人には友人の良さがあることを改めて実感する。
「俺さ、蓮哉さんにちゃんと謝るよ」
「おーそうしろ、そうしろ。お前が落ち込んだり、考え込みすぎるとろくなことになんねぇからな」
「ははは、返す言葉もないや」
なんてことのない軽口を、肩の力を抜いて笑って返した綾春の様子を見た中井は笑みを深くした。仕事ができるくせに、自分のこととなると少し世話が焼ける悪友の悩みが解決しそうだとわかり、安心したのだ。
ちょうど中身が少なくなった綾春のグラスに、中井は機嫌良く赤ワインを注いでいく。残りの分を自分のグラスに注ぐと、ちょうどデキャンタは空になった。
(明日は少し不安だけど、今は食事を楽しまないとな)
綾春も、胸のつかえが少しだけ取れたからか、ようやくまともに、目の前の食事とワインを楽しもうという気持ちがちゃんと生まれた。
他のことを考えていても、ここの料理は美味しいけれど、ちゃんと味わえばなおのこと。中井に「家具インテリア馬鹿」と言われるほど、こういう場では店の雰囲気とテーブルコーディネートも含めて楽しむのが常なのに、今日の自分は随分と余裕がなかった。
先ほどまで、ワインをよく味わわずに飲んでしまっていたことも反省しながら、綾春は中井とともに、タリアータと、追加でやってきたパスタに舌鼓を打つのだった。
それからは雑談とともに食事と酒が進み、終電間近の時刻に店を出た綾春は、中井と二人で駅へと向かう。店からホームまでは酔っ払った足で十五分ほどだ。
楊柳生地で作られたオープンカラーの半袖シャツにテーパードパンツという涼しげなセットアップを着ていても、肌に纏わりつく夏の風は高湿度で、こんな時間になってもまだ暑い。
中井とは、渋谷で乗り換えて目黒までは同じ路線だ。それまでは取り留めのない会話をしながら帰路を着こうと考えながら、駅につながる地下通路に降りる階段口までやってきた——ちょうど、そのときだった。
綾春の目に、見慣れた姿が映った。
「えっ……」
出口付近のガードレール前、長身に端正な顔立ちをした黒髪の男が立っている。彼の視線の先は、間違いなく綾春を捉えていた。ぶつかる二つの視線の間を、熱い夏風が吹いた。
「蓮哉さん……? どうして、ここに……」
呟く綾春に、蓮哉は静かに微笑むのみ。
あと三十分もすれば日付が変わる金曜の夜だから、駅周辺は終電に急ぐ人で多少ごった返している。けれど、蓮哉のことはすぐにわかった。
喧嘩中だったから会いたいようで会いたくない相手だったけれど、それでもそろそろちゃんと謝らないとという決意を一時間ほど前にしてからは、早く会いたいと願う相手が今、目の前にいた。
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