鉄の城に砂の唄が呻く

でぃ.

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顔が上手く洗えない。
尻の痛みが違和感に変わったころ、ようやく俺は自由に起きることが出来た。二、三日もすればそれが例え変な体勢でも、ひょこひょこ歩いて便所や洗面所を行き来できるようになって。
左の肘から下をガッツリ手首まで固定されてぐるぐる巻きの状態ではあるけれど、大げさに吊らなきゃいけない程でもない。今日なんかはこれをぶん回して、そうだこれを武器に一殴り、なんて物騒な事を考えたりもした。
とにかくそろそろ俺みたいな人間は、身体を動かしたくなって仕方が無くて。身体の端々、関節がムズムズする。

「ひでぇ顔」

洗面台で一生懸命自分の顔面と格闘していた。利き腕が無事だったのは不幸中の幸いかも知れないけれど、とにかくこの数日で感じたのは、とにかく生活が不便で仕方ない事だった。
風呂こそようやく入れて綺麗になったけれど、伸びっ放しの髭はみっともない事この上なかったし、食欲が無くてやつれた顔に、カッサカサの唇。腫れが引いた後青あざになった右のほっぺたと瞼と、まぁ。上げたらきりのないボロボロ加減に盛大な溜息を吐きながら、鏡の向こうの自分を睨んだ。目つきは元々切れ長で悪い方だとは思っていたけれど、それにしたって今の状態との相性は最悪だった。人相最悪。痛んだブリーチ髪の根元から地毛が出てきて小汚いし、こんなことなら面白半分に染めなきゃ良かった。なんてまた、どうでもいい嘆きを思い浮かべて。

「すげー顔になったな」

パンツ一枚で洗面台の正面に突っ立って、ああでもないこうでもないと自分とにらめっこをしていたら、その枠の中にひょこりと顔を出した、例の男もとい、 雪嶋咲人ゆきしまさきと
目が覚めた翌日、正直勤勉に俺の元を再び訪ねてきたこの男はそう名乗って、次いで俺の名前を聞いた。
俺は正直、こんな目に合うなんて二度とごめんだった。ちゃらんぽらんに自分の好きなように、手前勝手に残りの人生、借金が消えてこんなに身綺麗になれて、いや、身体に関しちゃ汚れたのかもしれないけれどまぁ、そんな自虐はさておき。とにかく俺はこのままこの男もろとも今回の出来事を忘れて、こんな黒歴史全部無かったことにして忘れて、今までと変わらない、お気楽人生を再開するつもりだった。それがどうして。

「いけめん?」

「真っ黒じゃん、パンダみてぇ」

鏡越しに視線が絡む。俺の無様な顔を見てヘラ、と笑って見せるその顔が。

「コレ治んなかったらどうしよ…」

「本気で嫁に行けなくなるな」

「会長に責任取ってもらう」

「極妻になんの?」

「ちげーよ女の子紹介してもらうの」

何となくで俺との距離を詰めてくるから、ちょっと怪訝そうな顔をして振り返る。視界一杯に拡がる俺より少しだけ視線の高いそれは、何回見てもびっくりする。ちょっとその辺ではお目に掛かれないぐらいの、整った顔面で。

「雪嶋さんって日本人なの?」

「あ、解る?」

おおよそ日本人離れしてんなとは常々思ってはいたけれど。そんな軽口がどうやらピンポイントだったらしくて。

「解るよ、めちゃ整ってんじゃん」

「殆ど日本人だけどな、おばあちゃんがハーフ」

「えーっと…」

「クォーターより薄い」

「へー…」

感心してまじまじその顔を見詰めていたら、なんでか俺の腰に腕が回ってくる。腰の向こうで手を組まれて、逃げ道を塞がれた俺の顔が困惑に変わったら。

「塗ってやろうか?」

「もう、自分でできる…から、いい…」

そんな至近距離で不敵に笑わないで欲しい。俺だって人間だ。綺麗なもんは綺麗だと思うし、艶っぽいなと思うときは艶っぽいって思う。
そんで多分この人はそういうのを全部解ってやっていて、それなりにこの顔面を上手く利用して生きてきている。分かりきったみたいな表情で俺の尻を揉み始めた両手をぱし、と払い落として、その胸を押し返した。

太一たいちはさぁ」

「ねぇ距離感どこやったのなんで呼び捨てなの」

「良いじゃんもう俺の舎弟なんだろ」

そう、確かに、俺は興味本位でそう言った。この仕事を、続ける、って。

「でもさぁ…こう順序とか…」

「処女みてーなこと言うじゃん」

そもそもはちゃんと護衛とか、そういうつもりで向こうも俺に話を振ったのは本当らしかった。だから、今回のことは、つまり俺の貞操が消失したのは本当にただ、運が悪かったとしか言いようがない事で。

「ネタにすんの可哀想だとか思わねぇ?俺がトラウマになってるかも知んねーとかさぁ」

「なってんの?ごめんね」

「微塵も悪いとか思ってないくせに」

「同情はするよ」

それについては雇い主の会長さんからちゃんと詫びられたし、俺もいつまでも女々しく引きずるつもりもない。
そりゃぁそれなりに、俺なりに色々、色々ありはするけれど、それをだからって済んだことを、いつまでもうだうだ言ったって、もう。
俺の貞操が終わったってことはもう、揺るぎない、逃れようのない現実だから。

「同情ついでに気まずくなってくんねぇかな」

「引かれるより茶化される方が良いだろ」

「いや...それはさぁ...」

俺が苦い顔になったのと同時に、一度俺から離されたお前がまた一歩にじり寄ってくる。もう一度、さっきの手順を繰り返す手のひらが、するすると俺の骨盤を撫でた。

「舎弟になった記念日」

「あのねぇ」

「意外」

「意外な訳あるか」

「いや、どうでもでもいいのかと思ってたから」

「どうでもよくはねぇよ」

懲りずに俺の尻を撫で回す手首を押さえて、ちょっと睨み返したら、キョトンとした顔を向けられたから。
俺は俺でなんとも言えない変な表情になるけれど。

「それならいい」

「何が?」

丸くなった両眼が一転、なんならちょっと嬉しそうな顔になった雪嶋の意図もさっぱり解らない俺は。

「太一が身代わりになってくれたの、俺の弟分でさ」

「...はぁ」

なんかちょっと、それは。

「ありがとうな」

「...」

無邪気に笑って頭をわしゃわしゃ撫で付けられたその胸の奥の方がほんの少し、変にザワついたような感覚がして。
それが何故なのか、そんなの皆目見当もつかないけれど、でも。

「直接詫び入れさせるから」

「なんで」

「顔」

「え?」

「すげー引き攣ってるけど」

「え??」

俺にもよく分からない指摘に、思考は全然追い付かないけれど。

「来なくていいよ、気まずいって」

やっぱり、何かが絶妙に嬉しくなくて。

「なぁ」

「ん?」

「運動したくて」

「セックス?」

「ちげーよそれしか頭にねーのか」

「あははは」

「ジムっぽいの、設備持ってねぇ?」

「おまえすげーね」

「え?」

「腕痛くねーの」

「痛てーよ」

「すげーわ」

「あんの?ないの?」

「あるよ」

意図して話を逸らしたかって言われたら、そうだったのかも知れないけれど。

「連れてってよ」

理由が何でもとにかく。
俺は、見たくないものには蓋をする事にした。
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