地方公務員になってみたら、配属されたのは流刑地と呼ばれる音楽ホールでした。

雪うさこ

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独奏ヴァイオリンのための組曲 Op.123 Ⅳ chaconne

第5話 魂の本質に触れてくる音

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 風呂から上がり、準備されていたトレーナーとジャージを履いてみると、なるほど。あおには随分大きいようだ。 

「どうせ、手も足も短いですよ」 

 そんな独り言で悪態を吐いてから脱衣所の扉を開ける。——と。ふと耳に心地よいヴァイオリンの音が聴こえた。 

 ふと忘れがちだが、彼はヴァイオリニストだ。重苦しいような折り重なっている音の響き。玄関のガラス窓のガタガタと鳴っている音が相まって、重厚な音は更に闇の淵に落ち込んでいきそうだった。 

 ——なに、これ……。 

 ぞわぞわと全身の毛が逆立つような感覚。思わず抱えていた服を落としそうになったのを慌てて抱え直した。 

 ギシギシと音を立てないように足音を忍ばせて居間を覗くと、彼は居間の窓際に立ち、ヴァイオリンを弾いていた。 

 まるでそこに、もう一人の奏者がいるかのごとく、メロディがあちこちから聞こえてくるのに、目を擦って見返すとやはり関口一人しかいない。 

 ——弓が一本と、弦を押さえる腕が一本なのに、どうやったらこんなに弾けるの? 

 素人の蒼には理解できない。音楽の論評もできない。だけど、関口の音はともかく重くて心のずっしりとのしかかってきて、一緒に飲み込まれそうだった。 

 泣きたくもないのに、なぜか涙が自然に落ちてくる。頭ではなにも感じていないのに。 

 ——悲しいんじゃない。なのに……なぜ? 

 涙を堪えたくても堪えきれない。この音は、蒼の頭ではなく、本能、いや魂を揺さぶって来るような音だった。 

 先日、ラプソディで桜の演奏を聞いた。あの時もそう。感情を揺さぶられたのだ。だがしかし。関口のそれは全く違っていた。もっと、蒼の本質まで入り込んでくる音だった。 

 波のように押し寄せては引いていく旋律。小さく沈み込んだかと思うと、大きくなって返って来る。そんな渦に巻き込まれたはずなのに、心は少しずつ落ち着きを取り戻し、そして興奮は音とともに消えていった。 

 じっとそこに立ちつくしていると、楽器を下ろした関口が振り向いた。 

「やだな。上がったなら上がったって——」 

 彼はそう言いかけて言葉を止めた。 

「蒼、お前」 

「ご、ごめん!」 

 蒼は腕で目元をごしごしと拭く。 

 ——演奏を聴いて泣くなんて、失礼だ。 

「ち、違うんだよ。あの——。ごめん。あの、なんて言ったらいいのか」 

 ——違うんだ。そうじゃない。違う。 

 なにが違うのか言葉に出来ない。ただ、蒼は関口の演奏を聴いて湧いてきたこの気持ちを言語にできないことがもどかしい。 

 どうしたいいのだろうか。この気持ちを伝えたいのに。言葉にならない。一人で慌ててもどうしようもできないことだと理解してしまうと、諦めるしかなかった。もう観念して黙り込むしかない。 

 ——きっと変な奴だって思われた! 

 両手で顔を覆って、後悔してしまう。顔が熱くなるのは入浴したせいだと自分に理由をつけていると、関口の声が聞こえた。 







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