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第一話・姜家本家
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嗚呼、また誰かが失せ物を想って悲しんでいる……
人の強い執着心か、それとも無くされた物が私を呼んでいるのか。いつの頃からか他人の失せ物の夢を見るようになった。
持ち主とはぐれた物達は何も言わずに寂し気にそこに佇みながら、私に向かって何かを訴えかけてくる。
都から北西の小都市、寧。運河沿いに位置することもあり交易が盛んで中小の商家の屋敷が立ち並ぶ。その中では大きい部類に入る姜家の屋敷の門を潜り抜け、木蘭は家人に案内されて通された部屋で、伯父である姜嘗君のことを待っていた。ここ姜家の本家には幼い頃に何度か両親と共に訪ねたことがあるが、甘い飴菓子を食べたという記憶しかない。改めて部屋の中を見回してみると、精巧な彫り紋様が施された厨子の上には色鮮やかな壺や西国製の瑠璃器が並び、部屋を仕切る屏風にさりげなく掛けられているのはまるで羽衣のように透ける薄絹。質素倹約を地でいく自分の生家では考えられない豪奢さだ。
屏風の向こうから誰かがやって来た気配がして、木蘭は椅子に座ったまま振り返る。けれど入って来たのが伯父だと分かると、立ち上がって礼を取り直した。姜家当主はさすがに兄弟ともあって木蘭の父と顔立ちは似ているが、その肉付きの良さからか二つ上には見えず弟よりも若々しい。
「木蘭か、遠いところをよく参ったな」
「お久しゅうございます、伯父様」
すぐに許しを得て顔を上げ、向かい合って椅子に腰掛ける。即座に使用人が茶を淹れに来たが、用が済むとすっと部屋の隅に下がっていった。嘗君はしばらくの間、黙って木蘭のことを見ていた。五年ぶりに会う姪を懐かしんでいるというよりは、どちらかというと見定めるような視線に、木蘭は居心地の悪さを感じる。何か話さなければという焦りで取ってつけたように礼を述べた。
「未央姐様の後宮入りにお呼び下さって誠にありがとうございます。誠心誠意、お仕えさせていただきたいと思います」
そう、本日この屋敷を訪ねてきたのは、明日に控えた従姉妹の輿入れのためだ。皇帝陛下に妃として受け入れられることは一族にとっての誉であり、喜ばしいこと。木蘭はその未央の侍女の一人として後宮へ付いていくことになっている。任期は特に決まってはいないが、木蘭に縁談が来るまでになるだろうか。ところが、姪の言葉に嘗君が困惑したように眉を寄せる。部屋の隅で立つ使用人へ目配せして退室させてから、声を潜めた。
「それがだな……肝心の娘が昨晩から行方知らずで、家の者達が今必死で探し回っているところなのだ」
「えっ……?」
「未央が後宮入りするのを嫌がっていたのは知っていた。けれど国からお声が掛かった以上、拒むことなど許されぬ。どうにか説得したつもりだったのだが……」
木蘭は伯父の言葉に顔を青ざめさせる。一度後宮入りが決まってしまえば辞退できるわけがないことくらい、まだ十六歳の木蘭でさえ理解している。皇帝の命は絶対で拒否しようものなら本人どころか一族まとめて死罪の可能性だってある。当然、姜を名乗る木蘭も同罪を被ることになる。
「え、ええっ……⁉」
騒ぐなとでも言うように伯父から首を横に振られて、慌てて口元を手で押さえる。まだこの事実は一部の家人しか知らされていないのだという。早急に未央を探し出し、無事に都へ送り出すつもりではいると語る伯父の言葉を、今の木蘭には信じる以外にない。目の前に死罪がチラつき、父と母の物と並んで自分の首が道端に晒されている光景が頭に浮かび、ぞくりと背筋が一気に冷えた。
「ただ、万が一の時は――」と嘗君が姪に向かって話し続ける。その声はそれまでに見せていた人当たりの良い伯父のものではなく、姜一族を率いる当主の冷徹さを帯びていて、ただの小娘にはとても反論できるものではなかった。
「明朝までに娘が見つからなければ、木蘭、お前が代わりに妃として後宮に入れ」
「わ、私が、ですか……?」
「ああ、背丈も似たようなものだ。歳も一つくらいなら何とか誤魔化せるだろう。お前が未央のフリをしている間に、娘を探し出して後から向かわせる。その後は予定通りに侍女として仕えてくれたらいい」
さらに顔色を悪くさせた木蘭に向かって、「なぁに、下級妃の一人くらい途中で入れ代わっても誰も気付きやしない」と嘗君は軽く言ってのけるが、それもバレたら死罪に違いない。ならば他にどうすればと問われても木蘭には何も思いつかなかった。
「……必ず、姐様を見つけてくださいね」
「ああ、約束しよう。もちろん、身代りだろうがお前のことは我が娘としてしっかり支えてやるから安心せい」
それは木蘭のためというよりは、後宮入りさせたのが偽物だとバレないようにする意味合いの方が大きいのだろう。翌朝、やはり行方が分からなかったという従姉妹に代わって、木蘭は沢山の荷物と一緒に二輪馬車で都へと向かった。鮮やかな朱色の裙と杏子色の上衣に薄絹を纏い、まるで別人のように濃い化粧を施されて。
――ああ、何でこんなことに……
馬に揺られながら、木蘭は何度も外の景色を眺めては深い溜め息を吐き続けた。
人の強い執着心か、それとも無くされた物が私を呼んでいるのか。いつの頃からか他人の失せ物の夢を見るようになった。
持ち主とはぐれた物達は何も言わずに寂し気にそこに佇みながら、私に向かって何かを訴えかけてくる。
都から北西の小都市、寧。運河沿いに位置することもあり交易が盛んで中小の商家の屋敷が立ち並ぶ。その中では大きい部類に入る姜家の屋敷の門を潜り抜け、木蘭は家人に案内されて通された部屋で、伯父である姜嘗君のことを待っていた。ここ姜家の本家には幼い頃に何度か両親と共に訪ねたことがあるが、甘い飴菓子を食べたという記憶しかない。改めて部屋の中を見回してみると、精巧な彫り紋様が施された厨子の上には色鮮やかな壺や西国製の瑠璃器が並び、部屋を仕切る屏風にさりげなく掛けられているのはまるで羽衣のように透ける薄絹。質素倹約を地でいく自分の生家では考えられない豪奢さだ。
屏風の向こうから誰かがやって来た気配がして、木蘭は椅子に座ったまま振り返る。けれど入って来たのが伯父だと分かると、立ち上がって礼を取り直した。姜家当主はさすがに兄弟ともあって木蘭の父と顔立ちは似ているが、その肉付きの良さからか二つ上には見えず弟よりも若々しい。
「木蘭か、遠いところをよく参ったな」
「お久しゅうございます、伯父様」
すぐに許しを得て顔を上げ、向かい合って椅子に腰掛ける。即座に使用人が茶を淹れに来たが、用が済むとすっと部屋の隅に下がっていった。嘗君はしばらくの間、黙って木蘭のことを見ていた。五年ぶりに会う姪を懐かしんでいるというよりは、どちらかというと見定めるような視線に、木蘭は居心地の悪さを感じる。何か話さなければという焦りで取ってつけたように礼を述べた。
「未央姐様の後宮入りにお呼び下さって誠にありがとうございます。誠心誠意、お仕えさせていただきたいと思います」
そう、本日この屋敷を訪ねてきたのは、明日に控えた従姉妹の輿入れのためだ。皇帝陛下に妃として受け入れられることは一族にとっての誉であり、喜ばしいこと。木蘭はその未央の侍女の一人として後宮へ付いていくことになっている。任期は特に決まってはいないが、木蘭に縁談が来るまでになるだろうか。ところが、姪の言葉に嘗君が困惑したように眉を寄せる。部屋の隅で立つ使用人へ目配せして退室させてから、声を潜めた。
「それがだな……肝心の娘が昨晩から行方知らずで、家の者達が今必死で探し回っているところなのだ」
「えっ……?」
「未央が後宮入りするのを嫌がっていたのは知っていた。けれど国からお声が掛かった以上、拒むことなど許されぬ。どうにか説得したつもりだったのだが……」
木蘭は伯父の言葉に顔を青ざめさせる。一度後宮入りが決まってしまえば辞退できるわけがないことくらい、まだ十六歳の木蘭でさえ理解している。皇帝の命は絶対で拒否しようものなら本人どころか一族まとめて死罪の可能性だってある。当然、姜を名乗る木蘭も同罪を被ることになる。
「え、ええっ……⁉」
騒ぐなとでも言うように伯父から首を横に振られて、慌てて口元を手で押さえる。まだこの事実は一部の家人しか知らされていないのだという。早急に未央を探し出し、無事に都へ送り出すつもりではいると語る伯父の言葉を、今の木蘭には信じる以外にない。目の前に死罪がチラつき、父と母の物と並んで自分の首が道端に晒されている光景が頭に浮かび、ぞくりと背筋が一気に冷えた。
「ただ、万が一の時は――」と嘗君が姪に向かって話し続ける。その声はそれまでに見せていた人当たりの良い伯父のものではなく、姜一族を率いる当主の冷徹さを帯びていて、ただの小娘にはとても反論できるものではなかった。
「明朝までに娘が見つからなければ、木蘭、お前が代わりに妃として後宮に入れ」
「わ、私が、ですか……?」
「ああ、背丈も似たようなものだ。歳も一つくらいなら何とか誤魔化せるだろう。お前が未央のフリをしている間に、娘を探し出して後から向かわせる。その後は予定通りに侍女として仕えてくれたらいい」
さらに顔色を悪くさせた木蘭に向かって、「なぁに、下級妃の一人くらい途中で入れ代わっても誰も気付きやしない」と嘗君は軽く言ってのけるが、それもバレたら死罪に違いない。ならば他にどうすればと問われても木蘭には何も思いつかなかった。
「……必ず、姐様を見つけてくださいね」
「ああ、約束しよう。もちろん、身代りだろうがお前のことは我が娘としてしっかり支えてやるから安心せい」
それは木蘭のためというよりは、後宮入りさせたのが偽物だとバレないようにする意味合いの方が大きいのだろう。翌朝、やはり行方が分からなかったという従姉妹に代わって、木蘭は沢山の荷物と一緒に二輪馬車で都へと向かった。鮮やかな朱色の裙と杏子色の上衣に薄絹を纏い、まるで別人のように濃い化粧を施されて。
――ああ、何でこんなことに……
馬に揺られながら、木蘭は何度も外の景色を眺めては深い溜め息を吐き続けた。
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