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第二話・後宮入り
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「未央様、お疲れではございませんか? ……未央様? 未央様?」
「えっ? あっ……ええ、何ともありません」
馬車を降りる際にすぐ横から声を掛けられたのに、木蘭はそれが自分に対しての言葉だと気付くのが遅れて慌てて返事する。行方知らずの従姉妹が見つかるまで自分が未央だという自覚はまだいまいちない。違う名で呼ばれたことで反応が遅くなったけれど、声を掛けてきた侍女の香鈴は疲れているからだと思ってくれたみたいで、労わるような目をしている。
「着いたらすぐに湯の用意をいたしましょう。疲れた身体は温めてやるのが一番ですから」
「そうね。早々で主上のお渡りがないとも限らないわ」
本家で初めて顔を合わせた香鈴と春麗はどちらも姜家の遠縁の娘だと聞いた。嘗君も此度初めて会ったと言っていたから、おそらく二人とも本物の未央の顔を知らないのだろう。木蘭のことを未央だと信じきっていて疑っている様子はない。
春麗は一度嫁いだ経験があるらしいが、子が出来なかったことで離縁されて実家へ戻ってきていたという。伯父からは彼女の方を侍女頭に置くようにという指示を受けた。一方、香鈴は木蘭より二つ年上だけれど木蘭の様子をよく見ているようで、都までの道中もかなり細かく気遣って声を掛けてくれていた。
――もし身代りがバレたら、私だけじゃなく春麗達も……
いくら事情は知らなくても姜家の遠縁である以上、侍女達も処罰の対象となるはずだ。巻き込んでしまってはダメだと、木蘭は落ち着き払った表情を作りながら「ありがとう、もう平気よ」と未央っぽさを出して穏やかに微笑み返してみせる。木蘭の記憶の中の未央は淑やかで朗らかな年上の従姉妹。大人しくて親の言うことを決して逆らうようなことはしない――はずだった。
――あの未央姐様が勝手して逃げ出すなんて、どうして?
数年会っていない間に何か変わってしまったんだろうか。今どこにいて、どう過ごしているんだろうか。木蘭は幼い頃によく面倒をみてくれた優しい従姉妹のことを思い浮かべて心を痛める。姐さまにお仕えできるのを楽しみにしていたのに、と。
姜妃に与えられた殿舎は後宮の東側に位置する青龍宮の中にあった。後宮は大きく四つの宮に分かれ、それぞれで上級妃から下級妃までが生活していて、後宮全体では妃の数は余裕で百を超えるという。そして、その十倍以上の宮女達が仕えている。それだけでなく、馬を降りて篭に乗り換えて殿舎へ向かう途中、暗い色の袍を着た男性の姿を何人も見かけた。それらは全て男性器を失った宦官だ。この後宮内で男としての機能を備えたまま出入りできる存在は限られている。ここは皇帝に身を捧げる妃達の生活の場なのだから当然だ。
青龍宮の中は妃の階級によって殿舎が区分されているようで、奥まった場所にある一番大きな建物は四妃の一人である徳妃が居住していると説明を受けた。その手前の建物を中級妃、下級妃へそれぞれ与えられ、木蘭には中級妃寄りの場所を宛がわれているようだった。後宮入りに際し、伯父がかなりの金子を積んだのがよく分かる位置付けだ。未央の後宮入りはかなり期待されていたのだろう。
宦官の手を借りて馬車から荷物が次々に運び込まれてくるのを、別の殿舎からたくさんの視線が飛び交ってきているのに気付く。周囲を見回せば遠巻きに何人もの侍女や妃らしき女達が柱越しや窓の隙間から覗き見しているようで、木蘭は慌てて建物の中へ逃げ込んだ。今後、本物の未央と入れ代わることを考えたら、木蘭自身は出来得る限り表立たないでいる方がいい。素顔が分からないほど濃い化粧を施していても、同性の目は誤魔化すのが大変だろうから。
「どこのご令嬢かしらって、早速お噂になっているみたいですよ」
荷物の運び込み先の指示を出すために建物の外にいた香鈴が、すでに何名かの妃や侍女達から直接問いかけられたと少し興奮気味に殿舎の扉を入ってくる。
「聞くところによると、後宮に入ってすぐのお渡りは前例がないそうなので荷解きはそこまで急がなくて良いそうですよ」
「あら、香鈴、もう親しい知り合いができたの?」
「違いますよー。こちらが聞かれる一方では面白くなかったので、反対にいろいろ質問してみただけです。あ、春麗さん、部屋付きの宮女達は裏にある厨に集まってるそうなので、そちらお願いしていいですか?」
「じゃあ、ついでに湯浴みの用意もお願いしてこようかしら」
明るく快活な香鈴はあまり人見知りをしないのか、偵察でいろいろ聞いてきた他所の妃の侍女に対して倍返しで質問攻めしたと得意げに鼻を膨らませていた。若い侍女の頼もしい言い草に、侍女頭の春麗は呆れ笑いの顔のまま建物の裏手へと回っていった。この二人も初対面同士だと聞いてはいたが、なかなか相性は良いのか上手くやってくれそうではある。
「未央様、先にお召し物をお替えになられては? ええっと、衣装はどちらにしまい込まれていたかしら……?」
木蘭のところに残った香鈴が積み上げられた木箱を眺めながら、その側面に書き込まれている目録を確認していく。この季節に着れる衣装がまとめられたものを見つけて中を覗き込みながら、木蘭の顔と交互に見合わせてから少し首を傾げる。
「淡いお色の方がお似合いだと思うのですが、濃い物の方が多くお持ちなのですね?」
「そ、そうかも……」
届けられたのはほとんど全て本物の未央のために誂えた物ばかり。中にはもちろん木蘭の荷物も含まれてはいるが、それは侍女としてお仕えする時のもの。母親似ではっきりした顔立ちの従姉妹に合わせて作られた衣は、まだ幼さの残る木蘭には着こなせそうもない。香鈴はたくさんの衣の中から主に似合いそうな淡い色合いのものを何とか見つけ出し、それを広げてから再び困惑顔になる。
「……お胸の辺り、少し詰めさせていただいた方が良さそうですね。仕立てられた時よりお痩せになられました?」
「え、ええ……そうかも」
伯父は背丈は似たようなものだと言っていたが、どうやら本物とは胸の寸法に差があるようだ。木蘭は嫌な汗が流れ落ちるのを感じた。
「えっ? あっ……ええ、何ともありません」
馬車を降りる際にすぐ横から声を掛けられたのに、木蘭はそれが自分に対しての言葉だと気付くのが遅れて慌てて返事する。行方知らずの従姉妹が見つかるまで自分が未央だという自覚はまだいまいちない。違う名で呼ばれたことで反応が遅くなったけれど、声を掛けてきた侍女の香鈴は疲れているからだと思ってくれたみたいで、労わるような目をしている。
「着いたらすぐに湯の用意をいたしましょう。疲れた身体は温めてやるのが一番ですから」
「そうね。早々で主上のお渡りがないとも限らないわ」
本家で初めて顔を合わせた香鈴と春麗はどちらも姜家の遠縁の娘だと聞いた。嘗君も此度初めて会ったと言っていたから、おそらく二人とも本物の未央の顔を知らないのだろう。木蘭のことを未央だと信じきっていて疑っている様子はない。
春麗は一度嫁いだ経験があるらしいが、子が出来なかったことで離縁されて実家へ戻ってきていたという。伯父からは彼女の方を侍女頭に置くようにという指示を受けた。一方、香鈴は木蘭より二つ年上だけれど木蘭の様子をよく見ているようで、都までの道中もかなり細かく気遣って声を掛けてくれていた。
――もし身代りがバレたら、私だけじゃなく春麗達も……
いくら事情は知らなくても姜家の遠縁である以上、侍女達も処罰の対象となるはずだ。巻き込んでしまってはダメだと、木蘭は落ち着き払った表情を作りながら「ありがとう、もう平気よ」と未央っぽさを出して穏やかに微笑み返してみせる。木蘭の記憶の中の未央は淑やかで朗らかな年上の従姉妹。大人しくて親の言うことを決して逆らうようなことはしない――はずだった。
――あの未央姐様が勝手して逃げ出すなんて、どうして?
数年会っていない間に何か変わってしまったんだろうか。今どこにいて、どう過ごしているんだろうか。木蘭は幼い頃によく面倒をみてくれた優しい従姉妹のことを思い浮かべて心を痛める。姐さまにお仕えできるのを楽しみにしていたのに、と。
姜妃に与えられた殿舎は後宮の東側に位置する青龍宮の中にあった。後宮は大きく四つの宮に分かれ、それぞれで上級妃から下級妃までが生活していて、後宮全体では妃の数は余裕で百を超えるという。そして、その十倍以上の宮女達が仕えている。それだけでなく、馬を降りて篭に乗り換えて殿舎へ向かう途中、暗い色の袍を着た男性の姿を何人も見かけた。それらは全て男性器を失った宦官だ。この後宮内で男としての機能を備えたまま出入りできる存在は限られている。ここは皇帝に身を捧げる妃達の生活の場なのだから当然だ。
青龍宮の中は妃の階級によって殿舎が区分されているようで、奥まった場所にある一番大きな建物は四妃の一人である徳妃が居住していると説明を受けた。その手前の建物を中級妃、下級妃へそれぞれ与えられ、木蘭には中級妃寄りの場所を宛がわれているようだった。後宮入りに際し、伯父がかなりの金子を積んだのがよく分かる位置付けだ。未央の後宮入りはかなり期待されていたのだろう。
宦官の手を借りて馬車から荷物が次々に運び込まれてくるのを、別の殿舎からたくさんの視線が飛び交ってきているのに気付く。周囲を見回せば遠巻きに何人もの侍女や妃らしき女達が柱越しや窓の隙間から覗き見しているようで、木蘭は慌てて建物の中へ逃げ込んだ。今後、本物の未央と入れ代わることを考えたら、木蘭自身は出来得る限り表立たないでいる方がいい。素顔が分からないほど濃い化粧を施していても、同性の目は誤魔化すのが大変だろうから。
「どこのご令嬢かしらって、早速お噂になっているみたいですよ」
荷物の運び込み先の指示を出すために建物の外にいた香鈴が、すでに何名かの妃や侍女達から直接問いかけられたと少し興奮気味に殿舎の扉を入ってくる。
「聞くところによると、後宮に入ってすぐのお渡りは前例がないそうなので荷解きはそこまで急がなくて良いそうですよ」
「あら、香鈴、もう親しい知り合いができたの?」
「違いますよー。こちらが聞かれる一方では面白くなかったので、反対にいろいろ質問してみただけです。あ、春麗さん、部屋付きの宮女達は裏にある厨に集まってるそうなので、そちらお願いしていいですか?」
「じゃあ、ついでに湯浴みの用意もお願いしてこようかしら」
明るく快活な香鈴はあまり人見知りをしないのか、偵察でいろいろ聞いてきた他所の妃の侍女に対して倍返しで質問攻めしたと得意げに鼻を膨らませていた。若い侍女の頼もしい言い草に、侍女頭の春麗は呆れ笑いの顔のまま建物の裏手へと回っていった。この二人も初対面同士だと聞いてはいたが、なかなか相性は良いのか上手くやってくれそうではある。
「未央様、先にお召し物をお替えになられては? ええっと、衣装はどちらにしまい込まれていたかしら……?」
木蘭のところに残った香鈴が積み上げられた木箱を眺めながら、その側面に書き込まれている目録を確認していく。この季節に着れる衣装がまとめられたものを見つけて中を覗き込みながら、木蘭の顔と交互に見合わせてから少し首を傾げる。
「淡いお色の方がお似合いだと思うのですが、濃い物の方が多くお持ちなのですね?」
「そ、そうかも……」
届けられたのはほとんど全て本物の未央のために誂えた物ばかり。中にはもちろん木蘭の荷物も含まれてはいるが、それは侍女としてお仕えする時のもの。母親似ではっきりした顔立ちの従姉妹に合わせて作られた衣は、まだ幼さの残る木蘭には着こなせそうもない。香鈴はたくさんの衣の中から主に似合いそうな淡い色合いのものを何とか見つけ出し、それを広げてから再び困惑顔になる。
「……お胸の辺り、少し詰めさせていただいた方が良さそうですね。仕立てられた時よりお痩せになられました?」
「え、ええ……そうかも」
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