三毛猫が紡ぐ ~渡り猫の見た景色~

瀬崎由美

文字の大きさ
27 / 31
第六章・夜勤明けに猫

第三話

しおりを挟む
 湧き上がってきた空虚感を抱いたまま、美紗はバインダーに挟んだ書類の文字を目で追っていく。自分が担当する患者だけじゃなく、病棟全体の申し送り事項も細かく確認し、出来るだけ平穏に今日という日を過ごせることだけに気を配る。

 夜勤の職員達との申し送りを終え、担当する部屋を順に見回っていく。血圧計などを乗せたワゴンを押し、大部屋のスライド式ドアを横に引けば、朝食に出された味噌汁と焼き魚の香りがムワッと押し寄せてくる。今朝は定番の焼き魚定食だったみたいだ。

「おはようございます。お食事中に申し訳ないです。ちょっと血圧とお熱を測らせて貰えますか?」

 耳の遠いお婆ちゃんに向けて、大きめに声を掛ける。食事する手を止めて、黙って差し出してこられた腕は、かなりむくんでいる。身寄りが無いという金井キヌは八十三歳。三か月前に他の病院から移ってきた患者で、末期の肺がんを患っている。前の病院では何度か手術を受けたみたいだが、もう抗がん治療はしたくないらしく、この病院では緩和ケアが中心だ。血圧を測りながら腕のむくみ具合もチェックした後、身体の向きを変え、隣のベッドの様子を覗き見る。

「波多野さん、お腹減ってないんですか? 朝ご飯、もう来てますよ?」

 ベッドサイドに置かれた朝食は、手付かずのまま放置されている。頭まですっぽりと被っている掛布団をそっと捲ってみると、枕の上に広がった明るい茶髪の横にはイヤフォンが転がっている。この女子高生は何度注意されても、全く言うことを聞いてくれない。

「また遅くまで動画見てたんでしょう? 入院中はちゃんと規則正しい生活してくれないと――」
「ううん……まだ眠いし、ご飯いらない。てか、朝からそんなガッツリは無理って」

 朝食を食べない子供の典型だ。とりあえず、お味噌汁だけでも飲みなさいと声を掛けてから、他のベッドも診回っていく。

 五人が入れる大部屋で唯一誰も入っていない窓際のベッドは、一昨日まではショートヘアの物静かな五十代の女性が使っていた。二週間ほどの短期入院で、今は自宅からの通院に切り替わっている。あまり病室にはいない人で、たまに待合室のベンチで編み物をしているのを見かけることがあった。

 ――その前にあのベッドを使ってたのは、リハビリ嫌いの大山さんだっけ……。

 数日や数週間だけの短期入院だろうと、何となく患者の顔と病状は覚えてしまっている。病室のベッドを思い浮かべると、そこを利用していた人のことを思い出す。一種の職業病だろうか。

 隣の病室へと移動すると、まだ面会時間前だというのに、入口手前のベッドには患者の家族の姿があった。モソモソと病院食を口に運んでいる白髪の老婆、綾瀬ハツの横で、娘だという中年女性がマシンガントークを繰り広げていた。
 病室に入る前から話し声が漏れていたから、美紗は戸に手を掛ける前にハァと小さな溜め息をついた。この娘さんは、ちょっと苦手だ。だって、親戚の小煩い叔母さんを彷彿とさせるから。母方の叔母は、顔を合わせる度に従兄弟達の話を自慢げに聞かせてきて、遠巻きにマウントを取ろうとしてくる。

「こないだ、西村のおじさんのお見舞いに行ってきたのよ。あそこの総合病院、つい最近に病棟を建て替えたでしょう? ものすごく綺麗だったわぁ。ここは古いし、病室も狭いし、何だか薄暗いじゃない? お母さんも向こうに転院させて貰えないのかしらねぇ」

 ハツの娘はこれみよがしに、美紗にも聞こえるように話を続けている。建物に年季が入っているのなんて、入院する前から分かっていただろうに……。
 この部屋の患者はハツ以外は耳があまりよくない。だから、娘が病室の中で好き勝手言っていても、気にするような人は誰もいない。

「でも、佐々木先生にずっと診ていただいてるから。今更、別の先生に替わるのは嫌だわ……」
「それはそうなんだけど。ほら、お母さんもいつも文句言ってるじゃない。夜、あまり眠れないんでしょう? 匂いだってねぇ」

 微妙な表情で「まあねぇ……」と頷き返した母親を見て、ハツの娘は隣のベッドを巡回中の看護師へと訴え掛けることにしたようだった。呼び止められた美紗は、測ったばかりの血圧の数値を記入する手を止めてから、これまでの会話は聞こえていなかったふりをして振り返った。

「ねえ、病室って変えて貰えないのかしら? この部屋では母が可哀そうなんだけど」
「え、別の病室に、ですか?」
「ええ、隣の方のイビキが煩くて眠れないっていつも言ってるのよ。あと、部屋の中でトイレする人もいるでしょう? その匂いが辛いらしいのよね……」

 高齢の患者の多い病室だから、中にはオムツを着用している人もいるし、そうでなくても共用トイレまで歩いていけないからと、簡易便器をベッド横に設置している人もいる。大部屋ならではのクレームは、美紗達が抱える問題の一つだ。

「そうですか……、病室の空きはちょっと確認してみないことには。念の為、佐々木先生にも――」

 途中まで言いかけて、美紗はワゴンに乗せていたバインダーを見返す。そういえば昨日は退院が何件かあったはずだ。

「多分、個室ならすぐ用意できると思いますよ。大部屋よりはトイレも近くなりますし――」
「え、個室なんて差額料金がかかるじゃないの?!」

 個室と聞いた途端、娘がさっと顔色を変える。母親の為にとキツくクレームを言ってくるが、追加料金を払う気はないらしい。口は出すが金は出さないという訳か。ハツ本人は、「私は別にここのままでいいから……」と困り顔でベッド横の娘のことを必死で宥めている。

 必要最低限の費用でより快適な入院生活を、というのはこの規模の総合病院では少し無理な願いだ。美紗は心の中で大きく溜め息をついた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

清楚な執事長、常駐位置が“お嬢様の隣”に確定しました

星乃和花
恋愛
⭐︎完結済ー本編8話・後日談12話⭐︎ 清楚で完璧、屋敷の秩序そのもの——そんな執事長ユリウスの“常駐位置”が、なぜか私の隣に確定しました。 膝掛けは標準装備、角砂糖は二つ、そして「隣にいます」が口癖に。 さらに恐ろしいことに、私が小声で“要求”すると、清楚な笑顔で「承知しました」と甘く返事をしてくるのです。 社交は上品に、恋心は必死に隠したい。 なのに執事長は、恋を“業務改善”みたいに制度化して逃がしてくれない——! むっつり令嬢の乙女心臓が限界を迎える、甘々コメディ恋愛譚。 清楚な顔の執事長が、あなたの心臓まで囲い込みにきます。

冤罪で辺境に幽閉された第4王子

satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。 「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。 辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

彼女が望むなら

mios
恋愛
公爵令嬢と王太子殿下の婚約は円満に解消された。揉めるかと思っていた男爵令嬢リリスは、拍子抜けした。男爵令嬢という身分でも、王妃になれるなんて、予定とは違うが高位貴族は皆好意的だし、王太子殿下の元婚約者も応援してくれている。 リリスは王太子妃教育を受ける為、王妃と会い、そこで常に身につけるようにと、ある首飾りを渡される。

再婚相手の連れ子は、僕が恋したレンタル彼女。――完璧な義妹は、深夜の自室で「練習」を強いてくる

まさき
恋愛
「初めまして、お兄さん。これからよろしくお願いしますね」 父の再婚によって現れた義理の妹・水瀬 凛(みなせ りん)。 清楚なワンピースを纏い、非の打ち所がない笑顔で挨拶をする彼女を見て、僕は息が止まるかと思った。 なぜなら彼女は、僕が貯金を叩いて一度だけレンタルし、その圧倒的なプロ意識と可憐さに――本気で恋をしてしまった人気No.1レンタル彼女だったから。 学校では誰もが憧れる高嶺の花。 家では親も感心するほど「理想の妹」を演じる彼女。 しかし、二人きりになった深夜のキッチンで、彼女は冷たい瞳で僕を射抜く。 「……私の仕事のこと、親に言ったらタダじゃおかないから」 秘密を共有したことで始まった、一つ屋根の下の奇妙な生活。 彼女は「さらなるスキルアップ」を名目に、僕の部屋を訪れるようになる。 「ねえ、もっと本気で抱きしめて。……そんなんじゃ、次のデートの練習にならないでしょ?」 これは、仕事(レンタル)か、演技(家族)か、それとも――。 完璧すぎる義妹に翻弄され、理性が溶けていく10日間の物語。 『著者より』 もしこの話が合えば、マイページに他の作品も置いてあります。 https://www.alphapolis.co.jp/author/detail/658724858

無能の少女は鬼神に愛され娶られる

遠野まさみ
キャラ文芸
人とあやかしが隣り合わせに暮らしていたいにしえの時代、人の中に、破妖の力を持つ人がいた。 その一族の娘・咲は、破妖の力を持たず、家族から無能と罵られてきた。 ある日、咲が華族の怒りを買い、あやかしの餌として差し出されたところを、美貌の青年が咲を救う。 青年はおにかみの一族の長だと言い、咲を里に連れて帰りーーーー?

逃げた弟のかわりに溺愛アルファに差し出されました。初夜で抱かれたら身代わりがばれてしまいます💦

雪代鞠絵/15分で萌えるBL小説
BL
逃げた弟の身代わりとなり、 隣国の国王である溺愛アルファに嫁いだオメガ。 しかし実は、我儘で結婚から逃げ出した双子の弟の身代わりなのです… オメガだからと王宮で冷遇されていたので、身代わり結婚にも拒否権が なかたのでした。 本当の花嫁じゃない。 だから何としても初夜は回避しなければと思うのですが、 だんだん王様に惹かれてしまい、苦しくなる…という お話です。よろしくお願いします<(_ _)>

処理中です...