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第六章・夜勤明けに猫
第三話
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湧き上がってきた空虚感を抱いたまま、美紗はバインダーに挟んだ書類の文字を目で追っていく。自分が担当する患者だけじゃなく、病棟全体の申し送り事項も細かく確認し、出来るだけ平穏に今日という日を過ごせることだけに気を配る。
夜勤の職員達との申し送りを終え、担当する部屋を順に見回っていく。血圧計などを乗せたワゴンを押し、大部屋のスライド式ドアを横に引けば、朝食に出された味噌汁と焼き魚の香りがムワッと押し寄せてくる。今朝は定番の焼き魚定食だったみたいだ。
「おはようございます。お食事中に申し訳ないです。ちょっと血圧とお熱を測らせて貰えますか?」
耳の遠いお婆ちゃんに向けて、大きめに声を掛ける。食事する手を止めて、黙って差し出してこられた腕は、かなりむくんでいる。身寄りが無いという金井キヌは八十三歳。三か月前に他の病院から移ってきた患者で、末期の肺がんを患っている。前の病院では何度か手術を受けたみたいだが、もう抗がん治療はしたくないらしく、この病院では緩和ケアが中心だ。血圧を測りながら腕のむくみ具合もチェックした後、身体の向きを変え、隣のベッドの様子を覗き見る。
「波多野さん、お腹減ってないんですか? 朝ご飯、もう来てますよ?」
ベッドサイドに置かれた朝食は、手付かずのまま放置されている。頭まですっぽりと被っている掛布団をそっと捲ってみると、枕の上に広がった明るい茶髪の横にはイヤフォンが転がっている。この女子高生は何度注意されても、全く言うことを聞いてくれない。
「また遅くまで動画見てたんでしょう? 入院中はちゃんと規則正しい生活してくれないと――」
「ううん……まだ眠いし、ご飯いらない。てか、朝からそんなガッツリは無理って」
朝食を食べない子供の典型だ。とりあえず、お味噌汁だけでも飲みなさいと声を掛けてから、他のベッドも診回っていく。
五人が入れる大部屋で唯一誰も入っていない窓際のベッドは、一昨日まではショートヘアの物静かな五十代の女性が使っていた。二週間ほどの短期入院で、今は自宅からの通院に切り替わっている。あまり病室にはいない人で、たまに待合室のベンチで編み物をしているのを見かけることがあった。
――その前にあのベッドを使ってたのは、リハビリ嫌いの大山さんだっけ……。
数日や数週間だけの短期入院だろうと、何となく患者の顔と病状は覚えてしまっている。病室のベッドを思い浮かべると、そこを利用していた人のことを思い出す。一種の職業病だろうか。
隣の病室へと移動すると、まだ面会時間前だというのに、入口手前のベッドには患者の家族の姿があった。モソモソと病院食を口に運んでいる白髪の老婆、綾瀬ハツの横で、娘だという中年女性がマシンガントークを繰り広げていた。
病室に入る前から話し声が漏れていたから、美紗は戸に手を掛ける前にハァと小さな溜め息をついた。この娘さんは、ちょっと苦手だ。だって、親戚の小煩い叔母さんを彷彿とさせるから。母方の叔母は、顔を合わせる度に従兄弟達の話を自慢げに聞かせてきて、遠巻きにマウントを取ろうとしてくる。
「こないだ、西村のおじさんのお見舞いに行ってきたのよ。あそこの総合病院、つい最近に病棟を建て替えたでしょう? ものすごく綺麗だったわぁ。ここは古いし、病室も狭いし、何だか薄暗いじゃない? お母さんも向こうに転院させて貰えないのかしらねぇ」
ハツの娘はこれみよがしに、美紗にも聞こえるように話を続けている。建物に年季が入っているのなんて、入院する前から分かっていただろうに……。
この部屋の患者はハツ以外は耳があまりよくない。だから、娘が病室の中で好き勝手言っていても、気にするような人は誰もいない。
「でも、佐々木先生にずっと診ていただいてるから。今更、別の先生に替わるのは嫌だわ……」
「それはそうなんだけど。ほら、お母さんもいつも文句言ってるじゃない。夜、あまり眠れないんでしょう? 匂いだってねぇ」
微妙な表情で「まあねぇ……」と頷き返した母親を見て、ハツの娘は隣のベッドを巡回中の看護師へと訴え掛けることにしたようだった。呼び止められた美紗は、測ったばかりの血圧の数値を記入する手を止めてから、これまでの会話は聞こえていなかったふりをして振り返った。
「ねえ、病室って変えて貰えないのかしら? この部屋では母が可哀そうなんだけど」
「え、別の病室に、ですか?」
「ええ、隣の方のイビキが煩くて眠れないっていつも言ってるのよ。あと、部屋の中でトイレする人もいるでしょう? その匂いが辛いらしいのよね……」
高齢の患者の多い病室だから、中にはオムツを着用している人もいるし、そうでなくても共用トイレまで歩いていけないからと、簡易便器をベッド横に設置している人もいる。大部屋ならではのクレームは、美紗達が抱える問題の一つだ。
「そうですか……、病室の空きはちょっと確認してみないことには。念の為、佐々木先生にも――」
途中まで言いかけて、美紗はワゴンに乗せていたバインダーを見返す。そういえば昨日は退院が何件かあったはずだ。
「多分、個室ならすぐ用意できると思いますよ。大部屋よりはトイレも近くなりますし――」
「え、個室なんて差額料金がかかるじゃないの?!」
個室と聞いた途端、娘がさっと顔色を変える。母親の為にとキツくクレームを言ってくるが、追加料金を払う気はないらしい。口は出すが金は出さないという訳か。ハツ本人は、「私は別にここのままでいいから……」と困り顔でベッド横の娘のことを必死で宥めている。
必要最低限の費用でより快適な入院生活を、というのはこの規模の総合病院では少し無理な願いだ。美紗は心の中で大きく溜め息をついた。
夜勤の職員達との申し送りを終え、担当する部屋を順に見回っていく。血圧計などを乗せたワゴンを押し、大部屋のスライド式ドアを横に引けば、朝食に出された味噌汁と焼き魚の香りがムワッと押し寄せてくる。今朝は定番の焼き魚定食だったみたいだ。
「おはようございます。お食事中に申し訳ないです。ちょっと血圧とお熱を測らせて貰えますか?」
耳の遠いお婆ちゃんに向けて、大きめに声を掛ける。食事する手を止めて、黙って差し出してこられた腕は、かなりむくんでいる。身寄りが無いという金井キヌは八十三歳。三か月前に他の病院から移ってきた患者で、末期の肺がんを患っている。前の病院では何度か手術を受けたみたいだが、もう抗がん治療はしたくないらしく、この病院では緩和ケアが中心だ。血圧を測りながら腕のむくみ具合もチェックした後、身体の向きを変え、隣のベッドの様子を覗き見る。
「波多野さん、お腹減ってないんですか? 朝ご飯、もう来てますよ?」
ベッドサイドに置かれた朝食は、手付かずのまま放置されている。頭まですっぽりと被っている掛布団をそっと捲ってみると、枕の上に広がった明るい茶髪の横にはイヤフォンが転がっている。この女子高生は何度注意されても、全く言うことを聞いてくれない。
「また遅くまで動画見てたんでしょう? 入院中はちゃんと規則正しい生活してくれないと――」
「ううん……まだ眠いし、ご飯いらない。てか、朝からそんなガッツリは無理って」
朝食を食べない子供の典型だ。とりあえず、お味噌汁だけでも飲みなさいと声を掛けてから、他のベッドも診回っていく。
五人が入れる大部屋で唯一誰も入っていない窓際のベッドは、一昨日まではショートヘアの物静かな五十代の女性が使っていた。二週間ほどの短期入院で、今は自宅からの通院に切り替わっている。あまり病室にはいない人で、たまに待合室のベンチで編み物をしているのを見かけることがあった。
――その前にあのベッドを使ってたのは、リハビリ嫌いの大山さんだっけ……。
数日や数週間だけの短期入院だろうと、何となく患者の顔と病状は覚えてしまっている。病室のベッドを思い浮かべると、そこを利用していた人のことを思い出す。一種の職業病だろうか。
隣の病室へと移動すると、まだ面会時間前だというのに、入口手前のベッドには患者の家族の姿があった。モソモソと病院食を口に運んでいる白髪の老婆、綾瀬ハツの横で、娘だという中年女性がマシンガントークを繰り広げていた。
病室に入る前から話し声が漏れていたから、美紗は戸に手を掛ける前にハァと小さな溜め息をついた。この娘さんは、ちょっと苦手だ。だって、親戚の小煩い叔母さんを彷彿とさせるから。母方の叔母は、顔を合わせる度に従兄弟達の話を自慢げに聞かせてきて、遠巻きにマウントを取ろうとしてくる。
「こないだ、西村のおじさんのお見舞いに行ってきたのよ。あそこの総合病院、つい最近に病棟を建て替えたでしょう? ものすごく綺麗だったわぁ。ここは古いし、病室も狭いし、何だか薄暗いじゃない? お母さんも向こうに転院させて貰えないのかしらねぇ」
ハツの娘はこれみよがしに、美紗にも聞こえるように話を続けている。建物に年季が入っているのなんて、入院する前から分かっていただろうに……。
この部屋の患者はハツ以外は耳があまりよくない。だから、娘が病室の中で好き勝手言っていても、気にするような人は誰もいない。
「でも、佐々木先生にずっと診ていただいてるから。今更、別の先生に替わるのは嫌だわ……」
「それはそうなんだけど。ほら、お母さんもいつも文句言ってるじゃない。夜、あまり眠れないんでしょう? 匂いだってねぇ」
微妙な表情で「まあねぇ……」と頷き返した母親を見て、ハツの娘は隣のベッドを巡回中の看護師へと訴え掛けることにしたようだった。呼び止められた美紗は、測ったばかりの血圧の数値を記入する手を止めてから、これまでの会話は聞こえていなかったふりをして振り返った。
「ねえ、病室って変えて貰えないのかしら? この部屋では母が可哀そうなんだけど」
「え、別の病室に、ですか?」
「ええ、隣の方のイビキが煩くて眠れないっていつも言ってるのよ。あと、部屋の中でトイレする人もいるでしょう? その匂いが辛いらしいのよね……」
高齢の患者の多い病室だから、中にはオムツを着用している人もいるし、そうでなくても共用トイレまで歩いていけないからと、簡易便器をベッド横に設置している人もいる。大部屋ならではのクレームは、美紗達が抱える問題の一つだ。
「そうですか……、病室の空きはちょっと確認してみないことには。念の為、佐々木先生にも――」
途中まで言いかけて、美紗はワゴンに乗せていたバインダーを見返す。そういえば昨日は退院が何件かあったはずだ。
「多分、個室ならすぐ用意できると思いますよ。大部屋よりはトイレも近くなりますし――」
「え、個室なんて差額料金がかかるじゃないの?!」
個室と聞いた途端、娘がさっと顔色を変える。母親の為にとキツくクレームを言ってくるが、追加料金を払う気はないらしい。口は出すが金は出さないという訳か。ハツ本人は、「私は別にここのままでいいから……」と困り顔でベッド横の娘のことを必死で宥めている。
必要最低限の費用でより快適な入院生活を、というのはこの規模の総合病院では少し無理な願いだ。美紗は心の中で大きく溜め息をついた。
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