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第三十一話・ウーノの石壁

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 乳母からマローネの首がしっかりしてきたという報告を受けて、久しぶりに子供達の部屋を覗いたマリスは、ベビーベッドの中の濁りのない澄んだ黒色の瞳を覗き込んだ。

「あら、起きている時に会うのは久しぶりかしら」
「ふふふ、いつもよく眠られてますからね」

 いつも寝顔か癇癪を起こして泣いている顔ばかりだった気がするから、マローネのはっきりした二重をまともに見た記憶がない。ベッドの上から話し掛けるマリスの顔をじっと見つめ返している赤子の顔は随分としっかりしたように思う。
 聞き慣れた乳母の声に気付けば、そちらの方へ首を動かして探す素振りも見せていた。

 子供達の洗い立ての小さな着替えを畳みながら、メリッサは若き主が戸惑いつつも腕を伸ばして赤子を抱き上げている姿を微笑ましく見守っていた。部屋の隅ではマリスに付いて入室して来た黒猫が、三毛の子猫にじゃれ付かれて煩わしそうに前脚で払い除けたり、逃げ回ったりしている。

「今日はウーノまで行くから、少し長く出ていることになるわ。もし何かあったらこの子は置いて逃げるのよ。部屋から出れば平気だから」
「かしこまりました。その……一人きりにされてもマローネ様は、大丈夫なんでしょうか?」
「魔力を使い切ってしまえば、疲れて寝てしまうわ。そうね、怪我はしないようお守りは必要かもしれないけれど」

 マリスの不在時に魔力暴走を起こした場合について、乳母と対応の再確認をする。部屋全体に張り巡らせた結界があるので、メリッサ達は廊下へ逃げれば問題ない。だが、乳母は自分の身の安全よりも、泣いている状態で部屋に置き去りにされる女児が不憫で仕方ないようだった。

 マリスの出先へ一緒に連れていくには、まだマローネは小さ過ぎる。ようやく日中に少しだけ庭の散歩へ出れるようになったくらいなのだ。
 早めに戻るようにはするけれど、と言いながら、辺境の魔女は軽く首を傾げながら少し考え、一旦は自室へ戻ると、鏡台の引き出しにしまわれていた黄色の魔石付きのブローチを持ち出した。

「私が幼い頃に使っていた物だから、金具が壊れていてアクセサリーとしては使えないんだけど……」
「守護石ですね。簡易結界でしょうか?」

 花をモチーフにしたブローチに埋め込まれているのは、黄色の魔石。非常時に周辺に結界魔法を自動発動する魔法陣が組み込まれているので、いざという時のお守りとして最適だ。ただし、一般領民にはそう簡単に手が出せる代物ではない。メリッサも店に飾られている物以外で見たのは初めてだ。

 長くしまい込んでいたせいで空になっていた魔石へ、マリスは指を添えて魔力を流し入れる。これはまだ魔力制御がままならない娘へ、父親が王都から取り寄せてくれた物で、小さいマリスはアクセサリーとしてもお気に入りでいつも身に付けていた。

「金具は今度修理に出すことにして、今日のところは枕の下にでも入れておけばいいわ」

 子供の頃の思い出を懐かしみながら、マリスは魔力補充を終えたブローチをメリッサへと手渡す。これで万が一の時も部屋の破壊だけで済むだろう。今の様子では心配するようなことは起こりそうもないが、赤子のことだし何が引き金になるかは分からない。


 マリスを乗せた馬車がシード領の西の端にあるウーノの街に着いたのは昼を少し回った頃。隣のサズドール領が管理する森とウーノの街とを隔てる石壁は高い所でも2メートルほどしかない。侵入者を防ぐ為ではなく、単に領境を示す為に建造されただけの物のようだ。
 荷馬車一台がギリギリ通り抜けることが出来る、あまり広くはない門。その脇に設置された検問所には常に検問人が立ち、領間を行き来する人々を監視していた。だが、石壁の様子を見るに、形だけの監視でしかないように思えた。

「これは長さはどのくらいあるの?」
「確か、ウーノの街の西側をぐるりと囲っている感じですね」

 本邸から派遣されてきた役人がマリスと共に石壁を見回して言う。彼は辺境の魔女がこれから行うことの証人となり、彼女の父である領主へ報告する為に同行していた。手に持つ資料を確認しながら、彼の方で事前調査した結果をマリスに伝えていく。

「壁の一部が大きく欠けて、高さが著しく低くなっていた箇所がいくつかございまして。そちらは既に修復作業は終えております。他にも老朽化によって簡単に崩れそうな箇所もあり、そちらは後日作業に入らせる算段になっており、具体的な箇所は――」
「分かったわ。つまりは簡単に森の方から人が入り込める状態なのね」

 細かい区画名を読み上げようとするのを制止し、マリスは説明を遮った。石壁の状況が思っていた以上に悪かったからか、眉を寄せて呆れを含んだ溜息をつく。
 どうやら検問所自体は何度か建て直されたようだが、壁に関しては今回の修復が初めてのようで、領の管理の目がここまでは届いていないことが露呈したも同然だった。

「じゃあ、始めるわね。皆は後ろに下がっていて」

 通常は開け広げられたままの門扉が閉められたのを確認すると、マリスは石壁へとそっと手を添えた。ひんやりと冷えた石の壁は長年の風雨によって表面のゴツゴツは削られ、日当たりの悪い場所に至っては苔に覆われている所もあり、見るからに脆い。

 手の平の触れているところから魔力を流し、辺境の魔女は魔法陣を発動させる。食事も忘れて熱中しながら新たに構築した魔法。北のグリージス領にいる同僚の助言もあって、石壁の防衛を本来の物よりも高く嵩上げし、その硬さをさらに強固な物とさせる。
 魔力を石壁の端から端まで行き渡らせ、魔法陣で描いた力をその隅々まで流し込でいく。一見すると今までと何も変わらないようだが、力尽くで壁を破壊しようとしたり、無理によじ登ろうとすれば、マリスが仕込んだ魔法が発動して弾き飛ばされてしまうはずだ。
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