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第一話・ダブルワーク
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終業時間五分前。キリの良いところで作業を止めて帰り支度を始める者もいれば、一秒でも早く目の前の仕事を片付けようと、急ピッチでキーボードを叩いている者もいる。今新たに指示を追加されたら間違いなく残業確定。後ろから忍び寄ってくる上司の足音に警戒しながら、私、荒川咲良はデスク上のスマホから充電ケーブルを抜き、足下に置いていたトートバッグの外ポケットへと突っ込む。
「あ、咲良、これから営業部のみんなで飲みに行こうって話なんだけど――」
「ごめんっ、今日はバイトが入ってる……」
私が小声で断ると、隣の席の吉川円佳が「そっかぁ……」とちょっと気マズイ顔をする。別に副業が禁止の職場ではないけれど、ダブルワークは大っぴらに推奨されてるわけでもないから腫物に触れる感じの扱いだ。同期入社で私の事情をよく知っている円佳は、「無理しないようにね」と声を掛けてくれた後、反対隣の席の近藤さんのことを誘い始めていた。
私は半日がかりでまとめた資料を課長のデスクへと持って行き、閉じられているノートパソコンの上に置いてマウスを重し代わりに乗っけた。そして、直接手渡さずに済んだことを内心でホッとする。もし課長がこの場にいたら、下手したらついでにと言って別の仕事を頼まれかねない。
――今日のシフト、人足りなかったはずだし……
週に三日ほどアルバイトとして働いているネットカフェ。今週は大学の試験前らしく、学生バイトがごっそりと休日希望を出していた。特に私と同じ夜勤は元から人数がギリギリだから、こういう時は店長が夕方からぶっ通しでシフトに入っていることが多い。
つまり、事務所に引っ込んでいて店頭へほとんど出て来ない店長は頭数に入らないから、実質は夜勤バイト二人で店を営業しなければならないということ。
――休前日だし、早めに出た方が良さそうかな。
きっと夕勤も人手が足りなくてプチパニック状態になっているはずだ。一旦帰宅して着替えている時間は勿体ないと、私は退社後そのままバイト先へと向かう。
ネットカフェ『INARI』は会社と自宅の丁度真ん中辺りにある駅から五分ほど歩いたビルの二階にテナントとして入っている。一階は賃貸専門の不動産屋で、その横の階段を上がったドアを押し開けると、木目調のカウンターに白いシャツに黒のベストとエプロンのギャルソン風制服を着た店員が出迎えてくれる。いかにも体育会系の背が高くがっしりした学生バイトの佐竹君が私の出勤に少し驚いた顔になった。
「荒川さん、早いっすねぇ。おはようっす」
「おはようございます。あれ? 佐竹君は試験は無いんですか?」
「ああ、俺、明日試験の科目がないんで」
あまりにもシフトが埋まらないからと無理矢理入れる日を作らされたらしく、佐竹君は「意外と横暴っすよね」と店長に対するグチを、事務所のあるカウンター裏へ視線を送りながら口にしている。私もそれには苦笑いを浮かべたまま、カウンター前を通り過ぎて奥にあるロッカールームへと向かった。途中、鍵を借りに事務所を覗くとパソコンデスクとスチール棚に埋もれるように店長の玉川さんが事務椅子に座ったまま仮眠していた。
ロッカーで制服へ着替えて戻ると、ブースとの間の防音扉から福山さんが出て来たところだった。手には清掃用具の入った篭を持っているからチェックアウト後の掃除に行っていたのだろう。彼女も私の顔を見て、あれっと首を捻ってからカウンター上の時計に目をやっていた。
「おはようございます。人足りないと思って、早めに来たんですけど大丈夫そう?」
「いやいやいや、めっちゃ助かります! 今日、ブース荒れまくってるんで……」
カウンターの専用パソコンで清掃完了の登録をしながら、福山さんがうんざり顔をする。受付と厨房を佐竹君に任せて一人で清掃して回っているけど、夕方に大量の退店があったおかげでまだ半分近くのブースが清掃待ち状態らしい。
「ええーっ、そうなの? じゃあ、私も清掃に行きますね」
「わ、お願いします!」
そろそろナイトパック狙いの泊まり客が入ってくる時間帯。私はもう一つの篭をカウンター下の棚から取り出して、福山さんが印字してくれた清掃待ちリストを手にブースコーナーへと向かった。
ブースとを隔てる厚い扉を閉めると、フロントで流れていたUSENの音は一切聞こえなくなる。しんと静まり返った空間に、カチャカチャという食器が鳴る音と、マウスのクリック音。それ以外はすでに眠りについている誰かのイビキが微かに耳に届くくらいだろうか。四万冊のコミックが並ぶ天井まである木製の本棚と、雑誌や新聞用のラック。そして貸し出し用スリッパとブランケットが収められた棚の上には蔵書検索の為のパソコンが設置されている。
その横を通り過ぎるとすぐ手前には禁煙エリア。さらに奥にある扉の向こうは喫煙エリアになっている。全部で五十ブースあるからネットカフェとしては中規模くらいにはなるのだろうか? シートの種類は三種類。フラット、リクライニング、キャスターで、夜勤の時間帯では靴を脱いで足を伸ばせるフラットシートが一番人気だ。
この店でバイトするようになって、もうすぐ三年が経つ。別に昼間の仕事の給与が少ないってわけじゃない。ワンルームマンションでの一人暮らしだけど、必要最低限の水準は保てていると思っている。実家にいる父も堅実な会社員で、特に大きな病気もせず定年退職まで難なく勤め上げそうな感じだ。
ただ、両親の離婚時に母に引き取られた五歳下の妹のことだけが気掛かりだった。経済力のない母には二人の子供を養育することができなかったようで、当時はまだ幼かった妹だけが母に連れられて行き、私は父と一緒に家に残った。父の元でお金には不自由することなく大学まで進学させてもらい、私は就職と同時に一人暮らしを始め、父はその後に知人に紹介されたという女性と新たな生活を始めている。
でも、母と一緒に暮らす妹は……
「あ、咲良、これから営業部のみんなで飲みに行こうって話なんだけど――」
「ごめんっ、今日はバイトが入ってる……」
私が小声で断ると、隣の席の吉川円佳が「そっかぁ……」とちょっと気マズイ顔をする。別に副業が禁止の職場ではないけれど、ダブルワークは大っぴらに推奨されてるわけでもないから腫物に触れる感じの扱いだ。同期入社で私の事情をよく知っている円佳は、「無理しないようにね」と声を掛けてくれた後、反対隣の席の近藤さんのことを誘い始めていた。
私は半日がかりでまとめた資料を課長のデスクへと持って行き、閉じられているノートパソコンの上に置いてマウスを重し代わりに乗っけた。そして、直接手渡さずに済んだことを内心でホッとする。もし課長がこの場にいたら、下手したらついでにと言って別の仕事を頼まれかねない。
――今日のシフト、人足りなかったはずだし……
週に三日ほどアルバイトとして働いているネットカフェ。今週は大学の試験前らしく、学生バイトがごっそりと休日希望を出していた。特に私と同じ夜勤は元から人数がギリギリだから、こういう時は店長が夕方からぶっ通しでシフトに入っていることが多い。
つまり、事務所に引っ込んでいて店頭へほとんど出て来ない店長は頭数に入らないから、実質は夜勤バイト二人で店を営業しなければならないということ。
――休前日だし、早めに出た方が良さそうかな。
きっと夕勤も人手が足りなくてプチパニック状態になっているはずだ。一旦帰宅して着替えている時間は勿体ないと、私は退社後そのままバイト先へと向かう。
ネットカフェ『INARI』は会社と自宅の丁度真ん中辺りにある駅から五分ほど歩いたビルの二階にテナントとして入っている。一階は賃貸専門の不動産屋で、その横の階段を上がったドアを押し開けると、木目調のカウンターに白いシャツに黒のベストとエプロンのギャルソン風制服を着た店員が出迎えてくれる。いかにも体育会系の背が高くがっしりした学生バイトの佐竹君が私の出勤に少し驚いた顔になった。
「荒川さん、早いっすねぇ。おはようっす」
「おはようございます。あれ? 佐竹君は試験は無いんですか?」
「ああ、俺、明日試験の科目がないんで」
あまりにもシフトが埋まらないからと無理矢理入れる日を作らされたらしく、佐竹君は「意外と横暴っすよね」と店長に対するグチを、事務所のあるカウンター裏へ視線を送りながら口にしている。私もそれには苦笑いを浮かべたまま、カウンター前を通り過ぎて奥にあるロッカールームへと向かった。途中、鍵を借りに事務所を覗くとパソコンデスクとスチール棚に埋もれるように店長の玉川さんが事務椅子に座ったまま仮眠していた。
ロッカーで制服へ着替えて戻ると、ブースとの間の防音扉から福山さんが出て来たところだった。手には清掃用具の入った篭を持っているからチェックアウト後の掃除に行っていたのだろう。彼女も私の顔を見て、あれっと首を捻ってからカウンター上の時計に目をやっていた。
「おはようございます。人足りないと思って、早めに来たんですけど大丈夫そう?」
「いやいやいや、めっちゃ助かります! 今日、ブース荒れまくってるんで……」
カウンターの専用パソコンで清掃完了の登録をしながら、福山さんがうんざり顔をする。受付と厨房を佐竹君に任せて一人で清掃して回っているけど、夕方に大量の退店があったおかげでまだ半分近くのブースが清掃待ち状態らしい。
「ええーっ、そうなの? じゃあ、私も清掃に行きますね」
「わ、お願いします!」
そろそろナイトパック狙いの泊まり客が入ってくる時間帯。私はもう一つの篭をカウンター下の棚から取り出して、福山さんが印字してくれた清掃待ちリストを手にブースコーナーへと向かった。
ブースとを隔てる厚い扉を閉めると、フロントで流れていたUSENの音は一切聞こえなくなる。しんと静まり返った空間に、カチャカチャという食器が鳴る音と、マウスのクリック音。それ以外はすでに眠りについている誰かのイビキが微かに耳に届くくらいだろうか。四万冊のコミックが並ぶ天井まである木製の本棚と、雑誌や新聞用のラック。そして貸し出し用スリッパとブランケットが収められた棚の上には蔵書検索の為のパソコンが設置されている。
その横を通り過ぎるとすぐ手前には禁煙エリア。さらに奥にある扉の向こうは喫煙エリアになっている。全部で五十ブースあるからネットカフェとしては中規模くらいにはなるのだろうか? シートの種類は三種類。フラット、リクライニング、キャスターで、夜勤の時間帯では靴を脱いで足を伸ばせるフラットシートが一番人気だ。
この店でバイトするようになって、もうすぐ三年が経つ。別に昼間の仕事の給与が少ないってわけじゃない。ワンルームマンションでの一人暮らしだけど、必要最低限の水準は保てていると思っている。実家にいる父も堅実な会社員で、特に大きな病気もせず定年退職まで難なく勤め上げそうな感じだ。
ただ、両親の離婚時に母に引き取られた五歳下の妹のことだけが気掛かりだった。経済力のない母には二人の子供を養育することができなかったようで、当時はまだ幼かった妹だけが母に連れられて行き、私は父と一緒に家に残った。父の元でお金には不自由することなく大学まで進学させてもらい、私は就職と同時に一人暮らしを始め、父はその後に知人に紹介されたという女性と新たな生活を始めている。
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