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第九話・川岸の変化2
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「本店のある商店街に新しく出来てたから」
そう言って川岸から手渡されたのは白色の箱。お洒落な筆記体で書かれた店名はよく読めなかったけれど、中からほんのり漂ってくるクリームの甘い香りに、穂香は瞳を輝かせる。
「わー、ありがとうございます! 食後にいただいてもいいですか?」
「田村が好きなのがあるといいんだけど……」
「甘い物は大抵好きなので大丈夫です!」
小さな個人店が並ぶ商店街の一角に、新しくケーキ屋が出来たのだという。本店を訪問する際に見つけて、ショップへの差し入れと一緒に穂香の分も買ってきてくれたらしい。箱の中を覗いてみると、フルーツタルトと苺ショート、エクレアが一つずつ入っていた。どれも見た目から可愛くて美味しそうだ。
「オーナーはどれが好きですか?」
「いや、俺は甘い物はちょっと……」
一緒に食べるつもりなのかと思っていたけれど、全て穂香のだと言ってから川岸は少し照れたように目を逸らした。元カレの栄悟もスイーツは苦手だったけれど、どこかへ立ち寄ってもお土産なんてくれたことはない。それどころか甘い匂いがすると言ってクレープ屋のキッチンカーの前を通るのでさえ嫌がって舌打ちまでしていた。
——ま、単なる本店への差し入れのついでなんだろうけど……
それでも一瞬でも自分のことを頭に思い描いてくれたことがただ嬉しい。穂香が甘い物が好きなのは飲みに行った時に弥生と一緒にデザートメニューで大騒ぎしてたのを覚えてくれていたのかもしれない。また一歩、川岸から鬼上司の印象が薄れていく。どうして今まであんなに彼のことを怖がっていたのか、不思議で仕方ない。
食後に穂香がタルトを食べている向かいで、川岸は胡瓜の浅漬けを肴に缶ビールで晩酌していた。ケーキのお礼にと急いで胡瓜を漬けて用意した。それをポリポリ音を立てて味わっているオーナーにはまたちょっと親近感が湧いてくる。これまで彼へ抱いていたイメージでは漬物なんて到底想像できなかったから。
「ああ、明日はテナント担当の坂田さんと打ち合わせが入ってるから、朝乗せてってやる。田村も早番だっただろう?」
さらっと何でもないことのように言ってくる川岸のことを、穂香は驚いた顔で見返す。
「だ、大丈夫なんですか……?」
「何が?」
「だって、オーナーと一緒に出勤してるところ、誰かに見られでもしたら……」
「同じ所へ行くのに別々なのは効率悪いだろう。俺は車なんだから、一緒に乗って行けばいい」
「いやいや、ダメです。誰かに見られて変な噂にでもなったら困りますから」
穂香が拒絶するのを川岸は理解できないと不思議そうにしている。多分、彼はここに穂香を居候させていることに対して、やましさを一つも感じてはいないからなのだろう。でも、世間の目はそうは見てくれないし、何もないのに誤解されることほど面倒なことはない。
「オーナーが良くても、私の方がダメなんです。働き辛くなるのが目に見えてますから」
「そうか、そういうものなんだな……」
「そういうものなんです」と穂香は大きく頷いてみせる。仕事に関しては神経質なほど細かいくせに、プライベートは大雑把。きっとあの日に穂香のことを拾ったのもあまり深く考えないでの行動だっただろう。この家にいて思ったほど気を遣わないでいられるのは彼のそういうところのおかげなのだと、穂香は胡瓜をポリポリ齧っている川岸のことを盗み見る。
翌朝、穂香はいつも通りに電車で通勤するつもりで先に家を出た。車で来るという川岸は後から来て、店へ顔を出す前にモールの事務所で担当者と打ち合わせすると言っていた。老朽化した内装の一部を入れ替えする為に近い定休日に工事する予定だと聞いていたから、きっとその件だろう。ショッピングモールのグランドオープンと共に出店しているから、少しずつ設備にもガタが出始めていた。
「あ、オーナー、お疲れ様です」
川岸が店へ来たのを一番に気付いたのは店頭でディスプレイのチェックをしていた店長の柚葉だった。女性客を相手に接客中だった穂香は、視線だけをちらりと動かしてから、黙って会釈するに留める。
試着室のカーテン越しに「いかがでしょうか?」と声を掛け、出て来た客と一緒にサイズ感を確かめて、他に合いそうなアイテムも積極的にお勧めしていた。
試着していたスカートと一緒にトップスを購入してくれた客を店先までお見送りした後、穂香は接客中に広げてしまった商品を整理し直す。コーディネートを提案して上手くいった時は素直に嬉しい。あの服を着て通勤する女性客のことを想像すると自然と顔がニヤけてしまう。
「田村はいつも楽しそうだな」
畳み直したカーディガンを島什器に陳列していると、すぐ傍で川岸が笑いを堪えていた。レジカウンターで店長と何か話し込んでいたと思っていたが、もう戻るつもりらしくビジネスバッグを手にしている。
「はい。接客が好きなので」
「そうだな、それが一番大事だ」
穂香の答えに川岸は満足気に頷き返してから、「お疲れ様」と後ろ手を振って店を出て行く。穂香もその後ろ姿へ向かって「お疲れ様です」と声を掛けた。
そう言って川岸から手渡されたのは白色の箱。お洒落な筆記体で書かれた店名はよく読めなかったけれど、中からほんのり漂ってくるクリームの甘い香りに、穂香は瞳を輝かせる。
「わー、ありがとうございます! 食後にいただいてもいいですか?」
「田村が好きなのがあるといいんだけど……」
「甘い物は大抵好きなので大丈夫です!」
小さな個人店が並ぶ商店街の一角に、新しくケーキ屋が出来たのだという。本店を訪問する際に見つけて、ショップへの差し入れと一緒に穂香の分も買ってきてくれたらしい。箱の中を覗いてみると、フルーツタルトと苺ショート、エクレアが一つずつ入っていた。どれも見た目から可愛くて美味しそうだ。
「オーナーはどれが好きですか?」
「いや、俺は甘い物はちょっと……」
一緒に食べるつもりなのかと思っていたけれど、全て穂香のだと言ってから川岸は少し照れたように目を逸らした。元カレの栄悟もスイーツは苦手だったけれど、どこかへ立ち寄ってもお土産なんてくれたことはない。それどころか甘い匂いがすると言ってクレープ屋のキッチンカーの前を通るのでさえ嫌がって舌打ちまでしていた。
——ま、単なる本店への差し入れのついでなんだろうけど……
それでも一瞬でも自分のことを頭に思い描いてくれたことがただ嬉しい。穂香が甘い物が好きなのは飲みに行った時に弥生と一緒にデザートメニューで大騒ぎしてたのを覚えてくれていたのかもしれない。また一歩、川岸から鬼上司の印象が薄れていく。どうして今まであんなに彼のことを怖がっていたのか、不思議で仕方ない。
食後に穂香がタルトを食べている向かいで、川岸は胡瓜の浅漬けを肴に缶ビールで晩酌していた。ケーキのお礼にと急いで胡瓜を漬けて用意した。それをポリポリ音を立てて味わっているオーナーにはまたちょっと親近感が湧いてくる。これまで彼へ抱いていたイメージでは漬物なんて到底想像できなかったから。
「ああ、明日はテナント担当の坂田さんと打ち合わせが入ってるから、朝乗せてってやる。田村も早番だっただろう?」
さらっと何でもないことのように言ってくる川岸のことを、穂香は驚いた顔で見返す。
「だ、大丈夫なんですか……?」
「何が?」
「だって、オーナーと一緒に出勤してるところ、誰かに見られでもしたら……」
「同じ所へ行くのに別々なのは効率悪いだろう。俺は車なんだから、一緒に乗って行けばいい」
「いやいや、ダメです。誰かに見られて変な噂にでもなったら困りますから」
穂香が拒絶するのを川岸は理解できないと不思議そうにしている。多分、彼はここに穂香を居候させていることに対して、やましさを一つも感じてはいないからなのだろう。でも、世間の目はそうは見てくれないし、何もないのに誤解されることほど面倒なことはない。
「オーナーが良くても、私の方がダメなんです。働き辛くなるのが目に見えてますから」
「そうか、そういうものなんだな……」
「そういうものなんです」と穂香は大きく頷いてみせる。仕事に関しては神経質なほど細かいくせに、プライベートは大雑把。きっとあの日に穂香のことを拾ったのもあまり深く考えないでの行動だっただろう。この家にいて思ったほど気を遣わないでいられるのは彼のそういうところのおかげなのだと、穂香は胡瓜をポリポリ齧っている川岸のことを盗み見る。
翌朝、穂香はいつも通りに電車で通勤するつもりで先に家を出た。車で来るという川岸は後から来て、店へ顔を出す前にモールの事務所で担当者と打ち合わせすると言っていた。老朽化した内装の一部を入れ替えする為に近い定休日に工事する予定だと聞いていたから、きっとその件だろう。ショッピングモールのグランドオープンと共に出店しているから、少しずつ設備にもガタが出始めていた。
「あ、オーナー、お疲れ様です」
川岸が店へ来たのを一番に気付いたのは店頭でディスプレイのチェックをしていた店長の柚葉だった。女性客を相手に接客中だった穂香は、視線だけをちらりと動かしてから、黙って会釈するに留める。
試着室のカーテン越しに「いかがでしょうか?」と声を掛け、出て来た客と一緒にサイズ感を確かめて、他に合いそうなアイテムも積極的にお勧めしていた。
試着していたスカートと一緒にトップスを購入してくれた客を店先までお見送りした後、穂香は接客中に広げてしまった商品を整理し直す。コーディネートを提案して上手くいった時は素直に嬉しい。あの服を着て通勤する女性客のことを想像すると自然と顔がニヤけてしまう。
「田村はいつも楽しそうだな」
畳み直したカーディガンを島什器に陳列していると、すぐ傍で川岸が笑いを堪えていた。レジカウンターで店長と何か話し込んでいたと思っていたが、もう戻るつもりらしくビジネスバッグを手にしている。
「はい。接客が好きなので」
「そうだな、それが一番大事だ」
穂香の答えに川岸は満足気に頷き返してから、「お疲れ様」と後ろ手を振って店を出て行く。穂香もその後ろ姿へ向かって「お疲れ様です」と声を掛けた。
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