ショートに託す母の想い ―親子の春をつなぐ鋏音―

S.H.L

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プロローグ ― 新しい家、新しい暮らし

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 まだ冬の気配が町に残る、ある郊外の住宅街。その一角に建つ白い一軒家の窓には、春を待ちきれないチューリップの鉢植えが並んでいた。
 この家はつい数カ月前、大橋家が引っ越してきたばかりの場所だ。周囲は畑や古くからの家々が点在し、道の向こうには小川が流れている。
 一階の奥の部屋――六畳ほどのスペースには、見慣れない重厚な理容椅子が鎮座し、壁には鏡が掛けられている。手洗い台、クロスやタオルの棚、さらには小さな作業台まで揃い、まるで小さなサロンのような雰囲気だ。

 理容師である大橋湊人は、この春で理容師歴三年になる。最初は都心の店で働いていたが、やがて「家族とゆっくり暮らせる場所で自分のペースで仕事がしたい」と思い立ち、実家のある町に戻り、中古の一軒家を買ったのだ。
 父を早くに亡くしたため、母・真理子と二人暮らし。母は高校の家庭科教諭で、近隣の進学校に勤めている。忙しい毎日だが、二人とも新しい家に満足していた。

 「湊人、クロスはどこにかけとく?」
 朝食を終えたキッチンから、母・真理子の明るい声が響いた。
 「窓の脇のラックでいいよ。今日は晴れるみたいだから、湿気も飛びやすいし」
 「なるほどね。あ、今日の夜、襟足整えてくれる?」
 「うん、白衣の準備もしとくよ」

 母はもともとショートカットが似合う人だ。背筋が伸びて、仕事熱心で、生徒たちにも慕われている。湊人が理容師になったのも、そんな母の背中を見て育ったからだろう。

 キッチンのカーテン越しに差し込む朝の光の中で、母子の静かな会話が続く。
 平和な朝のひとときだが、湊人の耳には母の職場での悩みや、生徒たちのちょっとした愚痴もよく届く。
 「昨日、体育の瑞希先生が職員室でずっと悩んでてね――娘さんのことみたい」
 「永井瑞希先生?」
 「そう。小学校高学年の娘さんがバスケやってて、中学でも続けたいけど、部活で髪を短くしなきゃいけないって…お母さんと揉めてるんだって」
 湊人は「ふーん」と相槌を打つ。
 「うちの学校、まだ部活ショートカットの伝統が残ってるんだ」
 「時代遅れと言えばそうだけどね。でも、瑞希先生は自分もバスケで青春時代を過ごした人だから、部の文化を否定しきれないみたいで…」
 「娘さん、どんな子?」
 「夏音(かのん)ちゃん。明るくてしっかりしてる子だよ。お母さんの自慢みたい」

 湊人は少しだけ、その親子のことが気になった。
 人が自分の髪に抱く想いは、案外深い。自分の手で切ることでしか知り得ない緊張や、決断の瞬間の空気。それを思うと、心のどこかで湊人もまた、その親子の悩みに何か手助けできるのでは…と感じていた。
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