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第1部
第1章:巴理髪店の椅子
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第1章:巴理髪店の椅子
ドアについた金属ベルが、ちりん、と控えめに鳴った。
「いらっしゃい」
落ち着いた声が迎える。
店主の 巴 圭介(ともえ けいすけ) 、四十代後半。
整えられた口髭と、やや渋い目元。
慎重さと誠実さの両方を感じさせる空気をまとっていた。
澪は軽く会釈し、湿った髪を手で整える。
「今日は……切りたくて」
「どれくらい?」
その問いに、澪は喉の奥が震えるのを感じた。
心の奥では答えが決まっている。だが言葉にする勇気が足りない。
視線が店内の鏡へ移る。
古い木製の大椅子。
革貼りのクッションは使い込まれ、
座る者の覚悟を静かに受け止めるような存在感があった。
店主はタオルを肩にかけ、彼女の背後に立つ。
「雨、強かったでしょう」
「はい……少し。髪も重たくて」
「じゃあ、軽くしていこう」
──違う。
軽くするだけじゃ、今日の私は壊れたままだ。
澪は、ゆっくりと口を開いた。
「……短く……短くしたいです」
店主の手が一瞬止まる。
「肩くらい?」
澪は首を振る。
「いえ……もっと。……耳にかかるのも嫌なくらい」
「ショートか。それとも──」
店主の視線が、バリカンの置かれた銀色の台へと流れた。
澪は一度唇を噛み、呼吸を整えた。
「……坊主にしてください」
その瞬間、時間が止まったようだった。
雨の音、時計の音、自分の心臓の音。
すべてが一つに溶けて、響く。
店主は一拍置いて答えた。
「……わかった。覚悟はできてる?」
「はい……お願いします」
⸻
椅子に座る音と、髪が変わる予兆
革の椅子に沈むと、背中にひんやりとした感触が広がる。
ケープがかけられ、首元が留められる。
カチリ。
金具が留まる音は、まるで「もう戻れない」という宣告のようだ。
店主は櫛を取り、澪の濡れた髪をすく。
肩より下で揺れていた黒髪が、するりと動く。
「ずいぶん、長く伸ばしてたんだね」
「……10年くらい、ずっと」
「それを全部、今日切るんだ」
澪は目を閉じ、胸の奥の重さと向き合った。
──失敗の記憶も、
──愛されたいとしがみついた時間も、
──誰かの機嫌に怯えていた自分も。
すべて、この髪と一緒に落としてしまいたい。
店主は、大きなハサミを手に取った。
金属が開閉する、あの独特の音。
シャキ、シャキ……
第一刀がどこに入るか、澪は息を呑んだ。
店主が後ろに回り、小さく確認する。
「本当に、全部いくよ?」
「……はい」
「じゃあ──始める」
シャキィン──
首の後ろで、束ねられていた長い髪が一度で切り落とされた。
重さがふっと消え、澪の身体がわずかに揺れる。
視界の端で、
黒い束が椅子の下へ落ちる のが見えた。
続いて、左右。
ハサミが次々と降りていく。
シャク──
シャキ……
ぱさ……
落ちていく髪が、雨の匂いを少しだけ残しながら床に積もる。
鏡の中の澪は、すでに別人のようだった。
耳は見え、首筋があらわになっている。
しかし、これはまだ「入り口」でしかない。
店主はハサミを置き、ついにバリカンを手に取った。
黒い機械。
スイッチを入れると、
ブゥン……
低く、腹に響く振動が店内に広がる。
澪の喉が、乾いた。
「じゃあ──いくよ」
その先端が、澪の額の中央にそっと当てられる。
次の瞬間、
ジョリ……ッ!!
音とともに、澪の髪は逆らうことなく剃り落とされていった。
ドアについた金属ベルが、ちりん、と控えめに鳴った。
「いらっしゃい」
落ち着いた声が迎える。
店主の 巴 圭介(ともえ けいすけ) 、四十代後半。
整えられた口髭と、やや渋い目元。
慎重さと誠実さの両方を感じさせる空気をまとっていた。
澪は軽く会釈し、湿った髪を手で整える。
「今日は……切りたくて」
「どれくらい?」
その問いに、澪は喉の奥が震えるのを感じた。
心の奥では答えが決まっている。だが言葉にする勇気が足りない。
視線が店内の鏡へ移る。
古い木製の大椅子。
革貼りのクッションは使い込まれ、
座る者の覚悟を静かに受け止めるような存在感があった。
店主はタオルを肩にかけ、彼女の背後に立つ。
「雨、強かったでしょう」
「はい……少し。髪も重たくて」
「じゃあ、軽くしていこう」
──違う。
軽くするだけじゃ、今日の私は壊れたままだ。
澪は、ゆっくりと口を開いた。
「……短く……短くしたいです」
店主の手が一瞬止まる。
「肩くらい?」
澪は首を振る。
「いえ……もっと。……耳にかかるのも嫌なくらい」
「ショートか。それとも──」
店主の視線が、バリカンの置かれた銀色の台へと流れた。
澪は一度唇を噛み、呼吸を整えた。
「……坊主にしてください」
その瞬間、時間が止まったようだった。
雨の音、時計の音、自分の心臓の音。
すべてが一つに溶けて、響く。
店主は一拍置いて答えた。
「……わかった。覚悟はできてる?」
「はい……お願いします」
⸻
椅子に座る音と、髪が変わる予兆
革の椅子に沈むと、背中にひんやりとした感触が広がる。
ケープがかけられ、首元が留められる。
カチリ。
金具が留まる音は、まるで「もう戻れない」という宣告のようだ。
店主は櫛を取り、澪の濡れた髪をすく。
肩より下で揺れていた黒髪が、するりと動く。
「ずいぶん、長く伸ばしてたんだね」
「……10年くらい、ずっと」
「それを全部、今日切るんだ」
澪は目を閉じ、胸の奥の重さと向き合った。
──失敗の記憶も、
──愛されたいとしがみついた時間も、
──誰かの機嫌に怯えていた自分も。
すべて、この髪と一緒に落としてしまいたい。
店主は、大きなハサミを手に取った。
金属が開閉する、あの独特の音。
シャキ、シャキ……
第一刀がどこに入るか、澪は息を呑んだ。
店主が後ろに回り、小さく確認する。
「本当に、全部いくよ?」
「……はい」
「じゃあ──始める」
シャキィン──
首の後ろで、束ねられていた長い髪が一度で切り落とされた。
重さがふっと消え、澪の身体がわずかに揺れる。
視界の端で、
黒い束が椅子の下へ落ちる のが見えた。
続いて、左右。
ハサミが次々と降りていく。
シャク──
シャキ……
ぱさ……
落ちていく髪が、雨の匂いを少しだけ残しながら床に積もる。
鏡の中の澪は、すでに別人のようだった。
耳は見え、首筋があらわになっている。
しかし、これはまだ「入り口」でしかない。
店主はハサミを置き、ついにバリカンを手に取った。
黒い機械。
スイッチを入れると、
ブゥン……
低く、腹に響く振動が店内に広がる。
澪の喉が、乾いた。
「じゃあ──いくよ」
その先端が、澪の額の中央にそっと当てられる。
次の瞬間、
ジョリ……ッ!!
音とともに、澪の髪は逆らうことなく剃り落とされていった。
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