刃先に触れる恋 —君が短くなるたび、僕は惹かれていく—

S.H.L

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第1部

第8章:刈り込まれた輪郭と、揺れはじめる心

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第8章:刈り込まれた輪郭と、揺れはじめる心

1|スポーツ刈りの朝、鏡の前で気づいた変化

 スポーツ刈りにしてから翌朝。

 澪は鏡に向かった瞬間、
 昨日とは違う自分に目を奪われた。

 頭頂部の10mmほどの髪が、
 自然に立ち上がって影を作る。
 側頭部は3mmで引き締まり、
 輪郭が驚くほどくっきりしている。

 (……顔が、変わって見える)

 ほお骨のライン。
 眉の高さ。
 首筋の長さ。

 髪を失ったぶん、
 “顔そのもの”が印象として残る。

 そのせいか、
 表情が前より明確に見える。

 (……この髪型、すごく好き)

 自分で自分を肯定する感覚は、
 昔の澪にはなかったものだ。



2|会社での反応が、静かに変わり始める

 出勤すると、
 いつもの後輩がぱっと近づいてきた。

 「澪さん! 今日なんかめっちゃイケてる!」

 「ほんと?」

 「はい! スポーツ刈りってこんなに似合う人いるんですね……。
  なんか、モデルさんみたいです!」

 「それ褒めすぎだよ」

 笑いながらも、
 心の奥が温かく満たされる。

 数人の男性社員も、
 遠巻きにではあるが、

 「……あの髪型、似合うな」
 「うちの課で一番雰囲気変わったよな」

 と話しているのが聞こえた。

 (スキンヘッドの時の驚きとも違う……
  “スタイルがある”って見られてる)

 その違いが、澪の背筋を自然に伸ばしていた。



3|なぜか、巴理髪店が“恋しくなる”夜

 家に帰ると、
 鏡の前に立って髪を触る癖がついていた。

 (スポーツ刈り……もうちょっと短くてもいいかも)

 頭の左側を撫でる。
 ざらり、とした感触。
 風を受けると微かに毛が揺れる。

 そのたびに思い出すのは、
 巴理髪店の椅子。

 ――圭介が指で頭のラインを確かめるときの静かな手つき。
 ――「この長さならカッコよく締まるよ」の声。
 ――耳周りを刈るときの、集中した眼差し。

 (なんで……こんなに思い出すんだろう)

 髪を切ってもらっただけ。
 それだけのはずなのに。

 関係は“顧客と理容師”のまま。
 けれど、どこか違う。

 澪は気づく。

 (……圭介さんの手、好きなんだ)

 それは恋だと断言するには曖昧すぎる。
 でも、胸の奥が静かにざわつく。



4|三週間後、また“中途半端な長さ”になる

 スポーツ刈りにしてから三週間。

 頭頂部の10mmが、
 15mm近くになってふわりと倒れ始めた。

 側頭部の3mmも、
 5mmくらいになってきて、
 カチッとしたラインがぼやけてくる。

 (……また、行きたい)

 伸びかけの状態が嫌なのではなく、
 整えてもらえる時間
 そのものが恋しくなっていた。

 「行こうかな……」

 独り言が漏れる。



5|夕方の巴理髪店は、柔らかい光に包まれていた

 日が傾いた時間。
 赤・白・青のサインポールが、
 黄金色の光を受けて揺れる。

 扉を開けると、金属ベルの音がした。

 「いらっしゃい」

 圭介が振り返った。

 その目が澪の髪を見た瞬間、
 ほんのわずかに笑った。

 「三週間。予想通り来たね」

 「予想通り……?」

 「スポーツ刈りは、一番再来店が早いんだ。
  形がいいぶん、崩れも気になる」

 (……気づいてたんだ)

 それが少し嬉しかった。



6|“担当”という言葉が、胸に響いた瞬間

 ケープがかけられ、
 圭介が澪の頭に手を置いた。

 その瞬間、指の温度がじわりと伝わる。

 「前回より、少し短めで行く?」

 「……はい」

 「じゃあ、今日は“俺のおすすめ”でやるよ。
  担当の意地があるからな」

 (担当……)

 恋人に言われたら重いかもしれない言葉。
 けれど“理容師としての担当”は、
 なぜこんなに胸に響くのだろう。

 「圭介さんの、おすすめで……お願いします」

 「任せな」

 それは“髪を預ける”以上の意味を含んでいた。



7|バリカンの音が、前より近く感じる

 バリカンのスイッチが入る。

 ブゥン……

 以前より、音が近い。
 いや――澪が、意識しすぎているのかもしれない。

 側頭部に刃が当たる。

 ジョリ……ッ

 1mmのアタッチメント。
 前回よりさらに短い。

 「ひゃっ……」

 澪は思わず声を上げた。
 皮膚の近くを直接削るような感覚で、
 くすぐったい。

 圭介は笑いながら言った。

 「動かないで。これ、集中いるから」

 「は、はい……」

 背後に圭介の気配を感じる。

 近い。

 呼吸の間合いが、
 いつもより数センチ手前に感じる。

 ――胸の奥が騒ぐ。



8|耳元で囁く声が、なぜか熱を帯びる

 耳の後ろを刈るとき、
 圭介は指で耳を軽く押さえる。

 その指が、
 ひんやりしていて気持ちいい。

 「ここ、立ちやすいから……
  ちょっと強めにいくよ」

 その声が、耳のすぐ横で落ちる。

 近い。

 澪の心臓が跳ねた。

 (……なんでこんなにドキドキしてるの)

 髪を切ってもらうだけ。
 だけど、
 髪がないぶん、触れられる場所がダイレクトで、
  距離が近く感じる。

 スキンヘッドのときとは違う。
 スポーツ刈りは頭皮に質感が残っているから、
 触れられるたび意味が変わる。

 泡も、剃刀もない。
 純粋な“頭皮と手”の距離。



9|仕上げのハサミ――髪を切る音が心に入ってくる

 刈り上げが終わると、
 圭介はハサミで頭頂部を整え始めた。

 シャキ……シャキ……

 音が、やけに綺麗に響く。

 「前より強めに立ち上がるようにした。
  こっちのほうが、澪には合う」

 「……なんで、そう思ったんですか?」

 「スキンヘッドの時から思ってた。
  澪は、表情が素直に出るタイプだ。
  表情が強い人は、髪型も“線が強いほうが映える”」

 (見てたんだ……ちゃんと)

 スキンヘッドの時――
 剃刀を当てられながら、
 圭介が“鏡越しに見ていた視線”を思い出す。

 あの視線は、
 仕事の集中だけじゃなかったのだと
 今になって気づく。



10|鏡に映る自分は、もう“誰のための髪”でもなかった

 ケープが外され、
 澪はゆっくりと立ち上がった。

 鏡に映る姿を見た瞬間、
 思わず息を呑んだ。

 ――前よりさらに短いスポーツ刈り。
 ――側頭部は1mmで引き締まり、輪郭がくっきり。
――頭頂部の短髪は軽く立ち、影を作る。
 ――首筋が細く見えて、目元が強く映える。

 (……カッコいい)

 自分を見て、
 そう思えたのは初めてかもしれない。

 圭介が後ろで言った。

 「似合いすぎだな」

 その言い方は“お世辞”ではなく、
 本気だった。

 胸が熱くなる。



11|店を出るとき、圭介が言った言葉

 会計を済ませ、
 ドアに手をかけたときだった。

 「澪」

 呼ばれて振り返る。

 圭介は、
 どこか言いにくそうにしながら言った。

 「……また、すぐ来るんだろ?」

 「え……?」

 「その顔、すぐ伸びるの嫌そうな顔してる」

 (見られてた……)

 胸が、どくんと鳴る。

 澪は照れながら頷いた。

 「……はい。たぶん、また来ます」

 圭介は微笑む。

 「待ってる」

 その一言は、
 昨日までの澪なら聞き逃していた。

 でも今の澪には――
 心の奥に、静かで確かな熱を生んだ。

 (圭介さん……)

 巴理髪店を出ると、
 風が側頭部を滑る。

 スポーツ刈りの短毛が微かに震え、
 鼓動と同じリズムで揺れた。
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