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第1部
第9章:折れそうな夜と、刈り込む音に救われる心
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第9章:折れそうな夜と、刈り込む音に救われる心
1|新しい仕事に抜擢されたのは、スポーツ刈りのせいだと気づいた日
スポーツ刈りにしてから三週間後のことだった。
営業三課の会議。
部長の市村が資料をめくり、
澪のほうへ視線を向けた。
「三枝。来期のプロジェクトだが……お前に任せたい」
「……え?」
「現場に出ることが多くなる。
取引先との交渉も増える。
お前の“まっすぐな印象”が、現場に向いている」
(まっすぐ……)
髪を剃ってから言われることが増えた言葉。
澪は驚きつつも、力強く頷いた。
「はい。やらせてください」
市村は短くうなずいた。
「期待している」
その言葉は、
三ヶ月前の自分なら得られなかったものだ。
(髪を剃ったから……じゃなくて、
剃って“変わった私”を見て、判断したんだ)
胸の奥が熱くなる。
⸻
2|しかし初日の交渉は“失敗”だった
プロジェクト初日。
澪は取引先の担当者と面談に向かったが、
予想外の壁にぶつかった。
相手企業の担当者は、
資料を受け取った瞬間、冷たく言った。
「……こんな生煮えの提案、うちが飲むと思ってるの?」
「改善点は、もちろんご一緒に詰めさせて――」
「そんな段階じゃない。
根本からやり直してこい」
その言葉は鋭く、
会議室の空気を凍らせた。
澪は一度呼吸を整えたが、
うまい反論が見つからない。
会議はわずか15分で終わった。
(……やってしまった)
会社に戻る電車の中で、
胸が重く沈んだ。
(“まっすぐな印象の三枝に任せる”って……
言ってくれたのに)
スポーツ刈りの頭をそっと撫でる。
短毛がざらりと指を押し返す。
その触り心地が、今日は逆に苦しかった。
(変われたと思ってたのに……
本当はまだ全然弱いままじゃない……)
⸻
3|夜、まっすぐ帰れなくて“あの店”の前に立っていた
オフィスを出ても、澪は家に帰る気になれなかった。
夜風が側頭部をなでる。
そのたびに、胸の奥がざわついた。
(どこに行こう……?)
気がつけば、
駅とは逆方向に歩いていた。
路地に入る。
赤・白・青のサインポールが回っている。
巴理髪店。
“髪を整える場所”である前に――
澪にとっては“気持ちを整える場所”でもあった。
(……開いてる)
扉の明かりが、
薄く路地を照らしている。
澪は、吸い寄せられるように近づき、
扉の前で小さく息を吸った。
ちりん。
金属ベルが鳴いた。
⸻
4|“泣きそうな顔”を見た圭介の反応
「いらっしゃい……って、あれ?」
圭介は、
澪の顔を見た瞬間に表情を変えた。
「どうした。仕事で何かあったな?」
(わかるんだ……)
澪は、返事をしようとしたが、
胸が詰まって声が出なかった。
圭介は椅子を指し示す。
「ほら、座れ。髪、整えてやる」
「……今日は切るつもりじゃ――」
「切らなくていい。
ただ座れ。話せるなら話せ。
話したくないなら、黙っててもいい」
その言葉に、
こらえていたものが一気にこぼれそうになった。
澪は、静かに椅子に座った。
革がひんやりして、背中に馴染む。
(あ……この感覚……)
ここに座ると、
どんな感情でも受け止められる気がする。
⸻
5|圭介の“黙る優しさ”が沁みる
ケープはかけられなかった。
今日は切らないと分かっているから。
圭介は後ろに立ち、
澪のスポーツ刈りにそっと手を置いた。
「……だいぶ伸びたな。
ちょっとサイドが立ってきてる」
その声は、
“慰め”でも“おせっかい”でもなく、
ただ澪の存在を肯定する音だった。
澪は黙ったまま、
短毛の上を撫でる圭介の手の動きを感じていた。
圭介が何も聞かないことが、
逆に胸にしみた。
(聞かれたら泣く……
でも、何も言われなくても……泣きそう)
呼吸が浅くなる。
⸻
6|「落ち込むと、髪が気になるタイプだな」
圭介は、ゆっくりと澪の側頭部に触れた。
「落ち込んでるとき、
髪の長さやラインが気になるタイプだな、澪は」
「え……?」
圭介は続ける。
「初めて来たときも、
気持ちがいっぱいいっぱいな顔してた」
「……バレてたんですか」
「バレバレ。
でも、黙っててほしそうだったから黙ってた」
澪は、胸の奥に何かが触れる。
(……見てたんだ、ちゃんと)
誰も見ていないと思っていた。
誰にも気づかれたくなくて、
ただ髪を剃って逃げるように変わりたかった。
圭介の手が、
頭頂部の短髪を軽く押し戻す。
「この長さ、扱いにくいだろ。
前より少しだけ短くしたほうが、
落ち着くんじゃないか?」
「……落ち着きます。
たぶん、切ったら……泣きそうです」
圭介は一瞬手を止め、
柔らかい声で言った。
「泣いていいよ。
ここは泣く店だ」
⸻
7|“切ってください”と言うまでの沈黙
澪は、しばらく目を閉じていた。
圭介の手が頭を包む感触。
バリカンの置かれた台の光。
外の路地の気配。
(……切ってほしい)
その気持ちが、胸の奥で育っていく。
やがて澪は、小さく口を開いた。
「……切ってください」
圭介は、少しだけ微笑んだ。
「うん。任せろ」
ケープが澪の肩を包む音が、
今日はとても優しかった。
⸻
8|“安心を刈る”ようなバリカンの音
圭介がバリカンを手に取り、
スイッチが入る。
ブゥン……
その低い振動が、
澪の胸の奥まで落ちていく感じがした。
側頭部に当たる。
ジョリ……ジョリジョリ……
今日は泣きそうになるほど、
その音が優しく聞こえた。
短毛が落ちるたび、
胸の重さがふっと軽くなる。
(あ……泣きそう……)
圭介は何も言わず、
ただ丁寧に、一定のリズムで刈り込んでいく。
耳元に落ちる毛の感触。
頭皮に伝わる震え。
その全部が、
“あなたはここにいていい”と
言ってくれている気がした。
⸻
9|仕上げのハサミが、涙腺を揺らす
バリカンを置き、
圭介がハサミを手に取る。
シャキ……シャキ……
頭頂部のほんの少しの長さを整える。
その音に合わせて、
胸の奥がじんと熱くなる。
(あ……これ……だめだ)
ハサミのリズムが、
心の中の“溜まっていた音”を崩していく。
圭介が小さく言った。
「澪。
頑張りすぎてるんじゃないか?」
その一言で、
涙が、止まらなかった。
⸻
10|圭介がそばにいるだけで“救われる夜”
澪は、声を出さずに泣いた。
涙がケープを濡らし、
落ちた短い毛がそこに貼りつく。
圭介は何も言わなかった。
ただ背中越しに、
“泣いていい場所だ”と
空気で伝えてくる。
数分後、
涙が落ち着いた頃、
圭介はタオルをそっと渡した。
「……ありがとう、ございます」
「礼はいらない」
優しい声だった。
⸻
11|鏡に映った顔は、泣いても強かった
ケープが外される。
鏡の中の澪は、
涙の跡が残ったまま、
少し強いスポーツ刈り
になっていた。
泣いた顔なのに、前よりずっと綺麗に見える。
(……ああ。強くなりたい時は、
またこの髪にしよう)
自然とそう思った。
⸻
12|帰り際、圭介が言った言葉
店を出る直前、
圭介が呼び止めた。
「澪」
振り返る。
圭介は少しだけ目をそらしながら言った。
「無理するなよ。
落ち込んだら……また来い」
(……どうして、この人の一言はこんなに沁みるんだろう)
澪は、短く息を吸って答えた。
「……はい。また来ます」
その返事が、
まるで約束のように響いた。
⸻
13|帰り道、風が“味方”に変わった気がした
路地を出ると、
夜風がスポーツ刈りの側頭部を撫でる。
短毛がざわっと震えて、
さっきまであった胸の痛みが
風と一緒に抜け落ちる。
(大丈夫だ。
挫折しても、また戻れる場所がある)
巴理髪店の灯りが
遠くで揺れていた。
1|新しい仕事に抜擢されたのは、スポーツ刈りのせいだと気づいた日
スポーツ刈りにしてから三週間後のことだった。
営業三課の会議。
部長の市村が資料をめくり、
澪のほうへ視線を向けた。
「三枝。来期のプロジェクトだが……お前に任せたい」
「……え?」
「現場に出ることが多くなる。
取引先との交渉も増える。
お前の“まっすぐな印象”が、現場に向いている」
(まっすぐ……)
髪を剃ってから言われることが増えた言葉。
澪は驚きつつも、力強く頷いた。
「はい。やらせてください」
市村は短くうなずいた。
「期待している」
その言葉は、
三ヶ月前の自分なら得られなかったものだ。
(髪を剃ったから……じゃなくて、
剃って“変わった私”を見て、判断したんだ)
胸の奥が熱くなる。
⸻
2|しかし初日の交渉は“失敗”だった
プロジェクト初日。
澪は取引先の担当者と面談に向かったが、
予想外の壁にぶつかった。
相手企業の担当者は、
資料を受け取った瞬間、冷たく言った。
「……こんな生煮えの提案、うちが飲むと思ってるの?」
「改善点は、もちろんご一緒に詰めさせて――」
「そんな段階じゃない。
根本からやり直してこい」
その言葉は鋭く、
会議室の空気を凍らせた。
澪は一度呼吸を整えたが、
うまい反論が見つからない。
会議はわずか15分で終わった。
(……やってしまった)
会社に戻る電車の中で、
胸が重く沈んだ。
(“まっすぐな印象の三枝に任せる”って……
言ってくれたのに)
スポーツ刈りの頭をそっと撫でる。
短毛がざらりと指を押し返す。
その触り心地が、今日は逆に苦しかった。
(変われたと思ってたのに……
本当はまだ全然弱いままじゃない……)
⸻
3|夜、まっすぐ帰れなくて“あの店”の前に立っていた
オフィスを出ても、澪は家に帰る気になれなかった。
夜風が側頭部をなでる。
そのたびに、胸の奥がざわついた。
(どこに行こう……?)
気がつけば、
駅とは逆方向に歩いていた。
路地に入る。
赤・白・青のサインポールが回っている。
巴理髪店。
“髪を整える場所”である前に――
澪にとっては“気持ちを整える場所”でもあった。
(……開いてる)
扉の明かりが、
薄く路地を照らしている。
澪は、吸い寄せられるように近づき、
扉の前で小さく息を吸った。
ちりん。
金属ベルが鳴いた。
⸻
4|“泣きそうな顔”を見た圭介の反応
「いらっしゃい……って、あれ?」
圭介は、
澪の顔を見た瞬間に表情を変えた。
「どうした。仕事で何かあったな?」
(わかるんだ……)
澪は、返事をしようとしたが、
胸が詰まって声が出なかった。
圭介は椅子を指し示す。
「ほら、座れ。髪、整えてやる」
「……今日は切るつもりじゃ――」
「切らなくていい。
ただ座れ。話せるなら話せ。
話したくないなら、黙っててもいい」
その言葉に、
こらえていたものが一気にこぼれそうになった。
澪は、静かに椅子に座った。
革がひんやりして、背中に馴染む。
(あ……この感覚……)
ここに座ると、
どんな感情でも受け止められる気がする。
⸻
5|圭介の“黙る優しさ”が沁みる
ケープはかけられなかった。
今日は切らないと分かっているから。
圭介は後ろに立ち、
澪のスポーツ刈りにそっと手を置いた。
「……だいぶ伸びたな。
ちょっとサイドが立ってきてる」
その声は、
“慰め”でも“おせっかい”でもなく、
ただ澪の存在を肯定する音だった。
澪は黙ったまま、
短毛の上を撫でる圭介の手の動きを感じていた。
圭介が何も聞かないことが、
逆に胸にしみた。
(聞かれたら泣く……
でも、何も言われなくても……泣きそう)
呼吸が浅くなる。
⸻
6|「落ち込むと、髪が気になるタイプだな」
圭介は、ゆっくりと澪の側頭部に触れた。
「落ち込んでるとき、
髪の長さやラインが気になるタイプだな、澪は」
「え……?」
圭介は続ける。
「初めて来たときも、
気持ちがいっぱいいっぱいな顔してた」
「……バレてたんですか」
「バレバレ。
でも、黙っててほしそうだったから黙ってた」
澪は、胸の奥に何かが触れる。
(……見てたんだ、ちゃんと)
誰も見ていないと思っていた。
誰にも気づかれたくなくて、
ただ髪を剃って逃げるように変わりたかった。
圭介の手が、
頭頂部の短髪を軽く押し戻す。
「この長さ、扱いにくいだろ。
前より少しだけ短くしたほうが、
落ち着くんじゃないか?」
「……落ち着きます。
たぶん、切ったら……泣きそうです」
圭介は一瞬手を止め、
柔らかい声で言った。
「泣いていいよ。
ここは泣く店だ」
⸻
7|“切ってください”と言うまでの沈黙
澪は、しばらく目を閉じていた。
圭介の手が頭を包む感触。
バリカンの置かれた台の光。
外の路地の気配。
(……切ってほしい)
その気持ちが、胸の奥で育っていく。
やがて澪は、小さく口を開いた。
「……切ってください」
圭介は、少しだけ微笑んだ。
「うん。任せろ」
ケープが澪の肩を包む音が、
今日はとても優しかった。
⸻
8|“安心を刈る”ようなバリカンの音
圭介がバリカンを手に取り、
スイッチが入る。
ブゥン……
その低い振動が、
澪の胸の奥まで落ちていく感じがした。
側頭部に当たる。
ジョリ……ジョリジョリ……
今日は泣きそうになるほど、
その音が優しく聞こえた。
短毛が落ちるたび、
胸の重さがふっと軽くなる。
(あ……泣きそう……)
圭介は何も言わず、
ただ丁寧に、一定のリズムで刈り込んでいく。
耳元に落ちる毛の感触。
頭皮に伝わる震え。
その全部が、
“あなたはここにいていい”と
言ってくれている気がした。
⸻
9|仕上げのハサミが、涙腺を揺らす
バリカンを置き、
圭介がハサミを手に取る。
シャキ……シャキ……
頭頂部のほんの少しの長さを整える。
その音に合わせて、
胸の奥がじんと熱くなる。
(あ……これ……だめだ)
ハサミのリズムが、
心の中の“溜まっていた音”を崩していく。
圭介が小さく言った。
「澪。
頑張りすぎてるんじゃないか?」
その一言で、
涙が、止まらなかった。
⸻
10|圭介がそばにいるだけで“救われる夜”
澪は、声を出さずに泣いた。
涙がケープを濡らし、
落ちた短い毛がそこに貼りつく。
圭介は何も言わなかった。
ただ背中越しに、
“泣いていい場所だ”と
空気で伝えてくる。
数分後、
涙が落ち着いた頃、
圭介はタオルをそっと渡した。
「……ありがとう、ございます」
「礼はいらない」
優しい声だった。
⸻
11|鏡に映った顔は、泣いても強かった
ケープが外される。
鏡の中の澪は、
涙の跡が残ったまま、
少し強いスポーツ刈り
になっていた。
泣いた顔なのに、前よりずっと綺麗に見える。
(……ああ。強くなりたい時は、
またこの髪にしよう)
自然とそう思った。
⸻
12|帰り際、圭介が言った言葉
店を出る直前、
圭介が呼び止めた。
「澪」
振り返る。
圭介は少しだけ目をそらしながら言った。
「無理するなよ。
落ち込んだら……また来い」
(……どうして、この人の一言はこんなに沁みるんだろう)
澪は、短く息を吸って答えた。
「……はい。また来ます」
その返事が、
まるで約束のように響いた。
⸻
13|帰り道、風が“味方”に変わった気がした
路地を出ると、
夜風がスポーツ刈りの側頭部を撫でる。
短毛がざわっと震えて、
さっきまであった胸の痛みが
風と一緒に抜け落ちる。
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